第10話 狐の章五


「あんたさ、いい加減飽きないの?」

「なにがです?」

 姉は何を言っているのでしょうか。

「あの人間と会うことがよ。いい加減信じられないんだけど」

 何を信じられないのでしょうね。わかりました。これが僻みというやつですね。

「前から言っているでしょう? 姉さんもあの人間に会えばわかりますよ。とってもいい人間ですし。今度一緒に行ってみませんか?」

「冗談」

 私は本気で言っているのですけどね。正直なところ、姉と一緒に行って人間が驚く顔が見たいのです。さぞかし驚くことでしょう。

「私の代わりに行ってもいいんですよ? きっと見分けがつかないでしょうし」

「……あんた、それ本気で言ってんの?」

 本気ですけど、私なにか間違ったこと言ってますかね?

 訳がわからずに首をかしげるだけの私に姉は続きを言いました。

「それってさ、毎日のように会ってるのにあんただって分かってないってことよ? 嫌じゃないの?」

「全然? それほど私と姉が似ているということでしょう? それは私にとって嬉しいことですけど」

「あんたは……」

 姉は頭をかかえて俯いてしまいました。私そんなに変なことを言ったのでしょうか?

「姉さん、一度でいいからあの人間に会ってみてください。そうすれば間違いだと気付くはずです」

「結構。私は人間と触れ合うなんてことはしない。あんたは好きにすればいいけど、あんたのその感情を私に押し付けないで」

 どうしてこうなんでしょうか。どうしてこうも考えが違うのでしょうか。同じ腹から産まれた者同士なのに。

 いつも人間の話になると平行線。その線は交わることはないのでしょうか。

 また寝ているときに口にご飯をつっこんでやりましょうか。あの味がわかれば姉だって我慢が効かなくなるでしょうし。

「あんた、良からぬことを考えてないでしょうね?」

「はて、なんのことかさっぱりですね」

 そこから私たちは取っ組み合いの喧嘩をしました。まったく自慢の毛皮が姉のヨダレでべとべとですよ。これじゃあ人間に撫でてもらえないじゃないですか。って言っても撫でてもらったことはないんですけどね。

 困った姉を持つと妹は苦労しますね。



 それからいつものように人間にご飯をもらっていたときのことです。

 ふいに人間が何も持たずに手を差し出してきたのです。

「おや? これはどういった意味があるのでしょう? 舐めろと言っているのでしょうか?」

 まったく欲しがりな人間ですね。しかたがありませんね。

「これはいつものお礼です」

 私はペロリと人間の指先を舐めてあげました。

「もひとつおまけに」

 すりすりと私は顔を人間の指にこすり付けたのです。予想通りの人間の顔でした。見ていてとても面白いものがありますね。

 人間も慣れたのか私の顔を撫でてくれました。しかしながら指先から恐怖心が伝わってきます。

「大丈夫ですよ。噛みついたりしませんから」

 私は人間を安心させようと自分からすり寄って行きました。

 撫でるという行為は私たちにとって毛づくろいをする行為に似ています。それは相手を信用していないと始まりません。私は人間を信用しています。いつからかは分かりませんけど、この人間は絶対に私を裏切らないでしょう。

 ただの勘ですけどね。野生の勘って馬鹿にできないもんですよ。

「さてさて、次は私の番ですよ」

 私は人間を注意深く観察してみました。こんなに間近でみることなんて今までなかったのでいい機会です。

「ふぅ~ん、座っていてもやっぱり大きいですね」

 私の何倍あるんでしょうか。次に匂いですね。鼻先を人間に押し付けてスンスンと嗅いでみます。これで人間の匂いは完全に覚えました。

 っくしゅん。

 息を吸うことに必死でついつい。

 あ、あれ? なんだか人間が悲しげな表情をしていますね。別に臭いとかそういった意味ではないんですよ? いや本当に。むしろ良い匂いだと思いますよ?

 私が必死で弁解をしていると人間は何やら一人でぶつぶつと言い出しました。

「あ、あの。謝りますから」

 どうやら自分の世界に閉じこもってしまったようです。人間の心は繊細なんですね。覚えておきましょう。

 そんなことを思いながら人間を見た時でした。人間の眼に生気が戻ってきたのです。

 くわっと眼を見開く人間。

「あ、おかえんなさい」

「お前は今日からシロ子だ」

「へ?」

 この人間は何を言っているのでしょうか。私がくしゃみをしたことがよほどショックだったようですね。

「いいか? シロ子で」

 もう何を言っているのか訳がわかりませんので、とりあえず元気を出してとすり寄ってみます。すると人間は元気を取り戻したようでした。

 まったく世話が焼けますね。人間は非常に繊細ですぐに落ち込むっと。メモメモ。

 ともあれ、今日は人間との距離がとても縮まったような気がしました。これはかなり進展をしたんじゃないでしょうか。

 よってご飯もより豪華になることを期待せざるおえません。

 きっとこの人間はまだまだ私に驚きと喜びを与えてくれるはずだと信じています。



 それから人間は会うたびに『シロ子』と何度も言いました。私がそれを私の名前なんだと理解するのにさほど時間はかかりませんでした。

 何度も言われれば覚えられますしね。

 それに私はこの名前がとても気に入りました。姉にこの喜びを伝えると『まんまじゃん』という答えが返ってきたので、言うまでもなくとっくみあいの喧嘩が始まりました。

 あまりにも腹が立ちましたので、少々本気で姉のおしりに噛みついてあげました。中々弾力のあるいいおしりでしたよ。あの人間のご飯には負けますけどね。

 人間が私の名前を呼ぶたびに私は人間の方を見ます。すると人間は嬉しそうな顔をするのです。まるで子のようだと思いました。

 ただ一つだけ不満があります。まぁそれは言っても仕方がないので言いませんけど。それに言ったところで解決するとは到底思えないですしね。

 近頃本気で会話ができたらいいのにと思います。

 私の想いを聞いてほしい。伝えたい。

 そして人間の想いを聞きたい。応えたい。

 そんなことばかりを思っています。どうすればこの想いを人間に伝えられるのでしょう。どうすれば会話ができるのでしょう。

 聞きたい。

 言いたい。

 知りたい。

 私はワガママなのでしょうか。きっとそうなのでしょう。

「さて、そろそろ帰るよシロ子。また明日な」

「ええ、また明日ですね」

 人間は帰るようです。もうここに住めばいいのにと思いますけど、さすがに人間はここに住めるわけないでしょうね。

「寒いのでお気をつけて」

 私は森へ帰り、人間も帰って行きました。

 そして――これが私が人間を見た”最後の瞬間”だったのです。


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