第12話 侯爵夫妻
ガッチガチに緊張していたが、何とか無難な挨拶を交わすことが出来た。
『ほう、君が?』
にこやかに、侯爵。だが、何かおかしい。アトリに向けられていた笑顔と同じもののはずなのに、少し違和感を覚える。
『やあ、よく来てくれたね。歓迎しよう』
すっと侯爵は手を差し出した。気のせい、だったのか。差し出された手を取る。
『アワジヤ君、だったね』
『はい。こ、侯爵に置かれましては、ご機嫌麗しく』
『ああ、いいんだいいんだ。そんな堅苦しい挨拶は。アトリの紹介というならばなおさらな』
ははは、と声を上げてこちらの手を握り、空いた方の手でバンバンと肩を叩いてくる。えと、あの、結構痛いんですけど。
『時にアワジヤ君。君は・・・アトリとはどういう関係かね?』
言葉とグッと掴まれた手によって、痛みから逃げようとしたところを阻まれた。銀婚式を迎えるということは五十前後のはずだ。なのに、手にこめられたこの力強さはどういうことだ。ぐいと侯爵に引き寄せられる。
『どういう関係、と申しますと?』
『ふむ、君は日本人だったね』
侯爵は俺の肩をがっと掴んだ。傍目には親しげに肩を組んでいるように見えるだろうが、実際は左肩と右手を押さえられて身動きが取れない状態だ。柔道なら押さえ込み一本だ。
「ではここからは日本語で話そう。それなら周りの者にここでの会話を聞かれることはないから、正直に何でも話せる」
そして侯爵が俺の顔を覗き込んだ。笑みの奥に見える目は、獰猛な肉食獣の輝きを放っていた。あ、まずい。これは本当にまずいやつだ。壁の花どころか、主役に捕まって、しかもその主役は俺を完全に敵視している。大人しく過ごすどころか、ここからの俺の一挙手一投足が俺の命を左右するデスゲームへと変貌した。
「アワジヤ君。君は知らないかもしれないが、私は彼女の父ディーン・アカシャ伯爵とその奥方エイダ・アカシャ伯爵夫人とは親しくさせてもらっていた。そして、アトリのことは小さい頃からよく知っていて、自分の娘のように可愛がってきた。何度かディーンに言ったものだよ。彼女を私の娘にくれないかと。その度に殴り合いのケンカになったのも今では良い思い出だ」
貴族でも一昔前の熱血野郎たちが川原でやるようなことをする、そんな無駄知識が増えた。いずれ合コンとかで披露する機会を生み出すためにも、侯爵の話や動きに神経を尖らせる。
「そして、ディーンの死の間際、彼から託されたのだよ。アトリが困ったら助けてやってほしいと。私はその約束を守るつもりだ。にもかかわらず、亡き親友から託された大事な大事な娘に、知らないうちにどこの馬の骨ともしれない虫が付いている。これは由々しき事態だ。わかるよな?」
腕にこめられる力が増加した。肉を抉り、骨が悲鳴を上げるレベルだ。大声を出さなかった俺を後で誰か褒めてくれるだろうか。冷や汗と脂汗滲む俺に、侯爵はさらに詰め寄る。
「アワジヤ君。自分で言うのもなんだが、私はこの国でも、そして世界でも結構地位のある立場にいる。権力を有している。権力、つまり力があるということは、それだけいろんなことができるということだ。そう、例えばわが子同然の可愛い娘にたかる虫を人知れず消すということも可能なわけだ。さあ、改めて聞くよ。アワジヤ君
てめえ、うちのアトリの何だ?」
ヤクザもマフィアも裸足で逃げ出すと思う。ひざが震えて、皮肉なことに侯爵に捕まってなかったら膝から崩れ落ちていたところだ。ガタガタ震える俺を見て、「あ、そうだ」と侯爵は何か思いついたように言った。
「私としても、君のような前途有望な若い人を消すのは忍びない。だから、どうだろう。アトリは諦めてくれないかな。もしここでOKしてくれたら、悪いようにはしない。代わりに良い娘を紹介するよ」
夜の繁華街にいる客寄せお兄さんみたいなことを言い出した。もちろん、俺はアトリを裏切る気は毛頭ない。けれど、男として、男として! 良い娘いるよといわれたら一応、念のため、確認をしなければならない。
