四 <裏切り>

四 <裏切り>




「どうやら、褥は共にしていないようだな」

 ささめの控えの間まで来て、宗員は安堵したようだ。

「・・・下品な物言いはよせ」

「ははは。おぬしだとて、気になっておるのだろう?」

 幸氏は否定しなかった。

 夜はふけて、いま、館は寝静まっている。嵐は過ぎ去り、雲の合間からわずかに月がのぞいている。しずかだ。嵐は暑気もぬぐい去ってくれた。暑さもじき、終わりを迎えるのだろう。

 迷いながらここまで来てみた。もしもささめが許嫁と肌を合わせていたりしたら、自分は立ち直れなかったかもしれないとも思う幸氏だった。まったく、複雑な心境だ。

 姫さまの予言のままに、すでに自分は彼女に心を奪われているのだろうか? 

 いや、そこまでの恋着はない。ない、と思う。きっと気にかかるのは、彼女が自分たちと同じ運命を背負っているからだろう。

 くだんのしもべの生涯は、過酷だ。人の世にあっては肉親の縁が薄く、異形の者たちには命を狙われ、それでいて自分のすべてはくだんを守るためにある。くだんの命令には絶対服従、逆らいたくても逆らえない、そのように生まれてついているのだ。

 だから、しもべたちの結束は固くなる。しもべにあるのは主君と同輩だけだから。

「早く行動しないと、取り返しがつかなくなるぞ。あの男が死人ならささめどのの命が危ない。死人でないなら、祝言をあげてしまうぞ。・・・死人ならばおぬしが斬れば冥府へ追いやれる。死人でないなら、奪い取れ。いまなら時定どのにも迷いがあるし、いくらでも対応はある。あまりぐずぐずしていると、横から他の男に奪われてしまうからな」

 宗員は強引な性格そのままに、親友をけしかけた。

 幸氏はつめたいほど沈着なまなざしを宗員へ投げた。

「彼女を気に入ったのか?」

「気に入っているとも。わしの切ない胸の内を思いやってくれるなら、さっさと態度をはっきりしてほしいものだ」

 あいかわらず食えない男だ。

 考えておく、と、幸氏は答えたところに、ばさばさと鳥の羽ばたきが割り込んだ。闇から抜け出たように黒く濡れた羽の烏が、宗員の肩へ舞い降りる。

「戻ったか」

 烏は、時尚の房室を見晴らせていた宗員の使い。標的の姿を見失ったがために舞い戻ってきたのだ。呪術で作り上げられた使いの目を逃れるとは、まっとうな人間にできる芸当ではない。

 ご苦労、と小声でつぶやくと、烏の姿はふうっと揺らいで闇に溶けた。

「決まりじゃな」

 時尚は、人ではない。

 いや、もはや、人ではないというのが正しかろう。

 かつて彼であったもの。死者の辿るべき道を拒絶して地上へ執着する罪人。そう、彼は罪人だ。どんなあやかしに入れ知恵されたものか、地上へ留まる術を得て。

 罪を望むのは、ささめへの想いゆえか?

 天の理に逆らうからには、なまじかな執着ではあるまい。

 捕らわれれば、ささめは徐々にその生気と霊力を奪われ、遠からず死に至るだろう。

 無理にでも引き離し、罪人は冥府へ送りつけなければ。

 それが、どんなにささめを傷つける結果になったとしても。

 自分たちは、彼女の大切なものたちを奪うしかできない。今度こそ、恨まれ憎まれるだろうか。

 幸氏はしずかに頷くと、そのままささめの控えの間の戸を叩いた。



◇ ◇



「ささめは、あの櫛をどうしたのだろう」

 男は、あやかしの杜、暗い社の主の元にいた。

「あの僧形の鬼が隠したようだな」

 つまらなそうに、主は言った。

「あいつか」

 男は低く唸る。

 はじめて会ったときから、気に入らなかった。初対面でありながら挑戦的なまなざしで挑んできた男。有髪のくせに僧形で。鬼のくせに人の形(なり)をして。もうひとりの男も落ち着き払ったところが小生意気だった。

