第2話 狐の章一


 産まれてすぐに教えられた事は人間には気をつけなさいというものでした。まだその存在を知らない私にとっては、どうして気をつけなければいけないのかがわかりませんでしたし、そこまで言う人間というものに興味が湧いてしまい、母から人間についてどんな恐怖を言われようとも、それ以上に好奇心の方が勝ってしまうのです。皮肉なものですね。

 森の中で暮らす私にとっては人間を見る機会はありません。いつか親離れをした時にでも少し森を出て人間を見に行こうと密かに決意をしました。

 双子の姉にそれを言うといつも怒られますが、姉は母にはそのことは言わないでいてくれます。

 それから私は親元を離れて暮らしだしました。しかしながらいざ一人になると森から出るということが恐ろしくなってしまったのです。あの時は母に守られていたので、少し気が大きくなってなんでも出来る気がしたのかもしれません。だからこういう時には私は決まって姉を頼るのです。

「馬鹿じゃないの? あれほど母さんに言われたのにまだそんなこと言ってんの?」

 姉は心底呆れた眼差しを私に向けてきました。幼いころから何度も言われても私の気持ちは変わりません。

「姉さん、少しだけでいいんです。ついてきてくれませんか?」

「断るッ!」

 断固拒否をされました。なかなか頑固な姉です。まぁ私も自分の意見を変えないので、姉から頑固な奴だなぁと思われているんでしょうね。

「なんでそんなに嫌なんですか?」

「当たり前でしょうよ! 死にたくないからよ」

 人間は意味なく命を奪うと教えられました。私たちは食べるために命を奪うことはありますが、意味なく奪うことはしません。まぁ、たまに遊んだりはしますけど。

「そんな直ぐに殺されたりしませんよ」

「なんでそんなこと言いきれるのよ? 人間を見たこともないあんたが」

 正論ですね。答えはなんとなく、なんですけど、それを言ったら姉は怒り狂うので言うのはやめときます。

「あんた、長生きできないよ」

 自分でもそう思います。自ら恐怖の穴に入ろうとしているのですから。しかしながら、私は自分の目で確かめないと気が済みません。周りから聞いた情報だけでは自分を納得させることが出来ないのです。

 姉はそう言うと森の奥深くへと入って行きました。話が前に進まないのでこれ以上話しても同じだ、ということなのでしょう。

 一人で行くのはさすがに怖いです。でも一体なにが怖いのかがわかりません。おそらくこれは母の言葉に囚われているのでしょうね。人間全部が全部悪い人だとは私には到底思えないのです。

 そんなことを思いながら姉と別れて、私はご飯を追っていました。今夜のご飯は兎です。とてつもないご馳走が歩いていました。追っているのですが中々足が早い。一度は見失いましたが、狐はそれなりに鼻がいいので逃したりしません。

 夢中になって追いかけていると、とても眩しい光が辺りを包みました。その瞬間に私の目の前は真っ白になって何も見えなくなったのです。 

 ただ凄まじいキィー、という音だけが聞こえてきました。

「ぎゃああああああっ!」

 思わず悲鳴をあげてしまい、なんだかよくわかりませんが死んだと思いました。姉の言うことは正しかったですね。

 しかし私の意識は途切れてなく、何がどうなっているのかわかりませんでしたが、私の体は勝手にその場から放れていました。

「し、死んだかと……」

 呼吸を整えて今しがた死の淵から生還した場所を見ると、なんとそこには大きな鉄の塊があったのです。その先の方からは光が出ていました。なんとも恐ろしい化け物がいたものです。ここはきっとあの化け物の縄張りに違いありません。

 私は兎を追って、違う土地に入ってしまったのでしょう。その鉄の物体はゆっくりと動き出しました。

 お願いします。お願いしますから見逃してくださいと何度も胸の中で唱えたかわかりません。その願いが通じたのか、その鉄の物体はこちらを見ることもなくその場から去って行きました。

