第5話 帰り道
帰りのロープウェイから見えた、山に隠れた夕陽がとっても綺麗だった。
しかし同じロープウェイに他にもお客さんがいて、私は登りのときみたいに感動をあらわにしてはしゃぐことが出来なかった。写真を撮ろうにも、あの大切なカメラは手元に無く、何もぶら下げていない胸元は、妙に寂しい。
あの子は、今どこにいるのだろう。
せめてちゃんとお別れの言葉を伝えたかった。道案内をしてくれたことも感謝しなきゃ。
ロープウェイを降りると、他のお客さんたちは散り散りにいなくなっていった。きっとあの方たちも旅の途中なのだろう。私もそろそろ行かなくては。私は背後にそびえる駒ケ岳に向かって、軽く手を振って歩き出した。
そうして先ほどの商店街を、それぞれ帰途につく旅人たちの波に乗って通り過ぎていると、ばささ、と空が鳴った。またあの大きなカラスが飛んでいた。今度は街の中に降りていく。夕焼け空に羽ばたく黒翼にはなかなか趣があった。
「あ……」
と、私が立ち止まったのは、赤い暖簾のお店の前。つい先ほど、銀少年が何やら店主と揉めていたあの店だ。相変わらず人の目に見える水彩画がこちらを覗いている。
するとその水彩画の真横、ちょうど私の目の高さのところに、何枚もの、山の写真が飾られてあった。どれもこれも同じような山の景色で、けれど僅かに違っていて、それぞれが別の山なのだろう。綺麗な写真だなあ、とその写真の撮影者に心の中で拍手をして、私はふたたび街を下った。
「おおい、また会ったねぇ」
私に声を掛けてきたのは、これまた先ほどであった風呂屋のお婆さんだった。
「この匂い……。やっぱりお前さん、酒樽に行ったんだね」
「あの温泉をご存知だったのですか?」
「そりゃあ祭りのたびに通っているからね。あれのお陰で長寿しとるのさ」
酒は長寿のもと、酒に十の徳あり、ということだろうか。いったいお婆さんは何歳なのだろうと尋ねようと思ったが、女性に年齢を尋ねることほど失礼なことはないのだ。
それにしても、お婆さんはあの八雲さんからどうやって酒樽温泉の許可を頂いたのだろう。
「もう帰るのかい?」
「ええ。温泉卵、美味しかったです。ありがとうございました」
「いいんだよ」
こわもての面を取って、お婆さんはにっこりと笑ってくれた。その笑顔にはやはり祖母を思い出してしまった。ちくりと目の奥が熱くなったことは、あえて吹聴することはしなくともよいこと。自宅へ戻ったらお線香を上げてやろうと思った。
「元気での。この老いぼれ、その着物を買い取るまであと五十年は生きてやるぞい」
「うふふ、お婆さんも御元気で」
「そのメンコイ顔、また見せにおいで」
そうやって私たちはお互いの手を握って、さよならをした。
最後に握ったお婆さんの細い手は、本当に祖母のそれにそっくりで、風呂屋からしばらく行ったところで私はつい泣いてしまいそうになった。
また何かが羽ばたく音がして、振り返るとそこには、夕焼けを被った富士山が見えた。
すっかり暗くなった芦ノ湖のほとりを、湖を眺めながらすたすた歩いた。
向こう側にライトアップされた神社の鳥居が見えた。とっても綺麗でしばらく見つめながら歩いていた。けれど少し行ったところで、同じそれを眺めて肩を抱き合うカップルがいて、私は早足でそこを通り過ぎると、なぜかため息が出た。
やがてバスのりばへ到着し、そこの椅子に腰掛けて今日の旅路を思い浮かべた。
遊覧船で出会った銀少年のこと。彼といっしょに訪れた商店街での不思議なお祭りのこと。商店街で出会った、カラスによく似た声で笑う風呂屋のお婆さんのこと。ロープウェイから見えた美しい景色のこと。山の上の温泉街で出会った大狸のような格好をした、八雲さんのこと。そして旅の目的地である『酒樽温泉』でのこと。姿を消した、銀少年のこと。
これらの些細な出来事たちは、きっと良い思い出として私の中に残っていくことだろう。そうして今回でのことを、かの知己朋友に知らせてやるのだ。今度はいっしょに来るかもしれない。
それから、祖父にはごめんなさいを言わないといけない。せっかくの贈り物を簡単に手放してしまってごめんなさいと。あと、祖母にもこの旅の話をしよう。きっとあのお婆さんみたいに笑って聞いてくれることだろう。
兎にも角にも、楽しい旅であった。旅というもの自体の余韻を感じるのはまだ早いが、私に向かって吹く夜風がそれを掻き立ててくる。やっぱり、旅はいいものだ。
「寒くないの、お姉さん?」
膝になにか暖かいものが当てられて何かと思えば、温かい甘酒だった。
と、私はいきなり隣に現れた彼に「ひっ」なんて情けなくも変な声で驚いてしまった。
そし彼が手渡してくれたのは、私が八雲さんに渡したはずのあのカメラであった。
「追いかけてくるの大変だったよ。お姉さん、黙って山を降りちゃうもんだから」
「えっ」
「それで探してたらここにお姉さんが見えたんで、急いで飛んできたんだよ」
銀少年が指差したのは、あの山の頂上。まさかあそこから私が見えたとでもいうのか。
そう言えば彼は、すごく目が良いのだ。しかしだからと言って、すぐにここまで降りてこられるものだろうか。私には彼の言うことがよく分からなかった。
そんな風に私が首をかしげているのを見兼ねたのか、銀少年が椅子から飛び上がって、私の正面に立ってくるっと一回転して見せた。
「おれの名前は、
彼の背中からは、黒い小さな翼が生えていた。
そのあまりに不可思議な光景に面食らっていると、彼はぶわりと飛び上がり、月に重なって私を見おろした。
「お姉さん。こうして見ると、やっぱり富士山も綺麗だね。でも写真より生で見た方が絶対いいよ!」
「あ……」
「それじゃあもう行くね。楽しかったよ、素敵な着物のお姉さん!」
彼はそう言って更に高く舞い上がり、柔らかく手を振って、駒ケ岳の方へ飛び去っていった。
ふと我に返った私はその後ろ姿に、大きく手を振り返した。彼もそれに気付いて、こちらへ手を振ってくれた。私はあまり大声を出すのは得意でないので、その場で小さな声で、
「ありがとう」
そう呟いてすぐに、バスの光が、私をまぶしく照らした。
酔いどれ温泉旅行 にしなり @persian221
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