酔いどれ温泉旅行

にしなり

第1話 酒の風呂

 これは私が訪れたとある温泉街での、ほんの些細なお話である。


 皆さんは、世の中には『酒の風呂』なんてものがあるということをご存知だろうか。読んで字のごとく、湯船に酒が注がれている風呂なのだが、これがまた素晴らしく気持ちいいそうだ。私がそれを知るきっかけになったのは、旅行が趣味である知己朋友にその自慢話をされたことである。私はその話に、あっという間に好奇心と興味を支配されてしまったのだ。

 ところで、私は先日成人したばかりの若輩であるが、こう見えて温泉というものには目がない。日本各地の名高い温泉地はもちろん、幾百年の歴史を持ちながら明るみには出てこない名湯の地などにもたびたび出向いている。そうした温泉巡りが、私の生き甲斐なのである。

 かくして私は、噂の『酒の風呂』を求めて旅に出たのだった。

 旅のお共には、首からさげてある、祖父に頂いた一眼レフのカメラ。これが後にあんな風に役立つとは思いも寄らなかったのだが、ひとまずその話は置いておくとする。

 まず、旅をすることの基本観念として、寄り道をするという楽しみ方がある。すぐに目的地へ辿り着いてしまっては何の面白味もない。旅のことを振り返って思い出すというのも、立派な旅の味なのだ。これは例の朋友から直々に教えてもらったことなのだが、私も同感である。

 芦ノ湖のほとりをてくてく歩いてゆくと、たいそう立派な風貌をした船が停泊しているのを見つけた。どうやらそれは湖を渡る遊覧船のようで、私はさっそくそれに乗船することにした。

 しかしその日は休日であったためか、子連れの人やカップルがなかなか多くて、独り旅をしている私としてはなんだか肩身が狭い気がした。それでもそんな気分は、船から外を覗くと見えてくる富士山に、ふわっと浄化してしまう。私はその青々とした大地の神秘に敬意を表し、幾枚かの写真を撮った。

 その撮った写真を見ようとカメラをいじっていると、私は横にやってきた見知らぬ少年にふいに声を掛けられた。


「何を撮っていたの? 着物のお姉さん」

「富士山ですよ」


 すると少年はそこ腰を下ろしてじっと外を眺めた。

 この子の親御さんは近くにいないのだろうかと辺りを見渡してみても、ここにいるのは若いカップルと見ていて微笑ましい老夫婦くらいで、それらしい人はいなかった。きっと下にいるのだろうと納得し、私はカメラの操作に戻った。


「富士山なんて珍しくもない。ここら辺ならどこからでも見られるじゃないか。それよりあの駒ケ岳を撮りなよ。きっと良い写真になる」


 四国に住む私からすれば富士山を目前にすることも十分珍しいのだが、純粋そうなその少年のイチオシを無碍にするというのもいささか残酷な気がするので、私は彼の指差す山、駒ケ岳にも数回シャッター音を切った。撮れたそれを見せてやると、彼は嬉しそうに白歯を見せて笑った。

 私たちのそんな様子を、とある老夫婦が微笑ましそうにして通りすぎていった。仲の良い姉弟にでも見えたのだろう。思えば、その少年も黒い着物を身にまとっていた。私の着ていた着物も黒の柄物だったもので、傍からすればそう見られてもおかしくはなかった。兎にも角にも、この遊覧船が対岸に到着すれば彼も両親のところへ戻ることだろう。こうして旅先で見知らぬ人と言葉を交わすのもまた旅の一興。そうした一期一会も、旅の思い出として立派な役目を担うのだ。

 いくらか気を大きくした私は、窓の鉄柵にもたれて目下の湖を眺めた。

 細い風がひゅうと鳴り、それらが髪を撫で、木々がざわめく。それはまるで私が見ている景色そのものが生きているみたいだ、と言っては大袈裟なのだろうが、ああ寄り道をして良かったなと感動させられたのは確かだ。私は遠くの富士山に向かって、大きくため息をついた。

 しばらくそんな気持ちの良い景色に酔っていると、着物の少年が興味津々にじーっとこちらを見つめていた。もっと正確に言えば、私の着物の、胸から下辺りを。曇りのないその眼差しに、私はまるで心を見透かされているような、実に不思議な気分であった。


「帯のところに糸くずが付いてる」


 少年が指差した場所に、およそ糸と呼べるかどうか危ういくらい小さなくずが付いていた。


「外の風に乗ってきたんでしょう。教えてくれて、ありがとうございます」


 そう礼を告げると彼は照れ臭そうにした。きっとこんなところにくずが付いていたものだから、彼は彼で注意しづらかったのだろう。まさか手で払おうとは思うまい。私は彼の紳士的対応に精いっぱいの誠意を込めて、道中で飲もうと持ってきていた甘酒をゆずった。


「おれが貰っていいの?」

「いいんですよ。それよりすごく目が良いんですね。こんな小さなくずを見つけるなんて」

「たとえばだけど、虹の色に黒があったら目立つだろう」


 少年はふたたび私の着物に目をやってそう言った。

 どうやらこの着物を褒めてくれているらしい。というのも、言われたとおりの虹を想像してみて、ああ成程と感付いたのだ。思わず頬が緩んでしまう。


「すてきな口説き文句です。お父上か誰かに教わったのかしら?」


 恐らくあと七、八年後に言えば意中の女性を口説き落とせるやもしれない、そう付け足してやると、彼は手にある甘酒を一気飲みして照れ臭さを誤魔化そうとして、ごほごほと咽た。

 私はその時、やっぱり旅は楽しいなあと心から思えた。

 そして改まってそんなことを思う自分に何だか笑えてきて、いっしょになって咽た。旅はいいものだなあ。旅はいいものだなあとまるで酒に酔ったみたいに。

 それが、銀という名の不思議な少年との出会いだった。

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