 あいつらが鬼。大事なささめを奪っていく鬼。

「鬼がその気になれば、そなたに勝ち目はない。やつらの霊力は忌々しいほどだ。すでにそなたの正体も知れていよう。戻れば、そなたは斬られ、冥府へ送られる。死者がこの世に留まるのは、天の理では大罪だからな。地獄落ちは免れまい」

「なぜやつらはこうも都合良く現れたのだ」

「あれはくだんの姫のしもべたちだ。くだんの予知に触れたのであろうよ」

 それはつまり、あの娘がくだんの必要とするしもべであるという証。くだんはいかに未来を予知し、高い霊性を誇ろうとも、現身はあまりにも脆くできている。手足となるしもべたちがなければ、予知ができてもそれを生かす術を持たない。

 だからこそ、このあやかしの主は鬼を除こうと謀るのだ。手足をもがれた聖獣が、何もできずにのたうちまわるのを見たいのだ。

 あやかしの主は、男を挑発した。

「その身が惜しければ、このままどこぞへ消えるのだな。あの娘は諦めて・・・」

「諦めるものかっ」

 それではこの世に留まった意味がなくなる。

「諦めるものか。おれはあいつに誓ったんだ。決して独りにはしないと」

 己の思惑通りに男が動きそうなので、あやかしの主は満足だった。

「それではこれをそなたにやろう。鬼を相手に徒手ではあまりにも不公平だからな。これがあれば、鬼を倒せずとも娘をかすめるくらいはできよう。そして娘を一度、ここへ匿うがよい。ここなら容易に鬼の手は届かぬゆえな」

 差し出されたのは、懐紙に乗った三つの碧玉だった。



◇ ◇



 叶野のいない夜。ひとりきりの夜。

 慣れているはずなのに、いま、こんなにもそれが辛いなんて。

 ささめは眠れずにいた。あまりにもさみしくて、せつなくて、孤独を紛らわせるために宗員のくれた猫を抱いていた。

 頼りにしていた大切な許嫁が生きて戻ってくれたというのに。この身を裂かれるような孤独感はどうだろう。

 先が見えない未来に初めて希望を見出したのは、つい昨日の夜だったではないか。

 どんな困難でも越えていけると、共に戦いたいと願ったのは・・・もう、もどれない昨日。

 平穏な北条へ戻れるというのに。そこで時尚に守られて、あたりまえの一生を無難に暮らしていく道が戻ったというのに。

 なぜ、こんなにむなしい?

 まるで、無いものねだりのこどもだ。

 あのときはこちらを懐かしみ、いまは向こうを欲する。

 時尚を裏切るのだけは、いやだ。それはもう、心の内で結論されているのに。

 そこへ、戸を叩く音。

「ささめどの」

 ちいさく、呼ぶ声。

 それが海野幸氏であると、ささめにはすぐにわかった。意識するまえに、体が動きそうになった。立ち上がり、手を伸ばしかけ、けれど、ささめはそれを意志の力で押さえた。

 開けられない。

「ささめどの」

 応えてはいけないのだ。彼らとは袂を分かつのだから。

 宿直に来てくれたのだろう。自分をあのあやかしから守るために。

 今日が例の約束の日にかかろうとしていると、ささめはわかっていた。叶野がいないいま、ひとりでいるのがどれだけ危険であるのかも。

 だが、こんなときだけ彼らを頼るなんて、ささめにはできなかった。彼らに助けてもらうだけ助けてもらって、それでいて彼らの望みはかなえられない自分。迎えにきたと言ってくれた彼らに、自分はついていけないのだから。

