第2話 ふもと町でのひととき

 ここらの方々は面をつけて歩くのが風習なのですかと、ソフトクリームを幸せそうに舐める銀少年に訊いてみると、今日はお祭りなのさと彼は答えた。そんな私も、この商店街の入り口でもらったキツネの面をつけている。銀少年も同じものを。彼にはとてもよく似合っていた。

 町の中では面を外してはならない。このお祭りの最中は、悪しき物の怪に顔面を食われてしまうことがある、という言い伝えがあるそうなのだ。道行く人々、三々五々いろんな面をつけて歩いているのが面白おかしく、私はぞっとするよりは愉快で仕方なかった。

 すると、私たちに声を掛けてくる者があった。ぐねりと腰を曲げたお婆さんだった。


「綺麗な着物だねえ。わしに売ってくれんかの」

「ごめんなさい。これを脱いだまま道を歩くわけにもまいりませんので」


 そりゃそうだと高笑いするお婆さんの声はカラスのそれによく似ていた。面をしていて顔色は分からなかったが、お祭りを心から楽しんでいそうな方だった。手からさげた袋の数がそれを物語っている。


「顔は見えんがお前さん、かなりメンコイおなごと見た。多分わしの若い頃よりもな。ようし気に入った。どうじゃ少しの間だけ、わしの店の看板娘になるというのは」


 それは実に唐突なお願いだった。旅の途中である私にそんな仕事は引き受けられないと断ろうとしたのだが、お婆さんがその店の名前を言った途端、私の気持ちはぐるっと逆転した。


「引き受けましょう」

「そうら来た。うしし、ちゃんとお給料もやるからね」


 そうしたわけで私は、旅の寄り道をさらに寄り道して、風呂屋の看板娘をやることになった。

 これが意外と楽なことに、私はただ店の前で足湯に浸かっていればいいのである。膝の上に宣伝文句の書かれた看板を抱え、道行く人たちに「お風呂はいかがですか、暖かいですよ」と声を掛けるだけ。お婆さん曰く、裾を捲って生足をチラつかせろとのこと。私の足なんて決して可愛らしいものでもないのだが、それが客のニーズだとか何とか。その辺りはよく分からない世界である。

 すっかり放ったらかしにしてしまった銀少年は、私のカメラを持って山を撮りに行っていた。もしかしたら写真撮影が得意な子なのかもしれないとそう思い、祖父からの贈り物であるカメラを貸してやったのだが、ふとどうしても不安になる。船で知り合ったばかりの見知らぬ少年に、大切なカメラを渡してしまったのはどうなのかと。そして、こうも思った。あんな純粋そうな子を疑うなんて自分もどうかしていると。そんなことを延々考えてしまうほど、看板娘の仕事はヒマなものだった。

 やがて店からお婆さんがひょっこり現れて、またカラスに似た声で笑った。なんでも客入りがいつもの倍に跳ね上がっているとのことだ。そのお礼として、私は茹で上がったばかりだという温泉卵を頂いた。これがとても美味で、慎ましやかなその黄身の味にうっとりしてしまうほどだ。


「その温泉卵はね、山ン中で同じのが売っとるよ」

「どちらのお山ですか?」


 お婆さんが指差したのは、先ほど船で写真を撮ったあの山であった。


「何じゃお前さん、もう行くのかい」

「ええ。まだ旅の途中ですので。今度はあの山へ行ってみようと思います」


 その風呂屋の湯にも浸かってみたかったのだが、ここは我慢だと己に言い聞かせた。目的の『酒の風呂』で全てを発散するのだ。ここで少し垢を落としてしまっては、そこでの気持ちよさも半減してしまうというものだ。


「お前さんがよければずっとここで看板娘をやっててほしいんだがね」

「いえ、私はまだ旅の途中ですので」

「お前さんのようなメンコイおなご、なんだか手放すのが惜しい気がするねぇ」


 そう言ってお婆さんはやんわり笑った。……いや、面をしていて顔は見えないのだが、ただ何となくそう思った。亡くした実家の祖母を思い出してしまう。この方と同じく、大袈裟によく笑う陽気な人だった。

 私はブーツの紐をぐっと縛り、そのお婆さんにしんみりと別れを告げて、山の方へ歩き出した。着物を着ているのにブーツとはなんて多文化的な格好なのだと思うだろうか。旅をするのに下駄や草履では歩きにくいのだ。

 兎にも角にも、次に目指すはこの美味なる温泉卵の在り処。温泉卵ということもあり、やはり近くに温泉があるのかもしれない。そう、あの山へ行ってみるのはその温泉を見てみたいためである。ひょっとすればそれが『酒の風呂』であったりするかもしれない。というのは、あくまでそうであってほしいという期待を添えた憶測に過ぎないのだが。

 しかしその前に、銀少年を探さなくてはいけない。私が風呂屋にいる間、およそ一時間、私の貸したカメラで写真を撮りに行ったはずなのだが。

 と、何やら話し声がして、ふと足を止めた。


「頼むよ坊主。これ以上は出せない」

「いいや、その額じゃダメだね。悪いけど他を当たることにするよ」


 そう言ってお店の赤い暖簾をくぐって出てきたのは、銀少年だった。思いがけず再会できたことにホッとして少年の方に歩み寄ると、お店の奥から覗くものと目が合った。いや、よく見ればそれは飾られていたただの水彩画であり、それが人の目に見えただけだった。不覚にもそんなものに驚いてしまったのかと自分に呆れる。


「看板娘はもういいのかい、お姉さん」

「ええ。それより何やら揉めていたようですけど」

「気にしないでくれ」


 銀少年は私の手を引き、少し行ったところで貸していたカメラを返してくれた。なかなかいい写真が撮れたんだよと彼が自慢げに話すので、さっそく確認してみることにした。


「わあ、綺麗に撮れてますね」


 彼の撮った写真は、この辺りにある幾つもの山々の写真だった。どれもこれも同じような写真に見えるが、曰く、すべて違う山なのだそうだ。

 私がこれから目指そうとしていた山の写真もあるのだが、これだけ何やらモヤ掛かっているというか、写りが悪い。しかし一生懸命に撮影した少年の努力に苦言を呈すのはいかがなものかと思い、これらも旅の思い出としてしっかりと保存しておくことにした。


「お姉さん、次はどこへ行こうか?」

「今度はあの山へ登ってみたいんです」

「お祭りは、もういいのかい?」

「また帰りに寄ってみます」


 そのとき遠くで何かが羽ばたく音がして、軒並みの向こうから一羽の大きなカラスが飛び去っていった。あんなに大きなカラスがいるものだろうかと、それが飛んで見えなくなるまで眺めていると、銀少年が行こう行こうと裾を引っ張ってきた。

 ところで、さっきから気になっていたのだが、富士山はどこへ行ったのだろう。

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