第6話 狐の章三


 あれから姉にさんざんお説教をされた私はとぼとぼと当てもなく歩いていました。何もあそこまで怒らくてもいいんじゃないですかね。

 そりゃ忠告は受けてましたけど、結果あのご飯には毒なんて入ってなかったですし、母や姉の言うことは間違っていた訳ですし、逆に謝ってほしいぐらいです。

 まぁ人間全部が全部そうであるとは限りませんが、あの人間は大丈夫ですよ。だってご飯くれるわけですし。

ハァと、溜め息をついた瞬間でした。ものすごい雄叫びが聞こえてきたのです。

「………ぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいょょょょよぉぉぉぉぉっぉぉおおおおおおっしゃああああああああああああああああああああああああッ!」

「な、なにごとですか!」

 思わず私は身をかがめて辺りを見渡しました。どこの獣の雄叫びでしょうか。聞いたこともありません。私は好奇心からその声のした方へと走って行きました。草木をかき分けて石を飛び越えて進み、少し行ったところで森の中に光が見えたのです。

「あれは……」

そう、この場所は人間がご飯をくれた場所だったのです。そしてそこには人間の姿がありました。私は森の中からこっそりとその様子を眺めることにしたのです。

 なんだかぶつぶつ言って喜んでいるのが見て取れます。人間は感情豊かなんですね。そしてまたご飯を置いて帰ったのいったのです。

 私はしばらくしてからその場に行きました。

「昨日と同じあのご飯ですね」

 もう口の中はヨダレでいっぱいです。口が開きかかった瞬間に姉の恐ろしい顔を思い出して踏みとどまりました。

 とっても食べたい。これがすごくおいしいのはわかっているからです。しかしながら食べてしまったら姉は怒り狂うでしょう。昨日の今日ですしね。まったく反省ができていないとか言われるのは目に見えています。

「ああ、食べたい」

 釘づけもいいところです。ヨダレは止まることを知らずにどんどんと溢れてきます。これはどうしたものでしょう。葛藤の狭間で揺れ動く自分がわかります。

 私は決断しました。

 泣きながらその場から走って帰ったのです。あの場にいては誘惑に負けてしまいます。その思いを断ち切るために走ったのです。

 ごめんなさい人間。私は狐でこれからも姉と生きていくのです。必ず、必ず姉を説得してみせますので、どうかその時まではご飯をください。

 これは早く姉を説得しなくてはなりません。食べなくなったと思われて、もうご飯をくれなくなったら一大事です。だってまだ私は一回しかあのご飯を食べていませんし、もっとあれを食べたいのです。

「姉さん、話があります」

「何よ? 眠いんだけど」

 これはチャンス到来ですね。眠気に負けて「あーわかったわかった」と言わせるのが私の作戦です。

しかしながら眠気を吹っ飛ばすほどの怒りの導火線に火がついたらしく、これから夜が明けるまで私は逆に姉にお説教を受けてしまうんですがね。



「ね、眠い……」

 姉はとてもパワフルです。なぜあんなに元気がいいんでしょうか。説得するはずが逆に説得されそうになった今回の事件から私は学んだことがあるのですが、もう眠気で忘れてしまいそうです。

「と、とりあえず寝てから今後の作戦を考えましょう」

 それから数秒後、私は夢の中へと落ちていったのです。

 そして目を覚ました私はこれだと閃きました。それは夢の中で姉がガツガツと人間にもらったご飯を食べていたのです。

 そう、一度味を知ってしまえばこっちのもんですね。つまりはなんとかして姉にあのご飯を食べさせることが出来ればいいわけなんですが、それをどうやって行うかです。

「どうしましょうかねぇ」

 私は悩みます。

 お願いですから一度だけ食べてくださいと頼みこんでも姉は絶対に食べてくれないでしょう。ということは無理やりにでも食べさせる。これしかありません。

 しかしながら無理やりと言っても力ずくでは無理でしょうし、他のご飯に混ぜる?

 まぁそれも手なんでしょうが、さすがに無理がありますね。なら寝ているときに口につっこむというのはどうでしょうか。

 これなら抵抗されることはありません。寝ているときにもぐもぐしてくれればいいのです。これですね。この作戦で行きましょう。

 そっと姉に近づいて口にご飯を入れて食べさせる。完璧な作戦です。

 そうと決まればご飯を取りに行かなくては。人間がいつもご飯をくれる場所へと行きます。するとちょうど人間の姿が見えました。

 なんだかとても放心しているように見えます。ご飯を食べていなかったことがそんなにもショックだったのでしょうか。そんな人間は今度は何やら白い器にカラカラと何かを入れているようです。あれはなんでしょうか。

 なんだかここにいても良い匂いが漂ってきます。

 そして人間は車に乗って帰って行きました。私はすぐにご飯の置いてある場所へと向かいます。

「これはなんでしょう?」

 なんだか色とりどりで細かいものがたくさん入っていました。クンクンと匂いを嗅いでみるととてもおいしそうな匂いがします。

 しかしながら私はこれを食べるわけにはいかないのです。せめて姉が『うん』と言ってくれるまでは。

 私はご飯を咥えてその場を後にしました。急いで姉がいるところに戻ります。あの作戦に今後がかかっているのですから。

 走りながらそんなことを考えていると口に咥えてあったご飯がなくなっているのに気が付きました。

「あ、あれ?」

 どこかに落としてしまったのでしょうか。おかしいですね、もぐもぐ。

 私はなぜもぐもぐと口を動かしているのでしょうか? 気が付いたときには既に遅かったですね。咥えたご飯を私は無意識のまま食べてしまいました。

「なんてこと……」

 もうなんだか自分が卑しい狐に思えてきました。食欲を止めることはできそうもありません。これは姉にバレたら確実に怒られます。ということはバレるよりも早くこの作戦を成功させなければなりません。