 救いだけを彼らに求めるなんて。

 それは、裏切りにも等しい行為ではないか。

「・・・だめです、幸氏どの」

 今宵は厳重に戸を閉じている。しん張りの棒も用意した。外からは簡単に開きはしない。

「ここを開けてください」

「だめです。もう、私のことは放っておいてください」

「なぜです?」

「私はもう、鎌倉へは行けません。明日には北条へ戻ります」

「――それは、困るのう」

 どうやら、宗員もいるらしい。

「ささめどの。開けていただけないなら、無理にでも入らせていただく。今宵はやつらが来る。ひとりでは危険じゃ」

「開けません。どうか、私のことはお見捨てください」

 涙がこみ上げてくる。どうしてこんなに悲しいのか。ささめは戸に背を向けた。

 しかし、戸を閉めておく程度では、彼らの進入を防ぐのは無理なのだった。

 がたっと、音がして、振り向いたささめの視線の先では、ふたりが戸をくぐる瞬間だった。押さえとしていた棒は、灰のように細かくなって元の姿を失っていた。

「・・・なぜ」

「ああ、これはわしの得意技のひとつじゃ」

 結界をはるよりも、破る方が得意な宗員だった。宗員の前では、いかなる施錠も、いかなる結界も意味をなさない。実はささめが猫を手元においてくれていたので、余計に呪術的には簡単になったのだが、それは言わぬが花というものだ。

 覚悟までも打ち破られた気がして、ささめはへなへなと座り込んだ。

 ふたりは月を背負って立っていた。幸氏は弓と太刀を、宗員は数珠と文箱を携えていた。

「守ると、約束しただろう」

「ささめどの。おぬしはもう、ひとりではない。独りで戦う必要はないのじゃ」

 ふたりが、ぼんやりと輝いて見える。

 月のほのかな灯りのせいか、彼ら自身の霊的なものなのか、それはわからなかった。けれど、それはあまりにきれい過ぎて。

 涙が止めどなく、流れた。

「私は鎌倉へは行けません。あなた方のご厚意を受ける資格はないのです」

 あきらめようと決心したのに。揺らぎそうだった。

 ついていきたい。彼らと共に行きたい。どんな感情がそう思わせるのか自分でもわからなかった。時尚を裏切りたくはないのに。時尚の気持ちに報いたいのに。

 幸氏を前にすれば、自分の気持ちが幸氏に傾いてしまっているのを止められない。いや、気持ちが止められないからこそ、余計に時尚への後ろめたさが、ささめの自由を許さなかった。

 気持ちの上では裏切っている。だからこそ、行動でまでは裏切れない。

 忘れなければ。

 北条へ戻りさえすれば、元の生活に戻れば、忘れられる。きっと。

「なぜ、行けないのじゃ? 許嫁を愛しているからか?」

 宗員は意地悪だ。おそらく、ささめの幸氏への気持ちに気づいているだろうに。

「私にとって、あの人はだれよりも大切です。兄のように、いつでも私を庇い、慰めてくれました。あの人の望むような気持ちではないかもしれないけれど・・・あの人が必要だというなら、側にいてあげたいんです」

 わかっている。それは過去への執着でしかない。同情よりも質が悪い。結局は自分のために時尚から離れられないのだから。

 時尚のためと思いながらも。彼を裏切る自分が許せなくて。裏切れば暖かな思い出のすべてを失う気がして。

 どこまでも身勝手な自分に嫌気がさす。

 幸氏は何も言わなかった。

 弱い彼女をこれ以上傷つけたくはなかった。

「そうか・・・しかしな、ささめどの。あれはもう、人ではなかろうよ。気づいているのだろう?」

 宗員は、ささめを哀れんでいた。

 在りし日のすがたのまま現れた彼。体も心も、かつて彼であったもの。

 しかし、あれは生きてはいない。何か異様な力で動かされている。まるで生者そのままに。

 相手が鬼たちでなければ、気づかれなかっただろう。そのくらい、彼はかつての姿のままだった。

「まさか」

「わからんのか? いや、わかりたくないだけではないのか? あれはきっと、おぬしに残された最後の家族なのだろう?」

 見透かされている。

 彼への、執着の理由。

 時尚はただひとり遺された、しあわせだった時代の残像なのだ。

 その彼が帰ってきてくれた。・・・どうして、拒否できる?

 彼がもう、人間でなかったとしても。

 ささめを見捨てず、心を残して戻ってきてくれたのだ。

 彼らの言うことが正しいのかもしれなくても。

「それでも・・・です」

「己を生け贄に捧げるか? それがどんなに罪深いか、わからぬわけではあるまい?」

 あやかしは、鬼の気を喰らって力をつける。

 死霊はその力があればこの地に留まることもできる。

 だがそれは、世の理において最も大きな罪。地に縛り付けられた霊は、そのままでは永劫に救われないのだから。

「あの人がもう人ではないというのなら、罪は、私が引き受けます。私があの人に、罪を犯させたのです。私が弱すぎたから。だからあの人は」

「莫迦な。罪はどんな罪でも、犯した本人のものじゃ。だれも肩代わりなどできぬ」

 宗員はあきれた。しかしささめは、ただ頸を振るばかりだ。

「あの人がすでに死者だというなら、私が側にいて見張ります。だれにも迷惑はかけません。北条で静かに暮らします。私が生きている間だけです。私が今生を終えるときには、必ず彼を連れて閻魔王の御前に参ります」

「敢えて罪をかぶるのか?」

「ここで彼を見放せば、もっとひどいことになります。あの人は、ふつうの人間でした。自力で甦るなどできるはずがありません。おふたりのおっしゃることが真実なら、だれかに唆されてこの世に留まったのだと思うのです。だれかが知識と力を貸さなければ、あんなにも生前のままの姿は保てないでしょう? あんな、生きているような死者は、私は見たこともありません。そんな方法を教えた相手がどんな存在なのかはわかりませんが、私がここで見放せば、彼はそのだれかの元へ行って、本物の悪霊になってしまいます」

 ふたりのやりとりを目の前にして、幸氏は急激な既視感に襲われた。

 こんな言葉を、こんな風に泣く女を、どこかで見たことはなかったか。はるか昔、そう、生まれ変わる前のその先の記憶。

 消えてしまった思い出。届きそうで届かない、もどかしさに幸氏は震えた。

 もう少しで、届きそうだった。

 それでもそれはするりと幸氏の横を通り抜けて、風のように消えてしまった。

 もしかしたら、地獄の鬼に堕とされた業は、似たような経験だったのかもしれない。お人好しな、莫迦正直な娘。何もかも背負うなど、どんな目に遭わされるかしれないのに。

 彼女は、鬼だ。このとき、幸氏ははじめてそれを実感した。愚かで罪深く、そして哀しい鬼。姫さまの予言は受け入れられなくても、仲間としては認められる存在となった。

 幸氏は、頭を振った。過去にとらわれている場合ではない。大事なのはいま、このとき、直面した危機を逃れることこそだ。

「ささめどの・・・大切なことを間違えてはいけない。そなたは鬼。一度罪を犯し、そのために地獄の獄卒という業を背負った。同じ過ちを繰り返すのか?」

「幸氏どの・・・」

「方法は、ある。私がそなたの許嫁を閻魔庁へ送ってやろう」

 それが、幸氏の異能であったから。彼の手にかかった者は、強引に閻魔庁へ送り込まれてしまうのだ。拒める者はない。たしか、そう聞いていた。

「でも、でも・・・」

 いまになって、時尚を突き放すなんて、できない。幸氏に同意するのは、死んでまで自分を求める時尚を見捨てる行為だ。

「決心するのだ。残酷なようでも、それが最終的には彼のためになる」

「やさしさが弱さにつながるのは、罪じゃ。それは強さに基づくものでなければならない。ささめどの、強くなりなされ。おぬしに最も必要なのは、強さじゃ」

 ふたりの言い分はもっともだ。理性ではささめにもわかっていた。

 どうしよう。どうすればいい?

 ふたりの言いなりになれば、本当に時尚を裏切ってしまう。それがどれだけ時尚を傷つけるか。

 いや、それでも時尚を受け入れてしまえば、結局は彼を苦しめるだけ。すでにこの世に甦っただけでも、ゆくゆくは地獄へ堕とされる大罪だった。

 これ以上、彼を苦しめるなんて、間違っている。

「ささめどのが決められずとも、我らはあれを放置してはおけぬ。どのみち選べる道はひとつだけだ」

 宗員は無慈悲に見えた。鬼というものにふさわしく思えた。

「まもなく、丑三つ時となる。約束どおり、奴らは現れるだろう。守ってほしくない約束には迷惑なほど律儀な連中じゃ。ささめどのを連れだしに、やつらはここへ来るだろう。餌もまいておいたしな」

