第4話 酒と極楽
「こりゃまた別嬪さんだの。うむ、スタイルもよい」
「ほれほれこっちへ来なされ、お姉ちゃん」
「まったくジジイどもめ。そんなに女の裸が見たけりゃアタシのを見な」
「あんた分かってねえ。慎みってのが大事なんだ。それとお嬢ちゃんみたいな初々しさもじゃな」
「うんにゃ。それによ、誰もそんな垂れた乳なんか見たかねえ」
「偉そうに語るんじゃないよ。老いたエロ河童ども」
といったように、酒樽温泉の湯船はいつの間にか賑わっていた。
しかし年配の方ばかりで、若輩といえば私しかいなかった。慣れっこではあるのだが、やはり混浴というのは少なからず恥ずかしい。
タオルを巻いたまま湯船に足を入れると、強気な物言いの女性に「タオルは外しな」と注意されてしまって、私はあらゆる部位を両手で隠しながら湯に浸かった。
「せっかく湯に浸かるんだし、タオルなんか巻いてたらじっくり羽を伸ばせないだろ?」
「はあ、そうですね」
だが仕方ないと言うべきなのか、特に男性たちの目線が気になるところではある。首まで浸かって何とかやり過ごしていると、「あんたこそ河童みたいだ」と笑われてしまった。とにかく愉快な方たちで、困りながらも賑やかで楽しい場だった。
「ほれお嬢ちゃん、酒はいける口かい」
と、ようやくその湯の効能というか、酒の風呂たる所以を思わされる。湯の香りには酒精が含まれていて、そこまで濃くないにしろアルコールの香りがする。そして中央にそびえる大きな酒樽からは、このあたりの地酒がそのまま垂れ流されているのだそうだ。それから、湯船に浮かせた柚子も相まって体がポカポカと沸騰しそうになるくらい温まってくる。かと思えば、肩から上は山頂付近の冷たい風が吹いているので、それらが全て織り交ざってちょうど良い度合いの温かさになっている。この出来は見事だなあと感心せざるを得なかった。
私は先ほど八雲さんから頂いた酒器に日本酒を注いでもらい、ぐいと一呑みしてやった。すると男性たちが面白がって私にどんどん酒を呑ませ、それを女性たちがびしびしと厳しく追い払う。なんだか漫才を見ている気分であった。
「しかし、まだ若いのに、よくこんなところ来る気になったねえ」
「なあに言ってんの。アタシらだってまだまだ若いわよ」
そう声高々に笑って肩を撫でる仕草を見て、私は祖母のことを思い出した。
そもそも私が温泉巡りをするようになったのも、小さい頃から祖母にあちこちへ連れて行ってもらったからである。そう言えば、祖母といっしょにこの箱根にも来たことがあったような。
なんだかほろほろ泣けてきてしまった。きっと、お酒が入ったせいだろう。
「おおい、下田の婆さんや、背中ぁ流しとくれ」
「誰が婆さんじゃあ! まだ八十じゃあの」
「八十じゃ立派なババアじゃ。それよりここ痒いんじゃ」
ともかく賑やかで、ひとりで涙しているのが馬鹿らしくなるほどだった。
酒と湯に酔って笑って、それをこの旅の一番の思い出にしよう。そう思って私もそんな光景を見ては、あくまで慎ましやかに笑った。
「できればそこのお嬢さんに背中流してもらいたいもんじゃがの」
「おばばで我慢せんか。年甲斐もなく」
湯船の外ではそんなやり取りが繰り広げられていた。
それにしてもこの酒樽、いったいどれだけの酒が入っているのか。まるで尽きることを知らないように、勢いを無くすことなく湯船に酒を流しているが。もしやこの温泉、いつでもやっているわけではないのかもしれない。今日は何か特別で、街の人々が面をして歩いていたのも関わっているのだ。銀少年が言っていた。今日は祭りなのさと。
私は、つい先日ここを自慢した友人に感謝感激を捧げなくてはならない。今日じゃなければこの温泉には入れなかったかもしれないからだ。そう言えば、私の友人はどうやってこの酒樽温泉に入ったのだろう。あの八雲さんにどうやって許可を要求したのだろう。不思議だ。不思議と言えば、先ほど山の下で見た大きなカラス。あれはいったい何だったのか。本当にあんなカラスがいるとはとても思えない。
そう言えばと思い出し、私は湯船から少し乗り出して山を見下ろした。
富士山は依然として見当たらなかった。あの遊覧船からはちゃんと見えたのに。位置的にもここらからなら見えて当然のはずだが。
それから私は満足するまでたっぷりと酒樽温泉を堪能し、少し酔っ払った気分で湯を出た。
温泉の外は涼しい風が吹きぬけていて、余韻を思わせる。ほんのり火照った体は、そんな山の風に抱かれることで至高の悦びを味わうのであった。そしてまたそこで、旅はいいものだなあと心の中で呟いていたりもした。
「じゃあな。お嬢ちゃん」
「ええ、さようなら」
ところで、私といっしょの湯船にいたあの方たちは誰だったのだろう。私と同じように八雲さんから許可を頂いた方々だったのだろうか。そもそも八雲さんから許可を得る資格って具体的に何だったのか。私は宝物であるカメラを差し出すことでその許可が下りたわけだけれど、それにどんな意味があったのか。八雲さんはただカメラが欲しかっただけなのだろうか。
ともかく素晴らしい温泉であったということを八雲さんへ伝えに屋敷へ来ると、銀次郎がどこへ行ったか知らないか、と尋ねてくる。銀次郎とは、銀少年のことだろうか。私は「知らない」と答えた。
銀少年といっしょにあのカメラも消えたという。彼が持ち出したのだ。
私は彼の言うとおりにして八雲さんへカメラを渡したのだけれど、彼はなにか策のようなものを講じていたはずだった。確かにそんなことを言っていたはずだ。それなのに彼は屋敷から姿を消して、いったいどこへ行ったのだろう。
下町にいたときもそうであったが、彼はひょっとしたら、あのカメラが欲しかったのだろうか。それならそうと口に出して言ってくれればよかったものを。何もあのカメラが欲しいからといって、私が八雲さんに手渡した後に、それを盗んで逃げるようなことをしなくてもよかったのに。きっと彼が姿を消したのはそういうことだろう。私は少しがっかりしたまま、その温泉街に別れを告げることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます