第5話 人間の章三
「あっ! ああああああああっ!」
俺は自分の目を疑い、歓喜の声を真夜中の森に轟かせた。
「ない! なくなっている!」
この歳になってこれほど嬉しいことがあるだろうか。
「落ち着け俺落ち着け俺」
とりあえず落ち着けと自分に言い聞かせてみる。が、落ち着けそうもない。こういうときはあれだ、うんあれだ。ここは幸い森の中だし、夜だけど誰にも迷惑はかからないだろう。
俺は深呼吸をして呼吸を落ち着かせた。そしてそれを一気に解き放つ。
「………ぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいょょょょよぉぉぉぉぉっぉぉおおおおおおっしゃああああああああああああああああああああああああッ!」
とりあえず叫んでみた。自分の声が木霊しているのがわかる。
人が住んでいるとこまで届かないよな? どきどき。
しかし、しかーし、ここまで自分が嬉しがるとは思ってもみなかった。何度も何度も確認をする。
「場所は……間違っていない、よな? 餌は確かにここに置いた、よな?」
その証拠にジャーキーの残りカスが少しだけ残っている。場所も何もかも間違ってなどいない。餌がなくなっているという事実。
「あの白い狐が食べたのか? それとも他の動物? はたまた鳥が持って行った?」
可能性はある。しかし俺にはわかる。きっとあの白い狐が食べたのだ。たぶん自分でそう思いたいだけなんだろうけど。それでもいいじゃないか。
こんなに気分がいいことはない。何かを続けて、いつ報われるかもわからなかった瞬間を迎えたんだ。喜んだっていいじゃないか。
「なんだかここで一杯やりたくなってきたな。つっても俺は酒には興味ないけど」
大きな進歩だ。これで第一関門は突破された。よって俺は次のミッションに移るとしようではないか。
「次のミッション。それは手で直接餌をやることだ!」
これはかなり難易度が高いミッションだ。
まず姿を見られても逃げられないようにならないといけない。それ以前に俺が餌をやっていると覚えられないといけない。これは根気がかなりいるだろう。
とりあえず餌をやり続けることが大切だ。その内、出くわすことを祈ろう。そうしないと始まるものも始まらない。
俺の気分はかなりルンルンだ。これは帰ったら眠っている妻を起こしてこの喜びを聞いてもらおう。今の俺は多少怒られても凹まない自信がある。
そうと決まれば長居は無用だ。俺は帰る前に一度暗い森をぐるりと見渡してみた。
「やっぱ見えないか」
当たり前だが見えるはずもない。もしかしてこっそりこっちを見ているのかもしれないと思ったのだが、そう都合よくはいかないか。
今日の餌をまた同じ場所に置いて俺はその場を後にしたのだった。
次の日、俺はホームセンターで悩んでいた。
「う~ん、う~ん。これはどっちが美味いかなー」
手にしているのはドッグフードだ。ささみ味と野菜たっぷり。
「普通に考えてささみの方がいいのはわかる。しかし相手は狐だ。野菜不足なのは間違いない。ここは狐のことを想って野菜にしとくか。いやでも食べてくれなかったら嫌だしなぁ」
これはどうしたことか。同じ値段だしどっちでもいいのだが、これは悩む。
「そもそも狐は野菜とか食うものなのか?」
いやベジタリアンな狐はちょっとないな。もうかれこれ三十分はここで悩んでいる。あの狐には長生きをしてほしい。だったら不足がちな野菜だ。しかし美味い方を食べてもらいたい。
これのエンドレスだ。
もう仕事に行く時間が迫っている。そろそろ決断をしなくてはならない。
「くそっ、ダメだ。俺には決めきれん」
そこで俺のとった行動は妻に聞くというものだ。携帯を取り出して電話をかける。
ちなみに昨日妻を起こそうとしたらパンチを喰らった。とても凹んだ。しょぼーんだ。
『もしもし』
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
俺はこれまでの狐の想いを妻に告げた。すると答えは一言で終わった。
『どっちも買えばいいじゃない』
ああ、その手があったか。そして混ぜてやればいいんだな。さすがは俺の妻だ。ナイスアイデアだぜ。
『自分のおこづかいから出すのよ?』
「……はい」
さすがは俺の妻。きっちりしている。別に俺のこづかいが多少減ろうともかまわないさ。ちょっと買い食いするのを我慢すればいいんだ。その分を狐にあげると思えば全然へっちゃらだぜ。
とか思っていたら俺の腹は盛大な音を鳴らした。
「……」
ちょっとこのドッグフードもらってもいいかな?
さてさて冗談はさておき、今日はドッグフードをやろう。ジャーキーとは違うけど食べてくれるかが心配だ。そうだ、器も買っていこうじゃないか。
さすがに地べたのまま食べさせるのは可哀想だ。専用の器を買ってそれに入れてやろう。
なんだかとても楽しい気がする。まるで初めて出来た彼女へのプレゼントを選んでいるような感覚だった。それがたまらなく楽しい。
「この器、気に入ってくれるかな」
その器は特に特別なものではない。至って普通の白い無地の器。あの狐と同じ真っ白な器だ。犬用なので名前を書くところがある。
「とりあえず狐って書いとくか?」
ついでにマジックも買ってそこに『白い狐』と書いた。なんだか出費がひどい気がする。きっと俺は飲み屋にハマったら貢ぎまくるタイプだろう。
「酒に興味なくて良かった……」
これはある種、趣味だと思えばまぁ許容範囲内だろう。とか言いながら俺は財布の中身を確認したのだった。
それから仕事も終わり帰り道。
「あ、あれ?」
これはどういうことだ?
「餌が残っている……」
綺麗に前日おいた餌が残っていたのだ。見る限り一つも減っていなかった。今日はまだ来ていないのだろうか。
そうかきっとそうに違いない。毎日同じ場所を通るとは限らないし、それにまだここに餌が毎日おいてあるということがわかってないのかもしれない。
ここには餌があるということを覚えてもらうことが最初の一歩か。
「ほんと、根気がいるな」
とりあえず俺は買ってきたフードを白い器に入れた。カラカラと音が辺りにやけに響く。そして手を合わせる俺。
「どうか食べてくれますように」
まぁ狐はお稲荷様ともい言うし、祈っても罰は当たるまい。二礼二拍手一礼をした。これがあっているかあっていないのかは定かではない。
間違っていたらどうしよう。帰り道で事故ったらどうしよう。
「とりあえず今日のミッションは終了だ。う~さみ~」
まだまだ今の季節は寒い。冬はどの動物も餌に困ると聞くし、きっと食べてくれるだろう。俺は車に乗りその場を後にする。一瞬だけ横目に白いものが映った気がしたがそっちを見ることはしなかった。怖かったとかそういうんじゃない。
「またな」
そしてそしてそれから更に二十四時間後。
「ぅぅぅぅううううううおっ…………っしゃああああああああああああっ!」
そこには見事に綺麗に餌がなくなっていた器だけが残されていた。
渾身のガッツポーズだ。拳を夜空に向けて突き上げてしまった。誰にも見られたくないものだ。
とりあえず記念写真を撮っておこう。もちろん俺のガッツポーズの写真ではない。カラになった器をだ。なんの意味があるのかと言われればなんの意味もない。
しかしこの気持ちを整理し、またこれから先に進んで行くための活力にする為にだ。
カシャっと一枚。
「いいできだぜ。これ待ち受けにしようかな」
カラの器を待ち受けにするおっさん。この携帯を他人に見られたときに、どう言い訳をすればいいだろうか。答えは簡単だ。誰にも見られなければいい。
携帯の画面を見つめて微笑む俺。ああ、とっても幸せだ。
気分はルンルンで次の餌を器に入れる。
「やっぱフードの方が食いつきがいいのか? ここは贅沢にささみと野菜のコラボレーションだ」
前日はささみのフードを入れた。今回は二つを半分半分にして俺特製のフードの出来上がりだ。さらにおまけにジャーキーも少し入れといてやろう。
「なんて豪華なんだ。これは気に入ってくれるに違いない」
なんの根拠もないが確信を得た。ここでふと。
「次のミッションは手で直接餌をやることだ。それはつまりこの時間に俺が来て餌をやっているということを教えなければならない。つまり今いるぜー、ってアピールをした方がいいのか」
アピールと言っても何をすればいいのやら。
「おおーい! 餌置いとくからなー!」
とりあえず叫んでみた。どこかで聞いてくれてることを祈ろう。若干、自分の声が森に響いて怖かったけどなっ。
「さて帰るか」
そう思って俺が車に乗ろうとしたときだった。
がさり。
森が叫んだ。
俺は声も出せずに硬直してしまった。なんだ? 何が起きた? なんだよ今の音は。
ゆっくりと振り返って音のした方を見てみると、そこには暗闇に浮かぶ白い物が見えた。
あー見ちゃった、見ちゃったよ。はい俺終わったー。妻よ、先立つ夫を許してくれ。なんて諦めの念にかられていた。しかしそこで俺は自分の間違いに気が付く。
あの白い物は幽霊ではない。ここには白い物がもう一ついるじゃないか。
「あの狐だッ」
俺の頭がそれを理解したとき、視点はしっかりと狐を見据えていた。
一体どれぐらいの時間見つめていたのかわからない。こうやって見つめ合うことなど想定していなかった。まさかこんなにも早く現れてくれるなんて思ってもみなかった。
俺はてっきり自分はこういう場面に陥ったときに、心臓が高鳴りすぎるもんだと思っていたけど、それとは逆でかなり冷静だった。
俺はゆっくりと視線を外して車に乗り込んだ。声も足音も出さずにそっと。これでいい。敵意がないことを伝えることができたはずだ。ここで妙に声を出したり、こまねいたりするのは逆効果な気がした。だからそっとここを去ることにした。
狐はそれでも視線を外さずに俺の方を見ている。きっと見定めているのだろう。俺は声を出さずに唇だけを動かした。
『またな』
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