 宗員は小さな文箱の蓋を開けた。

 月光の中、廊下にぽつんとそれを置く。中にはあのときの見事な櫛が納められている。

「もしや・・・いえ、やはり、あのときの求婚の相手というのは・・・」

「時尚どのであろうな。まったく大した執着心じゃ。気持ちはわからぬでもないが、所詮星が違いすぎたな。――なあ? 時尚どの?」

 あやかしはゆらりと姿を現した。文箱の前に立っていた。

 時尚だった。

 生前のままの姿。生前のままの記憶をもって。でも、目の前にいるのはもう、自分が知っていた時尚ではない。死者の冷気を伴っている。夜の陰の気が、彼の気配を隠しようもなく暴いている。

 幸氏は太刀を構える。

「ささめどの。下がれ」

 もはや、彼らの戦いは免れようもなかった。

 宗員は数珠を持つ手を時尚へ向けた。

「よくまあ、我らのいるところへのこのこと現れたものじゃ。おぬしに蘇りの法を教えたやつは、我らの存在を忠告せなんだか?」

 時尚はまるでふたりが見えぬようだった。

 ただ、ささめだけを見据え、ゆっくりとその手を伸ばした。

「ささめ、おいで。迎えに来たのだ。おれといっしょに、行こう」

 青白い月光の元、すべてが暗い影を帯びて闇に浮いている。

 ささめは震えていた。恐怖はなかった。ただ、悲しかった。

「兄上・・・どうして? 死者が現世に留まるのはとても大きな罪なのよ?」

 どうして私を見捨てなかったの? どうして・・・。

 ゆらりと闇に浮かぶ彼の表情は、幽鬼じみたところはなかった。

 この上なくやさしげな、生前のままの姿。

 懐かしい声が、繰り返し呼ぶ。

「ささめ、おいで。もう独りになんてしない。これからはずっと側にいる。心配だったんだ。おまえが泣いているんじゃないかと」

 ・・・ささめ、おいで。

 幼い日、夕焼けの中で。物の怪たちに囲まれてひとり遊んでいたささめを、温かい家へ、人の輪の中へ引き戻してくれた腕。強引で、わがままで。意志の弱いささめに、常に道を示してくれた。

 ・・・ささめ、おいで。

 でも、いまは。彼は常夜の罪の中へ招こうとしている。破滅へつながる闇へと。罪を罪と知りながら。

 ・・・ささめ、おいで。

 ささめ・・・。

 呪文みたいに繰り返し、繰り返し、時尚は呼びかけるのだった。

「私のせいなのね・・・私が心配かけてばかりいたから、無理にこの世に繋がれてしまったのね。・・・ごめんなさい・・・」

 安らかな眠りを奪ったのは自分。

 彼に罪を選ばせたのは、自分の弱さ。頼りない、莫迦な娘のために。

 もっとも迷惑をかけたくなかった人に、こんな罪を背負わせて。

 ささめはまだ迷っていた。

 どうすればいい? どうすれば償える? どうすればあなたをしあわせにしてあげられるの?

 わかってる。言われるまでもなく、正しいのは幸氏たちなのだ。天の理を犯した者は、無理にでも冥府に送らなければ永遠に救われない。いつまでも地上を彷徨う悪鬼になりはてる。

 幸氏たちには、彼を救う力がある。それを頼ればいい。簡単なことだ。

 だがそれは、おそらく、時尚にとって最大の裏切りだ。

 こんなにも自分を大切にしてくれる人を裏切るなんてできない。

 どうすればいい?

