第3話 人間の章二
継続は力なりという言葉があるのをご存じだろうか。俺は決して諦めないことをここに誓う。何が何でも餌をあの白い狐に食べてもらうんだと密かに決意した。
「くそっ、今日も残っている!」
俺は置き去りにされた餌を目の前にうなだれるしかない。あれから四日が経ったが餌は未だに一度も食べてくれていなかった。俺のおいた餌を食べているのは変な虫ばかりだ。
「お前らに餌をやっているつもりはサラサラない!」
三十のおっさんが本気で虫に八つ当たりをしていた。それが自分だとは信じたくない。
しかし、どうして食べてくれないのだろうか。やっぱり野生動物に餌付けをするのはとても難しいのだろう。こうして毎日続けていればいつかは餌を食べてくれる日がくるのだろうか。
まるで今の俺は恋する乙女のようだ。これが高校生とかなら青春で甘酸っぱくていいかもしれないけど、何回も言うが俺はもう三十のおっさん。若干気持ちわるい。自分で言っていて悲しくなってきた。
いつも暗い森の中で車を降りて餌をおく身にもなってほしい。とても怖いんだぞ。そんな危険を犯してまで餌をおいているのに、一度ぐらい食べてもいいじゃないかと切実に思う。
これじゃダメだ。気が滅入ってしまう。もっと前向きに考えなくては。そうはいっても俺の心はそれほど強くはないし、そしてそこまでポジティブになれない。どうすればいいのだろうか。
「直接手で触ったらダメなんじゃない?」
という訳でこういう場合は妻に相談する。そうしたらもっともらしい答えが返ってきた。餌に直接触れたら匂いがついてしまって警戒して食べないのではないかと妻は考えたのだ。
「なるほど」
ものすごく納得した。妻の回答に根拠はまったくないが可能性はゼロではない。たしかに野生動物だし人間の匂いは嫌うのかもしれない。そう考えたらそうとしか思えなくなってしまうのが俺の頭の都合のいいこといいこと。
人の思い込みというのは怖いですね。
とりあえず妻の案を実践してみよう。俺はやるなら徹底的にやる男だ。新しい餌を買いなおした。今までの餌はもうすでに匂いがついているのかもしれない。直接触ってはいないが、気が付かないところで触れているのかもしれないし。
これで準備は万端だ。あとは餌に俺の匂いがつかないように餌をおけばいい。しかしどうやって置けばいいのだろうか。ティッシュで掴む? いやダメだ。箸で掴む? 車に箸なんておいていない。あっ、割り箸でやればいいのか。
そんなことを考えていると横から妻が正解を言う。
「別にそのまま置けばいいんじゃないの?」
そのままとは餌の袋を持ったまま、袋を揺すって出せばいいというもの。うん、それ正解。
手間もかからないし最高の答えだ。妻と結婚して良かったとこの時つくづく思った。
さぁ前は急げだ。早く仕事の時間にならないかなとわくわくしていたら妻がトドメの一撃。
「今日は土曜日です」
ちーん。
なんと月曜日がこんなにも待ち遠しいと思ったことは一度もない。月曜日が好きなのは美容師さんぐらいのものだろう。俺の心はウキウキだ。仕事なんて勿論手につかない。もう帰り道のことばかりを考えている。
いっそのこと早退してしまおうかと真面目に悩む。いや、ダメだ。俺はこれでも真面目で通っている身だ。だからそんな姑息な手を使うわけにはいなかい。でも逆に考えれば真面目だからこそ、そんな早退とかしないと思われている?
だから早退したいと言えばそれが只ならぬ事態だと思ってはくれないだろうか。それに姑息な手を使わずにとっておく理由もないしな。うん、早退しよう。
そう決意したときだった。俺のポケットで携帯のバイブが震える。俺は真面目だから仕事中に携帯は見ないよ。休憩中に見よう。
そして休憩中。携帯を見て早退することを上司に言おう。そう思い携帯を見ると、妻からのメールだった。
「えーっとなになに。『どうせ早退でもして早く餌をおきに行こうとか姑息な手を使おうとしている旦那様へ。餌はいつも同じ決めた時間においた方がいいと思います。早退したら給料も減りますし絶対にやめてください』」
「……はい」
すべてを見透かされているような気がした。さすが俺の妻だ。しかも敬語なところがとても怖い。夜の森なみに怖い。これは早退したら離婚される危機かもしれない。
結婚前と結婚後では立場が逆転してしまったな。よくある話だ。しかし妻の言うことは一理ある。
毎日同じ時間に同じ場所に置いた方が効果がいいような気がする。その方が狐も覚えてくれるだろう。さすが俺の妻。完璧な考えだ。
そうなってくると仕事が終わるまでの時間がもどかしい。もう帰る気満々だったので今更集中できない。できるはずもない。つまりとても時間が経つのが遅く感じる。時計ばかりを気にしてしまう。
なんだか一分おきに時計を見ているのは気のせいということにしておこうか。まさかこの歳でこれほどまでにはしゃぐ日が来るとは思ってもみなかった。軽く若返った気分だ。
「お疲れ様でしたー」
と言いながらダッシュ。今までで一番早く会社を出たかもしれないというほど早く出た。
早くあの場所へと急ぐ。近くに行くにつれて俺は車のスピードを落とした。万が一、また車の前に飛び出してきたりしたら大変だ。その可能性もゼロではない。ゆっくりと辺りを注意しながら進んで行った。
そしてようやくその場所へと到着。
「ゴール」
いやいや。なんだか目的が変わってきている。本来の目的を思い出せ俺。
辺りを軽く見渡す。そこに白い影は見当たらなった。
「なんだ、いないのか」
いたらいたでビックリするんだけど。
「よし、ミッション開始だ」
正直に言おう。俺は今ノリノリだ。餌の袋を開けて餌に触らないように気をつけて袋を揺さぶり餌をだす。
「うん、うまくいった」
数本のジャーキーが転がった。
「ジャーキーよりもフードの方がいいのか?」
餌を買うときにそこまで考えていなかった。今度はフードも買っておいてみよう。もしかして餌が気に入らずに食べなかったのかもしれないし。ワガママな狐だな。
でもこの瞬間を俺はいつの間にか楽しんでいた。餌がなくなっていればもっと嬉しくて楽しいけど、食べられてなくても工夫をして、なんとか食べてもらおうと考えているのが楽しかった。
「なんか、やっと前向きになれたな俺」
いつかこの行為は報われる時がくるんだろうか。
継続は力なり? その結果が相手次第だったらこの言葉は意味をなさないなぁとなんとなく思った。
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