第3話 酒樽温泉 たぬきのような方

 さわさわ風に鳴る木々をあえて上から覗くというのも、これまた趣があるというもので、私は犬が尻尾を振るかのようにロープウェイの窓に張り付いてそれを楽しんでいた。こんなことを公共の場で一人でやっていればただの変な人だが、こうして銀少年のような付き添いがいるとそんなことも出来てしまう。私はそうやってまた、旅の一期一会というものに感動し、感謝するのだ。

 このロープウェイは山頂付近にある温泉街を目指しているという。もしかしたらそこに念願の『酒の風呂』があるかもしれないと、そちらの意味でも私はふりふり尻尾を振っていた。

 相変わらず私の隣で景色を眺めている銀少年は、そんな私とは逆に、少し面白くないような顔をしていた。先ほどのお店で揉めていたことだろうか。それとも歩くのに疲れてしまったのかもしれない。とりあえず元気になってほしくて、私は先ほどとっておいた温泉卵をひとつ彼に分けてあげた。


「美味しいんですよ。少し冷めてしまっていますけど、いかがです?」

「ありがとう」


 そうこうしている内にロープウェイは温泉街に到着した。こんなに早く山を登れるだなんて、しかも見事な景色まで拝めるというなんと素晴らしい発明をされたものだと、ロープウェイとこれを考えた方に手を合わせ、私は胸を躍らせて温泉街へくり出した。



 行き交う人々の賑わいと、ひと昔前にタイムスリップしてしまったかのような懐かしさを感じさせる街並み、それからツンと鼻をさす硫黄の香り。それらが私を昂ぶらせ、悦びの糧になるということはあえて口に出して言うこともない。流石は名高い温泉地・箱根にある温泉街。私はまるで、聖なる地に足を踏み入れたような、そんな気分で街のつくりを隈なく眺めた。

 そんな風に舞い上がっている私の目を射止めたのは、街の中を堂々とぼてぼて歩く大狸だった。恰幅の良い中年男性のような体型に、全身を覆うこげ茶色の体毛。ご立派な尻尾まで付いている。その大狸が、今まさに私の歩くすぐ横を追い抜かそうとしているところだ。

 そうして大狸が私の真横に来たときに、銀少年がふいに私の背後に隠れてしまった。その大きな体に驚いたのだろうか。無理もない。軽く見積もっても、私の四・五人分はあるくらいの巨体である。

 ふと、その大狸がこちらに気付いて目が合った。するとその顔には何か違和感があって、よく見ればただの狸の面。その下には人間らしい肌色が見え隠れしていた。


「ほう……」

 大狸のようなその方が、私の胸元あたりをまじまじと見つめて、感嘆したように声を漏らした。何かと思えばどうやらその方が見ていたのは、私の主張足らずな胸でも何でもなく、首から提げていたこの一眼レフのカメラであった。


「彼はここの地主、名を八雲という」


 背から離れた銀少年が、そう説明してくれる。どうやらやはり人間の方のようで、その体毛は上着、尻尾に見えていたのは大きなただの腰巾着だったようだ。

 ともかくそんな面白いものを見られたということもあって、私は早速見つけた温泉卵の売り場へ行き、舞い上がった気分のまま、硫黄の香りと共にその美味を愉しんだ。卵にかじり付くその都度、やっぱり旅はいいものだなあと心の中で呟いていた。

 たくさんの寄り道の末に辿り着いたこの温泉街の、まずは温泉以外をたっぷりと満喫したところで、私はついに目的の場所を見つけることになる。

 あれは、と私の胸を射止めた代物とは、これまた大きなそして見事な、樽であった。大きな樽が岩の上にドシと置かれていて、『酒』と大きな文字で書かれてある。そしてその周りに漂う湯気と、ほんのりと匂う酒精の香り。間違いなくこれだ、と私はそのとき、今まで以上に目を輝かせていたことだろう。

 どうやらその温泉は『酒樽温泉』と呼ばれるそう。私は旅の目的地に辿り着いたということもあり、ぐっと大きく伸びをして身体をほぐした。


「お姉さん、ここへ来たかったんだ?」

「ええ。山奥にあるとは聞いていたんですけど」


 まさか山の頂上付近にあるとは。私はかの知己朋友の説明不足に少し不満を抱きつつも、目の前の湯に浸かることができればそれでよかった。早く入ってみたい。そう気持ちがひとり走りしてしまって、その場で着物を緩めようとしてしまうくらいだった。

 そしてどうやらこの温泉は、今では珍しくもなった混浴だそう。私は混浴だろうと構わないで湯を愉しむので、何ら問題はない。温泉の湯船における裸の付き合いというのも、これまた一興である。いや、決して猥らな意味でなく。