 ささめを庇い、先に動いたのは宗員だった。

「使いたちよ。死霊の動きを封じろ!」

 翳された数珠が、青白い霊光を放った。

 その光の中から、烏が、黒猫が、狗が、飛び出して、いっせいに時尚を襲った。

 時尚は帯びていた剣を抜いた。それらの獣を切りつけるが、斬ればそれらはふたつに裂け、それぞれが元の姿を取り戻す。ふたごのように増殖して、更に牙をむいていった。斬れば斬るほど数が増えていく。奇妙な術だった。

「幸氏っ」

 宗員は、術に集中しつつも、相方を呼ぶ。

 使いが死霊の動きを封じる間に、幸氏が敵を斬りつけるはずだった。

 しかし。

「させるか!」

 時尚は懐紙に包まれた碧玉を床に投げつけた。

 煙が立ち上り、現れたのは極彩色の大蛇だった。最初はちいさかった三匹が、みるみる人以上の大きさにふくれあがった。

「――!」

 大蛇は大口をあけて牙をむき、宗員の使いたちを飲み込んでいく。

 碧の巨体に、赤く光る目。異形の獣。

 ささめは泣き濡れたまなざしで、時尚を凝視した。獣を操る姿は、すでに悪霊と化していた。

 知らず知らずの内に、魔へ近づいていくのだろう。取り返せないほどに。

 それならば、いっそ。

 すべてを終わらせなければ。

 答えはやはり、ひとつしかない?

「――いいえ。私にはもうひとつ、答えがあるわ」

「ささめどのっ」

「ごめんなさい。私、先に閻魔庁へ行きます」

 ささめは走り出した。ふたりの間をすりぬけて、差し伸べられた腕を目指して。

 そうだ。時尚を裏切らず、また罪を重ねなくてもすむ方法がひとつだけある。

 それは――いますぐ、共に閻魔庁へ行くことだ。

 すなわち、死。

 ささめは時尚の手をとった。

「いっしょに行きましょう。私が連れて行ってあげる」

「ささめ――」

 そのときだった。

 ものすごい力が、ささめを突き飛ばした。華奢な体が、大きく弾かれる。

 力の元は――叶野だった。

「・・・叶野?」

「莫迦! 勝手に死ぬんじゃない!」

 叶野はささめと時尚の間に割って現れていた。

 一瞬のできごとだった。

「いまだ、幸氏! 斬れ!」

 宗員に言われるまでもなく、幸氏は動いていた。好機をのがすはずもない。

 太刀が弧を描き、月光がはじかれた。たしかに肉の斬れる音。袈裟懸けに斬られて、時尚の体は倒れた。

 間違いなく、深手であった。

 三匹の大蛇までが、苦悶にゆれた。幸氏はすかさずそれらを切り裂く。

 蒸発するかのごとく、音を立てながらそれらは消えていった。時尚が現世から消え去ろうとしているいま、大蛇たちに力はなかった。

 ささめにはそれらの動きはまったく視野に入っていなかった。

「兄上!」

 ささめは時尚に駆け寄り、すがった。

 正面から斬られたはずの肉体。傷口はぱっくりとはぜていたが、血はなく、闇色をした傷口だけがあった。

「おまえ、独りじゃあないんだなあ・・・」

 斬られたというのに、時尚は笑っていた。唇が歪むのは自嘲のせいだ。時尚に罪を犯させたのは間違いなくささめへの想いだった。自分がいなくなったら、ささめは独りになってしまう。その愛情と執着が、罪を選ばせた。

 ささめは今度こそ彼の手をにぎった。彼に残された時間は、もうあとわずか。

「泣くな。泣かせたくて甦ったんじゃない」

「うん・・・わかってる。いつだって、私のこと大事にしてくれたもの」

 だからこそ、一緒に行ってあげたかった。

 彼の内側から、もれていく生気。割瓶から漏れる水滴のごとく、失せていく時間。

 最後に話したいのは、何だろう。

 ささめは言葉を探したが、ただ、彼の告白に耳を傾けるしかなかった。

「ささめ・・・おれはずっとおまえが好きだった。兄としか見てくれなくても、かまわない。手に入るならどうでもよかった。嫁にきてくれると決まって、うれしかった。奥州で手柄をたてたかった。おまえのために」

 こんなにも求められていたのに。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 しかしいま、この場での謝罪は、彼へ愛情を返せないという告白に等しい。

 だからささめには、ただ頷くしかできなかった。

「でも、おまえにはやはり手が届かないのかな。こどものころ、他人には見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえるというおまえが不安だった。いつか、目の前から消えてしまう気がして。つなぎ止めたくて、ずいぶんわがままを言った。すまなかったな」