「た、助かりました……」

 母にはあんなものが存在するなんて教わっていません。人間なんかよりもずっと恐ろしいと私はこの時思いました。



「それって車でしょ?」

「え? 車?」

 私は姉に昨日あった出来事を話しました。すると物知りな姉はいとも簡単に答えを私にくれたのです。

「あんた道路に出たんだよ。道路とかめっちゃ危ない。その車に轢かれたら一瞬で死ぬんだかんね」

 怒られた。誰だって狩りに夢中になることぐらいあるでしょうに。

「で? 見たの?」

 姉は眼を細めながら聞いてきました。見たとはなんのことでしょうか。言っている意味がわからない私は「何をでしょう?」と聞き返しました。すると姉はとんでもないことを言ったのです。

「人間よ」

「に、人間?」

「その車ってゆーのには人間が乗って動かしてんの」

 なんということでしょうか。あの中に人間が乗っていたなんて。もうちょっとじっくりと見れば良かったです。しかしながら人間はあんな鉄の塊を動かすことが出来るんですね。なんとも神秘的です。

「あんた、やめときなさいよ」

「何がでしょう?」

 姉は私の考えている事がいとも簡単にわかったようで釘をさしてきました。しかしながらそんな事で言うことを聞く私ではないのです。

 姉は深い溜め息をつきました。どうやらこの勝負は私の勝ちのようですね。

「いい? 最悪死ぬかもしれないのよ? それでもいいの?」

 そう言われると……もちろん良い訳ありません。私だって死にたくはないです。自ら死を望むのは人間だけだと母から教わりました。

「私は死にませんよ」

「何を根拠に」

 なんだか姉が可哀想に思えてきました。もちろんその原因は私という妹をもったことなのですが。

 まったく好奇心というのは厄介な感情です。その先に恐怖しかなくてもそれを確かめずにはいられないのですから。しかしながら好奇心があるからこそ、新たなことにも挑戦できてその先に道が開けてくるんです。これは単に私のいいわけですが。

 ともあれ次の日の夜、私は姉の説得を押し切って昨日のあの場所へと向かいました。またこの道を通るのでしょうか。なんだかとても緊張します。

 道の脇に隠れて待ってみるものの、中々あらわれてくれません。私はこう見えて行動力があるんです。待っているだけなんて性にあいません。

 なので少しづつ道路を歩いて行きました。真っ暗で光も何もない道。冷たく自分の爪が地面をこする音だけが闇に響きます。

 今日はとても冷えます。もしかしたら雪が降るのかもしれません。私は雪が好きです。別にロマンチック的なことではなくて、単純に自分の姿が雪と同じなので同化できて狩りの成功率があがるのです。

 私と姉の毛は真っ白です。白い獣は生きていくのが難しいと言われています。それは単純にその姿が目立つからです。目立てば狩りの成功率だって落ちますし、他の獣に狙われる確率だって上がります。

 それをなくすことが出来るのが雪なのです。まぁ雪が降れば寒いですけど、胃は暖かくなるので気にしません。

 おっとそんなことを考えていたら、まだかなり向こうですが光が見えてきました。二つの光がどんどんとこちらに近づいてきます。私は道から少し外れてそれが来るのを待ちました。

 あれが車なのでしょうか。そしてあの中に人間が乗っているのでしょうか。

 不安と希望が私の中で入り混じっていくのが自分でもよくわかりました。心臓の脈打つ鼓動がどんどんと早くなっていきます。この感覚は獲物を狩るときに近いのかもしれません。

 私にはもう車しか見えていませんでした。

 そしてその光は私を一瞬照らしたのです。距離は十分にありますが車はなぜかその場に止まりました。期待と警戒を半々で持ちながらも、私はその場から動くことが出来ません。

 次の瞬間、ガチャリと音が木霊しました。そして中から人間が姿をあらわしたのです。それと同時に私の体は走っていました。その場から素早く離脱。

 しかしながら私の眼はしっかりと人間を見たのです。

「あれが、人間」

 人間がどういったものかは想像していませんでしたので、すんなりと人間の姿を受け入れることができました。私はついに見てしまったのです。私は思わず声を漏らして笑っていました。

「あれが人間、あれが人間。ふふふっ」

 私が驚くほど上機嫌な自分に気が付いたのは姉に怒られている時でした。



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