第16話 予兆
「アトリ!」
看護師達の注意なんかお構いなしに病院内を全力で駆け抜け、彼女のいる病室に飛び込んだ。ベッドの上で彼女は眠っている。腕から伸びる点滴、額にはガーゼが貼られていた。転倒したときに頭を打ったと聞いていたが、実際目にしてみて、彼女の小さな顔に不釣合いな、ぼこりと飛び出たガーゼは痛々しかった。
ベッドに近づく。気配を感じたのか、アトリの瞼がゆっくりと開いた。
「ケイ?」
「アトリ、大丈夫か!?」
「アホか。大丈夫やったらこんなとこおらへんっちゅうねん」
苦笑しながら彼女はぼやく。
「ブリギッドが大げさやねん。ちっと転んで気ぃ失うただけやのに」
気を失ったら大げさにもなる。でも、この毒舌を聞けてほっとした。どうやら本当に大丈夫なようだ。
「退院はいつ出来るんだ?」
「頭打っとるから、精密検査で一日検査入院や。明日には退院できると思う。ブリギッドも言うとった」
「そうか、良かった」
「何がええねん。仕事溜まっとんのに」
「その仕事のせいだろ。働き過ぎなんだよ。ちょっと休めば・・・」
「休んどれるか!」
彼女には珍しく、声を荒げた。すぐさま冷静さを取り戻して、取り繕うように笑いかけてきた。
「いや、あれやねん。せっかく順調にきとんのに、休むなんてもったいないやん?」
「そ、そうか」
違和感はあるが、彼女の笑顔はそれ以上の追及を拒んでいた。
「そんなことより、自分、今日の舞台はどやった?」
「え? ああ。もちろん、成功した。最初のころに比べると雲泥の差だな。認知度も上がって来て、出た瞬間から拍手を貰えたよ」
わざとらしいまでの急な話題転換だが、俺はそれに乗った。彼女が聞かれたくないことは聞かない、とジェントルぶっているが、本当は怖かったのだ。彼女が頑なになってまで隠すことを知るのが。
「過去の俺に教えてやりたいぜ。お前は一年後にはアクラクセインで人気者になってるってな」
「絶対信じへんやろな。過去の自分、全然おもんなかったし」
冗談を飛ばす。二人して笑う。けれど、その笑い声はどこか空虚なものが混じっていた。
それから一週間は普通の日常が戻ってきた。復活した彼女は以前と同じようにバリバリ仕事をこなし、俺を各地に飛ばして国民の意識改革を行い続けた。忙しさは簡単に病院での一件を頭の片隅へと追いやる。いや、記憶の彼方にやって後回しにしたいがために、意図的に押しやったのかもしれない。
テレビ出演の一日前、いつものようにアカシャ総合病院での舞台を終えてはけてきた俺を、袖で見ていた彼女が出迎えてくれた。
「ようやった」
彼女が右手を掲げる。ハイタッチだ。俺の舞台が上手く行ったとき、彼女は必ずこれをする。一種の評価査定の結果だ。反対に出来が悪いときは舞台袖にいない。先に車に戻ってしまう。袖で出迎えてくれるのは彼女が良い舞台だったと認めた証だ。
「おう、サンキュー」
自分の右手を彼女の手に合わせる。パァンと乾いた音が鳴った。幾度目になるかもう覚えてない。けれど、何度やっても良いものだ。最初、彼女がハイタッチに憧れているという話を聞いたときは変なこだわりだと思ったが、やっていると次第に癖になってくる。今ではこれが無いと成功したと思えなくなっていた。
「ええ感じに仕上がっとるな。これなら、明日のテレビも大丈夫そうやな」
「任せとけ。絶対に成功させる。約束するよ」
「はは、ついこの前まで失敗したらどないしよ言うてビビッとったやつとは思えれへんな。・・・なあ、自分。さっきのハイタッチ、何回目か知ってるか?」
「? いや、知らない。ほら、最近の俺、ノッてるから。それだけ舞台成功させてきてるから、数えきれねえんだよ」
アトリが苦笑した。彼女も成功したときしかハイタッチしないのを認識している。そして、ここ最近は舞台の度にハイタッチしていた。
「丁度百回目や」
百回、思ったより少ない気がする。
「そんなことあらへんよ。よう考えてみ、一年三百六十五日あって、上手く行った舞台が百回やぞ。上手く行かへんほうが多かった頃の分足したら、一日二回公演があったとしても三百回、一年のほとんど舞台上がっとる。凄いことやで。ほんまこの一年、ようやってくれた」
腰を折り、深々と頭を下げる。
