第9話 人間の章五


 あれから狐はかなりなついてくれた。あの高価な餌のおかげだろうと信じたい。

 いつものように餌をあげてそれを食べる姿を眺める。この瞬間だけは寒さを忘れることができる。手で直接餌を食べることに抵抗はないようだった。

 そこで俺は何も持たずに手を差し伸べてみる。

「頼むから噛むなよ」

 恐怖がないと言えば嘘になる。狐だって肉食だし、それなりに鋭い牙は生えている。

 狐は俺の指をふんふんと嗅いで、餌のお礼だとばかりにペロリと舐める。そして顔を摺り寄せてきたのだ。

 俺は冷静にそれを受け入れられた。叫んだりはしなかったぞ。

 そのまま俺は指の背で狐の顔を撫でた。すると狐は眼を瞑り、されるがままだ。

 これは手のひらで頭を撫でても大丈夫なのだろうか。正直めっちゃ怖いんだけど。この行為が間違っていた場合、今まで積み重ねてきたものが全て崩れるかもしれない。

 そしてその崩れたものは二度と元には戻らないだろう。野生とはそういうものだ。

 俺は指の背で撫でていたが、それを手の内側に変えた。毛皮の感触がダイレクトに伝わってくる。

「やわらかい」

 めっちゃふかふかだった。野生の、狐の毛というのはもっとこうゴワゴワしたイメージがあったが、この狐の毛並みは素晴らしい。きっといいものを食べているんだろう。

 俺がやった最高級ささみジャーキーとかなっ。

 狐は俺の手にすり寄ってくる。甘えているのだろうか。

 意を決して俺は狐の顔を包み込むように、片手で顔全体を撫でた。

「撫でさせてくれた……」

 拒絶されることもなく俺は安堵した。もっと撫でれとばかりに狐はすり寄ってくる。

「お前、けっこう甘えん坊だな」

 きっとまだ餌がほしいんだろう。俺は追加のジャーキーを取り出して狐に食わせた。本当においしそうに食べる。

 食べ終わると俺の指を舐めるのを忘れない。

 なんとも律儀な狐だ。

 餌を食べ終わると狐は俺のまわりをぐるぐると歩き始めた。

「お? なんだよ?」

 ときおり鼻をくっつけてはスンスンと匂いを嗅いでいる。なんだか見定められているような気がした。これは相手をもっとよく知ろうとしているのだろうか。

「いいぜ。気が済むまで嗅げよ。俺はお前に敵意なんてないし、何かを隠しているわけでもない」

 一通り満足したのか狐は匂いを嗅ぐのをやめた。

「で? どうだった? 何か怪しいとこはあったか?」

 そう聞くと狐はくしゃみをした。

「……臭かったってことか? 軽く傷つくぞそれ」

 なんとも酷い結果だった。まぁ人間の匂いなんていうのは野生の動物からしたら良い匂いじゃないだろうしな。どちらかと言えば敵だろう。

 それなのにここまで懐いてくれたのは結構なもんじゃないのか?

 野生動物に餌付けをして仲良くなるって、そう簡単なものじゃないだろうしな。俺だってこいつが普通の狐ならこんなことはしなかった。

 こいつは他の狐とは違う。この真っ白な毛。この毛に眼を奪われ心までも奪われてしまった。まさに魅入られたという言葉が相応しい。

 それほどまでに綺麗だ。

 もしもこいつが――人間に化けられたら。

 よく狐と狸は化けるというが、それはあくまで本の中の出来事であって現実ではありえない。それでもそう考えてしまう。

「お前はきっと人間に化けたら美人なんだろうな」

 そこでふと。

「いつも『お前』じゃ可哀想だな。名前をつけてやるか」

 とか思ったものの……名前、ねぇ。

 俺は今まで生きてきた中で名前をつけたことがない。動物なんて飼ったことはなかったし、それを除くと名前をつける機会は極端に減る。

 前に妻にこの話をしたときにこう言われた。

『じゃあ子供が産まれたときにつければいい』

 俺が一番初めにつける名前。それは自身の子供が産まれたときにこそつけるべきだ。俺がここでこの白い狐に名前をつけたと妻が知ったらなんと言うだろうか。

 考えただけでも恐ろしい。それでも俺はここで名前をつけることを選ぶ。今、目の前にあることの方が大事だ。きっと妻もわかってくれる。

「名前、名前ねぇ。う~ん……名前ねぇ」

 正直なところ何も思い浮かばないぞ。名前を考えるってこんなにも難しいのか?

