ヒューマンフォックス
水無月夜行
第1話 人間の章一
昔から動物を飼いたいと思っていたが親がそれを許さなかった。大人になった今では飼おうと思えば飼えるのかもしれない。でも命を飼うというのはそんなに簡単なものではないと俺はわかっている。
人間だろうが猫だろうが犬だろうが命は命で一つしかない。そのことを忘れたらダメだ。そんな飼いたいから飼うという軽い気持ちで飼ってはダメだ。責任がいる。
たとえば仕事でそばにいてやれない時もあるだろう。それがもし病気になっても仕事だからで離れるのか? 仕事が忙しくて病院に連れて行く暇がない? そんなことでいいのか? どれも糞喰らえだ。そんな事情は動物にとって何も関係がない。
命を飼うには重大な責任がいる。
俺にはそれがどうにも出来そうにない。だから大人になった今でも動物を飼えないでいる。
ある日の仕事終わりのことだった。俺はいつも車で通勤するのだが山を一つ越える。片道一時間はかかる長い距離だ。その山中の中で俺たちは出会った。
寒い寒い冬の日。それは雪よりも白かった。
最初は真っ白な犬かと思ったがそれにしては妙だ。尻尾が太すぎる。俺は今まで狐をナマで見たことがなかったし、ましてやこんなところで遭遇するとも思ってもいなかった。
むしろ狐は北海道にしかいないんじゃないかとさえ思っていたぐらいだ。こんなところでもいるんだと眼を奪われてしまった。
最初は特に意識はしていなかったけど、それがいつの間にかその場所を通るたびに、今日はいるのだろうかと思うようになっていた。
普通の狐はオレンジに近い茶色い毛をしている。なのにこの狐は真っ白だ。
前は遺伝子の突然変異だと考えられていたそうだが、最近ではそれが違うとわかったらしい。
DNAの中には白い毛で生まれる確率も組み込まれている。しかし白い毛は目立つのだ。それでは自然界を生きてはいけない。だから白い毛の動物は徐々にいなくなった。そのDNAが稀に表に出ることがあるらしい。この狐の場合、それが偶然にもでたのだろう。
人間は身勝手だ。それはわかっている。俺だってそうだ。自己満足の為の行動だ。それがいつか当たり前になった場合責任はどうなるのか。命を飼うよりはその責任は低いが、それでもこれはしたらダメな行為だ。
自然界を壊すことになるかもしれない。
俺は自己満足の為に、その衝動を抑えきられずに餌付けをしてしまった。
仕事帰りに山道を車で走っていると一瞬白いものが見えた。
「……いやいやないない」
一瞬で悪寒が全身を駆け巡った。俺は非現実的なものは大嫌いだ。こっちからは触れないのに向こうからは触れるとか本当に勘弁してほしい。こんな山の中だ。車は滅多に通らない。
「こ、こんなところで呪い殺されてたまるかッ」
一気にアクセルを踏み込む。車のエンジンは盛大な音を立てた。
もう幽霊とか勘弁だ。本当に嫌だ。怖い。今年三十歳になるのに夜トイレに行けなくなったらどうしてくれんだ。
そんなことを思いながら一刻も早くこの場を離れたかった。バックミラーがあるのがこの時ほど恨めしいと思ったことはない。この時ばかりはなぜバックミラーなどというものがついているのか理解できそうもない。意識しないでおこうと意識すると思わず見てしまいそうになる。
時間は深夜三時を回っていた。幽霊にとってはうってつけの時間というやつか……そうかそうか。くそったれが。
「俺は最近結婚したんです、まだ子供の顔も見てないんです、おおおお願いしますから見逃してくださいっ」
誰に言い訳をしているんだろうか俺は。ただ無言のままじゃ耐えられなかった俺はこれまでにないくらいのスピードで山道を駆け抜けた。やがて街並みの光が見えてくる。
「た、助かった……」
そして家に帰ると幼い妻が眠りこけていた。俺は迷う。起こしてさっきあった出来事を聞いてもらいたい。しかし今起こすと可哀想である。こんなにスヤスヤ眠っているのに起こして、しかも怖い話を聞かせようというのだから最悪な夫だ。というか起こしたら怒られる。
結果、俺は一人でコタツのある部屋で震えた。体育座りをして膝に顎を乗せて、どこを見ているのかわからない。視界がぼんやりする。
