章外

これはおそらく、しあわせな終焉

風の音がうねる。

耳に這う、なじんた色。

低く、高く、頭の奥を苛むような・・・

嵐か?

いいや、ちがう。これは・・・

地獄の業火の燃え盛る音。



◇◇



能員よしかずどのを北条館へ向かわせてはいけないよ」

 人目を避けてのことだろう。

 夜分に訪れた客人は、単刀直入にそう、切り出した。

「罠だといいたいのか?」

 比企ひき三郎さぶろう宗員むねかずは、こともなげに応えた。

 客人は、かつて白拍子だった女。共通の主をいただいた、死線をともにくぐった女だった。

「北条は仏像供養と偽ってあなたの父、比企能員どのを招き寄せ、誅するつもりなのよ」

「おぬしの諜報網は健在、ということか。おやじどのに進言はしてみるが、無駄であろうな。これを断れるくらいなら、今日、このような事態にはなっておるまい」

「罠を承知で、のこのこ出かけるっていうの?」

「今更さ。断ればそれを理由に攻め込まれる。もう、終わっておるのだよ。比企は」

 源頼朝公が、命を落として何年が経ったろう。

 二代目の将軍、頼家よりいえはこの比企ヶ谷で育った。比企の総領である比企能員の妻は、頼家の乳母であった。尊い家のこどもは、乳母とその一族に育てられる。この将軍家との固い絆ゆえに、比企はいま、滅亡の道へと迷い込んでいる。

 すべては、将軍頼家と、生母である政子との確執からはじまっていた。

 いまとなっては、何が悪かったのか。

 頼家は母親とその実家である北条を疎み、比企を頼みにした。比企の娘を妾として、男子までもうけている。

 政子はそんな頼家に冷淡であった。そして頼家の弟である実朝は、政子の妹を乳母にして北条に守られて育てられた。

 次期将軍を争って、あからさまに比企と北条は敵対するかたちになってしまった。

 頼朝公が、もう少し長く生きていてくださったら・・・。

 あまりに若くして跡を継いだ頼家は失策を繰り返し、将軍になってほどなく、実権を取り上げられてしまった。幕府の政治は、有力御家人たち評定衆による合議制となった。

 頼家は、これで自棄になってしまった。

 比企ヶ谷に入りびたり、毎日のように蹴鞠や、酒宴に興じ、もともと丈夫でもない体を壊すに至った。

 いま、将軍頼家は、御所で瀕死の床にいる。

 頼家の正妻には男子がなく、跡目争いは紛糾した。

 そして幕府が下した決断は、国の半分を比企の娘が生んだ男子に、残りの半分を頼家の弟である実朝に継がせるというものだった。

「国を二分するとなったときに、これはもう、避けられない道になったのだ。おやじどのは、手を引くべきだった。比企を守るために」

 将軍の跡目をあきらめてさえいたら、命だけは救われただろうに。

 それほど、権力がほしかったのか。いや、権力というよりも、おやじどのの愚かな意地だ。

「宗員、あなた・・・」

「幕府の価値は、武士たちの意志と力を統一することにある。これが二分されてしまえば、幕府に意味はなくなると、他の御家人衆も理解しているだろうよ。分裂をこのままにしておけない。北条はよく立ち回った。気が付けば、我ら比企に味方するものなど、だれもおらぬ」