 私はご飯の置いている場所へと戻りました。そしてまたご飯を咥えて姉のところに急ぎますが、また私は途中でそのご飯を無意識に食べてしまうのです。

「むぅ……なんだかもう自分が信じられませんね」

 まさかこの作戦の一番の難関が自分を攻略するところだったなんて思ってもみませんでした。

 かくしてこれから私は自分との闘いに身を投じることになるのです。

 そして何度同じ過ちを繰り返したことかわからなくなった頃、私はようやひと欠けらのご飯を姉のところまで運ぶことに成功しました。

「も、もう……疲れました……」

 しかしながらここで眠りに落ちる訳にはいきません。ここからが本番なのですから。

 私はゆっくりと姉に近寄って行きます。物音を立てないようにそっとゆっくりと。大丈夫このままいけます。

 そして姉の元へとたどり着いた私。なんだかとても長かった気がします。思い起こせば……おっと、こんな感傷に浸っている場合ではありません。

 私はそっと姉の口元へとご飯を近づけます。すると良い匂いを感じたのか姉の鼻先がひくひくと動いたのです。

 これはいい反応ですが、起きてしまう可能性だってあります。急がなければ。

 そしてこの作戦の最大の難関へとさしかかったのです。私の難関は除いてですよ?

 姉の口元へご飯をそっと置きました。

「姉さん、ご飯ですよ。食べてください」

 まるで悪魔の囁きのようにやさしく言います。まるで夢の中で言っているようなぼんやりとした中で。すると私の言葉に反応して姉は眼をつぶったまま、ゆっくりと口を開けたのです。

ご飯はころころと転がり口の中へ。思わず私は心の中でガッツポーズ。

 姉は無意識で口をむぐむぐさせてごっくん。と同時に眼をバッと見開いて飛び起きました。

「あ、おはようございます姉さん」

 私はとりあえず何食わぬ顔であいさつをしてみました。

「あんた……うっま何コレー」

 作戦はばっちり成功したようです。そう思ったのも束の間でした。

「あんた何してくれてんのよッ!」

 私の目の前に鬼が現れました。

「やっていいことと冗談でもやったらダメなことがあるでしょうがッ!」

 もう私はあの人間からご飯をもらうことはないのかもしれません。というかここでさよならかもしれませんね。

「で、でもおいしかったでしょう?」

「うん、めっちゃおいしかった! ありがとう――じゃなくて!」

 どうやら姉は色々な狭間で揺れ動いているようです。

「姉さんもこれから一緒に食べましょうよ」

「冗談言わないで。私は人間になんて世話になりたくないのよ。野生の、狐のプライドはないのっ?」

「ありませんよそんなもの。人からの行為を無駄にするプライドなんて持ち合わせていません。きっと姉さんもあの人間を見ればわかるはずです。母さんから聞いていた人間とは全然違いますから」

「あんたねぇ~……」

 どうやら姉は脱力したようでした。つまりこの勝負は私の勝ちですね。

「好きになさい。でもこれだけは言っとくけど、今後私に今みたいなことは絶対にしないで。もししたらあんたの脳みそをかっぽじって食うからねっ」

 ……今のは冗談でも言ったらダメなことじゃないんでしょうか?

「わかりました」

 ともあれこの勝負は私の勝ち確定です。これでやっと堂々と人間からご飯をもらうことができるのです。ああ、あのおいしいご飯を早く食べたいですね。

 姉も今はこう言っていますが、きっとその内わかってくれる日がくるはずです。あの人間は他の人間とは違う。根拠はないですがそう思います。 



 あの場所にあの時間に行くのが楽しみでしかたがありません。早く早く日が落ちるのを待っています。

 そして辺りは静寂に包まれました。夜の森というのは驚くぐらい静かなものです。かなり遠くの音まで拾えますしね。私の耳はあの人間の車の音を捕えました。

 その後すぐに遠くから光が見えたのです。間違いありません。あの人間です。

 車はぴたりとその場所に停まって、中から人間が出てきました。そして車から降りてご飯の器を見るやいなや人間はまた叫びました。

「ぅぅぅぅううううううおっ…………っしゃああああああああああああっ!」

 かなり喜んでいるみたいですね。もしかして私がご飯を食べたことがそんなにも嬉しいのでしょうか。なんだか子供みたいな人間ですね。

 なんだかその後もまたぶつぶつ言いながらルンルン気分でご飯を用意してくれています。なんだか見ているこちらが恥ずかしくなってしまうぐらいのはしゃぎ様ですね。

「おおーい! 餌置いとくからなー!」

 餌、というのはご飯のことなのでしょう。わかりましたとも。綺麗にいただきます。そして人間が車に乗ろうとした時でした。

 がさり。

「あっ……足が勝手に……」

 私の体は待ちきれずにフライングしてしまったのです。そこでバッチリと人間と眼が合ってしまいました。

 どれだけの時間をそうしていたかはわかりません。しかしながら人間の眼は非常に優しく、私のことを見据えていました。そして不意に人間が視線を逸らしたのです。そしてそのまま何事もなかったかのように帰っていきました。

「あの人間、いい人ですねぇ」

 てっきり脅かされると思っていたのですが、そんなことにはならなくて良かったです。母から聞いていた人間とは違うとわかっていても、実際問題そう簡単に割り切れるものでもありません。

 少し警戒心はあります。しかしながらその警戒心は今この瞬間私の中から消え失せました。あの人間に敵意はない。今まで理由なんてものはありませんでしたが、今回はあります。れっきとした理由が。

「それは、だってご飯くれるんですから」




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