「朝日~お願いだ~早く朝日よ昇ってくれ~」
そうだ。朝日が昇れば幽霊なんかいなくなるのだ。そうしたら怖いもんなしだぜ。しかし冬の日の出は遅い。なら寝ればいいじゃないかと思うかもしれないがそうはいかない。
だって枕元に立たれて夢に出てこられたらたまったものじゃないし、今寝たら確実に呪われる。もはや意味不明でなんの根拠があって言っているのか自分でもわからない。それぐらい自分を失うぐらい怖かったのだ。
そしてそんなこんなで数時間後に朝日が昇った。
「あ、朝日だ。やっと……寝れる」
意識が薄れていく中で妻が何かを言っているような気がしたが、俺にはもうそれを聞く余裕はなかった。
それから約二十時間後。
「どうしよう……」
俺は今、会社の駐車場で車の中にいるのだが、マジでガクブル状態である。行きは夕方だったので余裕だった。しかし帰りのことをすっかりと忘れていたのだ。この道を通る以外に帰る道はない。とても怖い。山の中で車が壊れて止まったら俺の心臓もリンクして止まりそうだ。そんな冗談を言っている場合ではない。本当にどうすればいいのだろうか。
一つだけ解決策があるにはある。
それは朝日が昇るまで待つことだ。そうすれば怖くない。しかしだ、それには大きな問題がある。それは俺が帰らなかったら妻が心配するというものだ。事故にでも遭ったんじゃないだろうかと電話がかかってくるかもしれないし、そんな心配はかけられない。それにその理由が幽霊が怖いから日の出を待ったとか言えるはずもないし。
「そんなこと言ったら離婚されちまう……」
それだけは断じて回避せねばなるまい。せっかく手に入れた幸せを幽霊ごときに奪われてたまるかってんだ。どうすればいいんだと俺は両手で顔を覆った。こうしている間にまわりの車はどんどんいなくなっていく。
俺は意を決してアクセルを踏み込んだ。もちろん音楽をガンガンにかけた。もう何も聞こえないぜ。呪いの言葉なんて聞こえないぜ。はたして呪いの言葉とはどんなものだろうか。
ああ、近づいてくる。心拍数が上がっていくのが手にとるようにわかる。このまま心臓が爆発するんじゃないかと真面目に思う。
あと少し、あと少しであの場所だと思っているとそれは現れた。まだ先のはずだったのに予定よりも早く現れてくれやがった。
「ぎゃあああああああああっ!!」
いい大人が思わず悲鳴をあげた。しかしそいつも同じような「ぎゃああああああっ!」という悲鳴をあげているに違いない。
俺は車の前にいきなり出てきたそいつを轢かない様にブレーキを踏み込んだ。車は盛大なブレーキ音をあげて止まった。
俺は恐る恐る前を見る。
「ひ、轢いた?」
そいつは腰が抜けたのか道路のド真ん中で座り込んでいた。
白かった。何よりも白かった。雪よりも白い毛皮に包まれたそいつは幽霊なんかじゃなかった。
「い、犬?」
にしてはどこか雰囲気が違う。すらっと細く伸びた鼻筋。太い尻尾。俺がそいつを狐だと認識するのに時間はかからなかった。
「き、狐かっ! しかも白い狐だ」
驚きの声を上げる。しかしそれも数秒。狐はすぐに立ち上がって森の中へと姿を消した。
「き、狐……狐かぁ。初めてナマで見たな、狐」
俺は無意識で前のめりになっていたので、ドッと背もたれに背を預けた。
幽霊などと言ってしまって悪かったなと後悔の念が押し寄せる。昨日の白いものの正体はおそらく今の狐だろう。そうに違いない。違ったら困るんだよ。
「まだそれほど大きくはなかったな。いやそもそも大人の狐がどのくらいの大きさなのか知らんけども」
初めて見た狐に若干テンションが上がる。明日も見れるだろうかと思い、俺は家路につくのだった。
「はぁ? 白い狐? 寝言は寝てから言いなさいよ」
昨日の出来事を妻に話すとそんなことを言われた。「一度このセリフ言ってみたかったんだよねぇ」と言っている。こちらは真面目に話しているっていうのに。でもその後に「このセリフを言わせてくれてありがとう」なんて言われれば怒る気も失せるというもんだ。
「証拠に写真お願いね」