「い、良い娘・・・?」
「うん。ちょっと年上かもしれないけど、良い娘だよ。『鉄の処女』って言うんだけどね」
抱かれたら文字通り昇天しちゃうよ。熟女好きもびっくりの中世から変わらぬお姿をお持ちの女性を紹介されてどうしろと。
「くっくっく、貴族は華麗なだけではない。こうして裏では権力に物を言わせて相手を屈服させ、隷属させてきたのだ。いいか、二度は言わん。アトリから手を引け。今すぐ荷物をまとめて日本に帰れ。そうすれば追っ手は出さん。どうせ、彼女の資産目当てなんだろ? 私が出してやるから。君は何の労も無く金を得られるじゃないか。平和的解決だ。そうしよう。なぶっ!?」
侯爵が突然吹きだした。見れば、彼の横腹に細い肘が入っている。
『まったく、あなたは何をしているの?』
呆れ顔の侯爵夫人だった。
『決まっているだろう。私の可愛いアトリにたかる虫を駆除しようとしているのだ』
『おやめなさい。アトリ本人に嫌われても知りませんよ』
『ふん、その程度のことで私とアトリとの信頼関係は揺るがんぞ。なあ、アトリ』
突然話を振られて、アトリは苦笑するしかない。夫人がこちらに来たとわかるや否や、侯爵はすぐさまアトリと話し出した。
『迷惑をかけてごめんなさいね。嫌な思いされたでしょう』
侯爵夫人がウインクしながら謝ってくれた。夫人からすれば、俺など侯爵の言う通りどこの馬の骨ともしれない庶民だ。そんな俺に謝るなんて思わなかった。
『いえ、それだけアトリが愛されているということだと思います』
『うふふ。夫も、私も大好き。あの子の両親も大好きだったし。だから、あの子には幸せでいてほしいの。夫は、ちょっとその気持ちが強すぎるだけなのよ』
侯爵夫人の横顔を盗み見る。彼女はアトリを見ていた。慈しみが九割と、残りはなんだろうか、寂しさ、とか、悲しさ、のようなものが色々混じっている。
『アワジヤさん、だったかしら』
『はい。よろしければ、どうかケイ、とお呼びください』
『ケイ。どうか、あの子の力になってあげて。あの子の願いを叶えてあげてくれないかしら』
『侯爵夫人は彼女の計画をご存知なのですか?』
『ええ。知っているわ。何度か相談を受けたの。最初聞いた時は驚いたわ。笑いで国を変えるなんてどうかしてる、って』
『私もそう思いました』
『ふふふ、思いました、なの? じゃあ今はどうなの?』
『今は、そのどうかしてる彼女の野望が、私の野望になっています』
俺の言葉に、侯爵夫人はニッコリと笑った。
『良い人を見つけたわね。あの子は』
小声の早口だったため、聞き取れなかった。夫人も俺に聞かせるために言ったわけではないようだ。
『ぜひ楽しんでいらしてね』
夫人は俺から離れ、アトリと話し込んでいる夫の腕を取った。
『あなた。ほら、そろそろお薬の時間ですよ、アトリ、ごめんなさいね。少し席を外します』
『え、ちょ、ニーナ!』
『皆様、申し訳ありません。すぐに戻ってまいりますので、引き続き楽しんでください』
侯爵は引きずられるようにして奥に消えていった。なんというか、非常にインパクトのある夫婦だ。
「大丈夫か?」
気遣うような目でアトリが見上げていた。
「あ、ああ、大丈夫だ。しかし、凄い人たちだったな」
「毎度毎度、ああして私を気遣ってくれるんよ。今日だけに限らず、
この国の未来のために、か。彼らのことを苦笑しながらも畏敬の念を持ってアトリは語る。
「けど、いくら仲良えアピールしとるいうたかて、あそこまでひっつかんでも大丈夫やとおもうんやけどな。徹底主義のお二人らしいっちゃらしいけど」
いや、あれは素だ。本当にアトリが大好きなのだ。あの
「ま、ここでの最優先事項はこんで終わりや。あとは適当に・・・」
『何だ? こんなところにマネキンがいるじゃないか』
悪意と敵意を隠そうともしない、毒のような言葉が撃ち込まれた。
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