 私は外から満足するほどその酒樽を拝んだ後、一歩一歩を重々しくしながら、いざその湯船へと暖簾をくぐろうとして、銀少年に旅の終わりと別れを告げようとしたその刹那のことであった。銀少年が私のカメラを掴み、離してくれないのだ。


「お姉さんに、頼みたいことがあるんだ」


 こうして私は、目の前まで辿り着いた酒樽温泉をみすみす後回しにしてしまう。

 しかし我慢の末の愉悦も悪くはないかと温泉を惜しみながらも、私は銀少年のお願いを聞いてあげることになった。



 酒樽温泉に浸かるには、特別な資格のようなものが必要だということを八雲というその方から知らされて、私はショックを受けていた。どうやらただ入浴料を払えばよいというものではないそうだ。どうりで他に入浴している客がいなかった。

 さて私は今、だだっ広く畳の敷かれた部屋にひとりで緑茶を嗜んでいるところなのだが、私の手元にはあのカメラはない。銀少年と、あの八雲という殿方が持っていってしまったからだ。


 ここまでのいきさつを簡潔に話すとしよう。

 私は銀少年の頼みでこの屋敷まで連れてこられ、彼のことを「坊ちゃま」と呼ぶお年寄りたちにわいわいと出迎えられた。屋敷の中では面を取って大丈夫だと言われて私はキツネの面を取り、それは今すぐ手元に置いてある。銀少年に連れて来られた部屋では、先ほど街中で見かけた大狸の殿方、八雲さんが私を出迎えた。そして銀少年があのカメラをまた貸してほしいと言ってきたので、言われたとおり貸してやると、彼と八雲さんは揃って部屋を出て行ってしまった。

 あの酒樽温泉を所有しているのも八雲さんだという。即ちその入浴するための資格とやらも、その彼から頂けるらしいのだが、それには彼に気に入られなければならないそうだ。


「お待たせしたね、お嬢さん」


 ぼんやり茶を啜っていると、八雲さんと銀少年が戻ってきた。


「確かにコレクションしたいものばかりであった」


 八雲さんが扇子のように広げて持つそれは、私のカメラから現像したものらしい。遅れて銀少年がカメラを私に返しに来る。コレクション。何のことだろう。ちなみに、私はこの屋敷にいる間、終始きょとんとしていたことであろう。


「しかしわざわざ買い取るようなものでもあるまい。所詮は他人の旅記録だ。わしのほしい写真はそうしたものではなく、こう、まるで絵画のような出来栄えのものがほしいのだ」

「ごめんよお姉さん。きっとお姉さんの写真なら気に入ると思ったんだけど」

「しかし、そうよのぉ……」


 私は必死に目で訴える手段に出た。どうしてもあの温泉に入らなければ帰れない。そのためなら何だってする思いであった。


「ならば、そのカメラを譲ってはくれんかの。それならば喜んで酒樽湯に浸かる許可を与えよう」


 それは苦しい要求だった。これはいわば私の宝物。それを一度きりの温泉のために譲ってしまうというのはいささか呑みこめない条件である。もはや諦めるしかないのだろうか。そう肩を落として、何か手はないものかと考えていると、ふと銀少年がそばまでやって来て、私に耳打ちした。


「いいかい、おれの言うとおりにするんだ」

「でも……」


 大丈夫だからと得意気に言う銀少年。私はその言葉を信じるべきだろうかと悩んだ。

 しかしここまでの短い間だけれど付き添った旅の仲間として、そういう出会いを重んじる私にとって彼を信じないということは、自分が人間不信であることを強く疑うという所業に値した。ここは彼を信じてみよう。そう思い、私は祖父の贈り物であるそのカメラを八雲さんへ手渡した。


「本当によろしいのかい」


 私は強く頷いて応えた。

 すると八雲さんが部下を呼び、あれを持ってこいと言うと、消えるように俊敏な動きで行き来してきて、小さな皿のようなものを持ってきた。それにしても忍者のような方だった。

 それはさておき、どうやらこれがその特別な資格とやらだそうだ。とても小さな酒器である。


「ありがとう。ではゆっくりとくつろいでいっておくれ、お嬢さん」


 そう言い残して、八雲さんはカメラを持って部屋を去っていった。とりあえず念願のものは手に入れたのだが、やはり心残りがあるとすれば、あのカメラを取り返したい。しかしこれも一種の取引き。応じてしまったが最後、そうそう簡単に覆すものでもない。

 兎にも角にも、私はやっと酒樽温泉に入れるのだ。今はその悦びに浸かってしまおう。

 私は最初ここへ来たときよりも少しばかり元気をなくしてその温泉に向かうこととなる。たかがカメラとはいえ旅の共をしてきた、いわば仲間。それを手放すのはどうしても心苦しい。

 ふと気付いてみれば、銀少年が姿を消していた。私は先ほどの彼の言葉を信じて、今は旅の疲れを癒すことに専念することにした。

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