「ちょ、おいおい、止めてくれよ」
慌てて彼女の体を起こす。
「まだ明日のテレビが残ってるから。それも終わってないのに気が早すぎる。終わってからにしてくれ」
「せやった。けど、ほんまに嬉しくてなあ。ちっとずつアクラクセインに活気が生まれ始めとんのを見んのがさ。今までどんより昏ぁかったこの病院の雰囲気も、自分のおかげでずいぶんと明るなったし。ようやく、うちが望んだ世界が広がりつつあるんや」
「笑いで国を変える。最初に聞いたときは頭おかしいんじゃないかと思ったけどな」
「あ! やっぱ馬鹿にしとったんやろ!」
「悪い悪い。けど、その夢は俺の夢にもなってたよ。あんたの熱意に引っ張られてな。始めはどこでもいいから舞台に出たいって欲と、金目的だったけど。いつの間にか俺もその光景を見たくなってた。俺の方こそ感謝してる。俺を認めてくれて、信じてくれてありがとう。ここまで連れて来てくれて、本当にありがとう」
「止めえや。泣かす気か」
そう言う彼女は、少し目を潤ませていた。その顔を見てドキドキしてしまう。さっきはワザと言わなかった一番デカい目的。
―成功したら、うちのこと好きにしてええんよ?―
忘れるわけがない。あんな衝撃的で、魅力的な申し出を。でもそれを口にするのは憚られた。
俺は普通に彼女が好きになっているからだ。
まあ、一年近く俺史上最高の美女と一緒にいたら、馬鹿な男に恋愛感情を抱くなと言う方が無理な話だ。だからこそ、契約とか報酬とか、そういう形ではなく、きちんと申し込もうと思う。今度のテレビ出演が成功したら、絶対。
「ちょっと手ぇ貸して」
決意を固めていたところに、アトリがこちらに向かって左手を伸ばしてきた。言われるがまま、その手を取る。
「引っ張って」
引っ張る。彼女はそれに合わせ、肘掛けに置いた右手で体を支えるようにして立ち上がった。
「立てたのか?」
ずっと車椅子だから、立てないのだと思い込んでいた。聞くのは失礼かもと思って聞けずにいた。
「ちと疲れるから、長いこと立っとくんは無理や。けど、支えてもらえたら、ちょっと間やったらいける」
アトリは舞台の方へと顔を向けた。
「ケイ。頼みがある。うちを舞台へ連れて行ってくれ」
「へ?」
照明は既に消え、人もまばらになった場所に何用があるというのだろう? もちろん彼女の頼みとあらば否は無いけど。
「歩くの、しんどいんじゃないのか? 車椅子でもいいんじゃ」
「いや、歩いて行かせてくれ」
強いこだわりがあった。俺はそれ以上理由を聞かず、彼女の体を支えながら舞台へと向かう。一歩ずつ、一歩ずつ。よろけそうになる彼女の体を支えて。こんなに小さかったのか。
「ああ、これが舞台か」
舞台中央、センターマイクのあった場所でアトリは顔を綻ばせた。
「自分は、いつもここに立っとるんやな。ここで戦っとるんやな。ここで、誰かを幸せにしとるんやな」
片付けの風景は物悲しいが、だからこそ、この場で沸き起こった人々の笑い声の大きさを想起させる。
「そんな、大げさなもんじゃないよ。それを言うなら、アトリの方が大勢の人間を幸せにしてる。そもそも、あんたが動かなきゃ、今日もここはみんなが沈んだ顔をしてたはずだ」
「そうかな」
そうだよ、と強く同意する。
「やったら、ええなぁ」
ふっ、と彼女から力が抜けた。崩れ落ちそうになったところを慌てて抱きとめる。
「大丈夫か?」
抱きとめた瞬間彼女から香るいい匂いやら体の柔らかさやらなんやらで頭のリミッターが吹き飛んで彼女に対する愛しさとかその他諸々が湧き上がって欲望のままに動きそうになったのを必死で堪えて押さえ込んで平静を装い声をかけた。俺、凄い。
「悪い。そろそろ限界や。戻ろか」
苦笑する彼女の脇と膝下に手を入れた。
「ちょ、おい!」
無視して抱き上げる。うん、押さえ込んだと思ったがちょっと漏れ出たようだ。
「この年になってお姫様抱っことか・・・」
恥ずかしそうにアトリが顔を隠す。
「いや、この年だからだろ。一番似合う時期だと思うぞ」
照れる彼女を抱えて、車へ向かった。車椅子を忘れたことに気付いたのは、家についてからだ。
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