「白い狐、か。まぁ普通に考えてシロだよな」

 自分のセンスのなさに涙がでそうだった。これは子供の名前をつける前の予行練習に丁度良かったのかもしれない。この狐には悪いけど。

「シロ、シロねぇ。安直すぎだよなぁ。もうちょっとこう、なんつーの? 可愛いというか、もう一声ほしいよな」

 白い狐白い狐。ここで俺は閃いた。

「白い狐だ。そのまま白狐と書いてシロコとかどうだ?」

 うん、あんまり可愛くない。でも響きはいいぞ。

「白狐。白狐……。う~ん……シロ……子? これだっ。お前は今日からシロ子だ」

 これならちょっとは可愛い気がする。

 シロ子。シロ子。うん、気に入った。これで確定だな。

「いいか? シロ子で」

 俺は一応確認をとってみる。するとシロ子は俺にすり寄って来た。

「『おう』という事でいいんだな」

 半ば無理やり決定だ。

 産まれて初めて名前をつけた。なんか安直っぽいと言えば安直っぽいけど、我ながら気に入っている。シロ子が自分の名前を覚えたときに、気に入ってくれるかが心配だけど。

「これから飽きるほど名前を呼んでやるよ」

 


 それからというもの俺とシロ子はどんどん仲がよくなっていった。名前をつけると親近感がものすごいわくs。愛しさ倍増って感じだ。

 何度も何度も名前を呼んだ。その内、名前を呼ぶとシロ子は反応するようになっていった。自分のことだと理解したのだろう。

 名前を呼んで振り返る姿がたまらなく可愛かった。

 理解してくれている。

 そう思えることが嬉しかった。今では膝の上に乗ってくるほどだ。体のどこを触ってもシロ子は嫌がりはしない。

 大きな耳と大きな尻尾。

 何度このまま連れて帰ろうかと本気で思ったことか。でもそれは永遠に出来ない。シロ子はここを離れることは出来ない。ずっとこの森で暮らすのだろう。

 俺がここに来ればいいだけの話だ。たったそれだけの話だ。

 ずっと。ずうっと。

「さて、そろそろ帰るよシロ子。また明日な」

 シロ子の頭を撫でて俺は別れを告げる。シロ子はそれを理解しているに違いない。シロ子は一声鳴いて森の中へ姿を消した。

「寒いんだから暖かくして寝ろよ」

 今日は特別寒い。車の温度計は氷点下を示している。雪が降っていないのがおかしいぐらいの寒さだった。

 雪の山道は危険だ。一応スタッドレスタイヤをはいてはいるが安心はできない。下り坂に上り坂。ゆっくりと運転しないとスリップをして事故をしてしまう。

 小さいころは雪が好きだったけど、大人になったら雪は大敵だ。仕事にもろに影響してしまうし厄介なことこの上ない。

 俺は車を発進させた。

「う~さみ~」

 雪は降っていないが、道路は凍りついている。これは急ブレーキを踏めば確実にスリップをするだろう。

 俺にはそれがわかっている。しかしそれがわかってない者もいるのも事実だ。いくら自分が気をつけていたとしても相手から突っ込んできてしまわれば、それは成すすべがないというもの。

 まったく嫌になる。

 まだ子供の顔も見ていないのに。

 まだ妻は若く幼いのに。

 シロ子に会えなくなる。

 何をどう思って、どう抗おうとも成すすべはない。

 暗闇の中で対向車のライトだけが眩しく俺を照らしていた。




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