 もう、手遅れなのだ。

 比企は、将軍家のご縁を頼みにしすぎた。

 北条はよく学び、政治に長けている。

 北条は時代をみて、他の御家人衆もとりこんだ。比企にはそれができなかった。

「能員どのが誅されれば、そのまま比企と北条は交戦することになるでしょう。あなた、それでよいの?」

 罪はもはや、確定している。

 あとは早いか遅いかだけだった。

「命運はすでに尽きた。もう逃れるすべはない」

「私が知っている宗員は、もっとあきらめの悪い男だったわ」

 ふたりの間に、懐かしい時間が吹き抜けた。

 あんなにも必死に生きて、懸命に願い、殺伐と、それでいて輝いた季節。

 夢まぼろしのごとくに、すべては過ぎ去った。

 彼らの主も、もういない。

 扇の要を失えば、同輩たちもまた、今生の定めにのみこまれ、散っていった。

 いまあるのは、泥沼のような現実。

「わしももう、若くはない。うるさい姫様も、もう、おらぬ。すべては、終わったのじゃ」

 宗員は立ち上がり、引き戸を開けた。

「――帰れ、葵」

「宗員!」

「むかしの誼を忘れず、訪ってくれたことには礼を言う。我らには関わるな。達者でな」

 すでに覚悟はかたまっている。

 振り向く彼の横顔は、妙にしあわせそうで。

 葵と呼ばれた女には、告げられる言葉はなかった。



◇◇



 怨嗟の声と、断末魔のうなり。

 比企一族は、最期の時を迎えていた。

 すでに比企ヶ谷は追討の軍に囲まれ、劣勢はあきらかだった。女こどもすら、容易には逃げせないだろう。

 いや、女やこども・・・頼家の子と、その母だけは、生かしておくはずもない。

 頼家の子、一幡君はまだ幼かった。

 幼い主を守りきることができず、一門の主だった者たちは一幡を囲んで自害して果てた。

 館には火が放たれている。攻め手はひとしきり暴れたあと、館からは引きはじめていた。

 下の者は逃げ出しただろうが、果たしてどれだけ逃げおおせるか。

 熱い。

 思考はまとまらず、理性は熱に溶けて、純粋な感情だけが残っている。

 炎に包まれた館の中、宗員は傷だらけの頬をぬぐった。

 すべてが失われようとしているいま、宗員にとって大事なものはひとつだけ。

 最期を共にしたいのは、ただひとり。

「結局わしは、おぬしを苦しめることしかできなかったようだ」

 目の前には、欲しくて欲しくて、焦がれぬいた妻がいた。

 彼女は、ゆっくりと首を横に振る。

 最後まで、やさしい女だった。炎のあかりに照らされた顔は、出会ったころのまま、無垢でやわらかい。

 甲冑がきしむ。宗員は、強く彼女を抱きしめた。

「許してくれとは言わぬ。どうしてもおぬしが欲しかった。おぬしだけがいてくれれば、それでよかった」

 どれだけ苦しめたか。それでも、彼女は宗員を選び、傍にいてくれた。

 これが罪だとわかっていたのに。――手放せない。

「だれにも渡さぬ。次の世でも、必ず」

 宗員は手を緩めると、迷いなく太刀を彼女の胸につきたてた。

 一突きだった。

 彼女のからだから、力が抜けた。

 なきがらをそっと寝かせると、続いて、己の首筋に、太刀をあてる。

 血しぶきが散った。

 庇うように、独占するように、宗員は彼女に重なる。

 薄れていく意識のむこうで、館が燃え堕ちていく音だけがしみていった。



◇◇



「――宗員。おい!」

 目を開いたとき、一瞬、宗員はここがどこだかわからなかった。

 目の前には男装の麗人・・・葵の前と呼ばれる白拍子がいた。

「葵・・・」

「こんなところで、居眠りなどするな。うなされていたわよ」

 よく見れば、ここは鎌倉御所の奥の庭。彼がよく隠れて休憩する大木の根元だった。

 のどかな風。きらめく木漏れ日。

 大きく、ひとつ、息をつく。

 自分が纏うのは僧衣で、重くきしむ甲冑ではなかった。

 早鐘のような鼓動が、ようやく落ち着きを取り戻していった。

「葵・・・おぬし、若いな?」

 見下ろす彼女をまじまじと見つめて、つぶやくと。

「ふざけるな!」

 思い切り蹴りをいれられるから堪らない。

「いてっ」

「いい加減に、目を覚ませ。姫さまがお呼びよ」

 姫さま・・・そうか。

 これが、現実か。

 あれは夢。燃えていく館も、女の胸を突き刺したこの手の感触も、視界を覆った己の血しぶきも。

 凄惨な夢から覚めて、宗員は現実に目を向けた。

 姫さまが呼んでいる。

「また、ろくでもないご用事ができたのではあるまいな」

「仔細はこれから伺ってくださいな。すでに幸氏が召されてるわ」

「幸氏が? 待たせるとうるさいな」

 蹴られた腰を大げさにさすりながら、宗員は起き上がった。

「ねえ、宗員。あなた、どんな夢みてたの?」

 あきれつつも、好奇心をむき出しに、妖艶な美女は宗員を覗き込んだ。

「・・・もう、忘れた。なんでそんなこと訊く?」

「だって、いままでで最高にしあわせそうな顔してるんだもの」

 指摘されるまで、宗員はそのことに気づいていなかった。



 いまはまだ、出会っていない女。

 潰える比企。

 比企のために、滅びる自分。



 それは、遠い遠い未来の・・・しあわせな終焉のおはなし。

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くだん姫 ハルコ @shirayuki_haruko

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