……簡単に言ってくれる。さすがに車の中から写真を撮るなど出来るわけがない。向こうもじっとしているかわからないし。それに白いものの正体が狐だとわかっても、さすがに車から外に出るのは怖い。ライトを消せばそこは真っ暗な森だし。街灯も何もない。車を停めてそのまま動かなくなったらどうすればいいんだ。
しかし妻の頼みだし、それに信じてもらいたい。
「わ、わかった。努力してみる」
俺はそう言うしかないだろう。しかし個人的にはとても写真を撮りたい。それほどあの狐は白く綺麗だった。なんなら一緒に写りたいぐらいだ。まぁそれは土台無理な話だろうけど。
野生動物はとても警戒心が強いと聞く。野良猫だってそう簡単には触れないのに狐などもってのほかだ。が、それでもと思ってしまう。それを察したのか妻が言った。
「餌付けでもしてみればいいじゃん」
「いや、そんなことしたらダメだろ」
野生動物に餌を与えるなど言語道断。それはやってはいけない行為だとわかっている。
気が付けば俺はホームセンターで餌を選んでいた。
「犬用と猫用。どっち買えばいいんだ?」
もはやウキウキ気分だ。なんて大人なんだ俺は。こんなことじゃいつか生まれてくる子供を正しい道に導いてやれるか心配だ。
「狐って何科だっけ?」
俺は携帯をとりだして調べると、そこには意味不明の文字が書かれていた。
「猫目、犬科?」
どっちだ? これはとてつもなくわかりにくい。さらに詳しく読んでみる。
「えーっと、犬だけど行動は猫……。意味わからん」
これはどういうことでしょう。犬と猫のハーフ的なあれか?
「狐は犬族です。しかし群れたりしないので行動は猫に近いです。……だからどっちなんだよッ!」
もう犬でいいや。『目』の意味よくわかんないし、犬科っていうんだから犬でしょ。っという訳で犬用のジャーキーを購入してみました。
これを食べてくれるとありがたいのだけど、最初はそうもいかないだろうと覚悟を決める。大丈夫。二、三回食べられてなくても凹んだりしないもんね。もう今年で三十になるおっさんがそんな事でへこんだりしないよ。たぶん。
内心ではかなりドキドキもんだ。これで狐が好きになるか嫌いになるかがかかっている。
この日はまったく仕事が手につかなかった。もう帰ることだけを考えている。いや、普段から仕事が始まる前から帰りたいとはいつも思っているのだけどね。みんなそうだと思うけど。
時間はいつも通りの早さで過ぎていく。そして仕事が終わり俺は急いで会社を出た。けっこうなアクセルの踏み込みにタイヤは悲鳴をあげている。最近毎回タイヤが悲鳴をあげているなぁ。ごめんよ、今回も許してくれ。
もうこの森に恐怖はなくなった。幽霊なんて非現実的なものは存在しない。だから大丈夫、怖くなんてないよ。
そんな事を考えていると白い物体が見えた。
「ぎゃっ」
思わず叫んでしまった。一人とはいえ、けっこう恥ずかしいもんがある。狐を目撃した場所よりかなり手前だったのだ。だからまだ心の準備ができていなかった。一瞬幽霊かと思ったじゃないか。
今のは狐だ。あの白い狐だと自分に言い聞かせながらその方向を見る。幽霊だったらどうしよう。俺には幼い妻が、とか言えば見逃してもらえるか?
そこにいたのはあの白い狐に間違いはなかった。よかった、本当によかった。
その白い狐はしばしこちらを見つめていた。警戒しているのだろう。車のライトがその真っ白な毛皮を照らしている。
「綺麗だ……」
見惚れる。
素直に見惚れる。
釘づけになる。
それほどその狐は綺麗だった。何よりも白く、それは輝いて見える。俺は意を決して車のドアをあけて外に出ると、その瞬間に狐は逃げて行った。
「…………」
うん、わかってはいたよ。わかってはいたけども実際その局面に出くわすと心が折れそうだ。負けるな俺。ここで折れたら幽霊に呪われるぞ。と自分を奮い立たたせないと本当に泣きそうだ。
「と、とりあえず、ここに餌をおいて帰ろう」
そんな独り言が虚しい。帰ったら妻に慰めてもらおう。
俺はどうか食べてくれますようにと祈りながら道の脇に餌をおいた。
次の日の仕事に行く前。そこには綺麗に餌が残っていた。その日の仕事を真面目に早退しようかと考えた瞬間だった。
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