「謝らないで」

 負い目など感じないで。悪いのはすべてあなたではない。・・・私が、人でなかったから。だからあなたを罪に追い込んだ。

「ああ・・・おまえには、結局何もしてやれなかった。遺してやれるものもない。せめて扇子のひとふり、櫛の一本でも、まともなものをやりたかったな。奥州へ赴く前に、鎌倉で見かけたんだ・・・若い女の喜びそうな物たち。帰るときには持ち帰ろうと思っていた。おまえの喜ぶ顔が見たくて」

 莫迦ね。いつだってあなたはたくさんのものをくれた。愛情も、安心も、居場所も、思い出も、過去のしあわせはあなたがくれた。そう。

「私はいつもしあわせだった。あなたが側にいてくれて。幼いときからずっと、あなたは私を支えてくれた」

「あのまま時間が過ぎてくれればよかったのにな。そうすれば、おまえを失わずに済んだろうか」

 左手はささめに握られたまま、彼の右手だけがささめの頬に触れた。

 両手はもう、冷たい。

 急速に、その身から力が抜けていくのがわかった。

 ささめには痛いほど時尚の愛情がわかっていた。これほどの愛情に、自分は裏切りでしか返せない。気持ちに応えられないのが、もっとも大きなささめの悔い。

 どうして自分はこの人を愛せなかったのだろう。

 兄としてではなく、ひとりの男として。

 兄としての愛情なんて彼は望んでいない。わかっていたのに。

「・・・いっしょに、行くわ」

 言わずにはいられなかった。

 もはや自分にはそれしかできることがなかった。こんな自分のために罪を犯した人。いつでも自分を一番に考えてくれた人。置いて行かれるよりも、ひとりでこの人を旅立たせなければいけないのがつらかった。

 時尚はすぐには応えなかった。

 明らかな、逡巡。

 だが、あきらめたように目をつむると、ささめの頬から手を離したのだった。もはや言葉にも体にも、力はなかった。

「おまえが死ぬのなら、おれが生き返った意味がないだろ? おれはおまえと死にたかったんじゃない。生きたかったんだ」

 ありがとう。

 最後のそれは、彼の体と共に、塵となって消えた。

 蘇りの術は解けたのだ。ささめの握っていた手も、もはや空を掴むばかりだった。

 あの櫛だけが、残った。

 ささめは動けなくなった。彼の痕跡を必死に探すけれど、みじんの気配さえ残されてはいなかった。今度こそ、逝ってしまったのだ。自分を残して。

 涙が止まらなかった。祈らずにはいられなかった。もしも閻魔庁が存在して、ほんとうに閻魔王が彼を裁くというならば、どうかその罰を私にください、と。それだけが自分にできる、精一杯の弔いだった。

 暑さは去り、すずしい風がやわらかく自分を包んでいく。

 いつのまにか時間は経っていて、東の空は白くにじみ始めていた。

 透明な蒼が、かなしみに溶けるように夜闇を押しのけていく。

 夜明けが近い。

 気づくとささめのうしろには、ふたりと一匹がしずかに立っていた。側にいてくれる、あたたかい気配。

 ゆっくりと振り向くささめに、彼らはあからさまな安堵を示した。

 いくらかささめが落ち着いたと想ったのだろう。幸氏はささめの頭にぽんと手を置いた。

「あまり、心配させるな」

 不器用な彼なりの、精一杯のいたわりなのだろう。

「あやつは、おぬしを道連れにはせなんだ。現世に留まった罪は重くても、最後のそれでいくらかは閻魔王のご慈悲がいただけるのではないかの」

 宗員も、近づいてくる。

「やつはさ、最後までおまえを大事にしていた」

 叶野は相変わらず細いきつねの姿で、ささめの肩にちょこんと乗っていた。

 あたたかい。これが、生きているということなんだ。

「みんな・・・ごめんなさい。ありがとう・・・」

 あついものが胸につかえて、どうしてもそれ以上ささめは口にできなかった。

 夜が死んで、朝が生まれていった。

 


◇ ◇



「つまらん結末だな」

 あやかしの男は、自らの社で、その結末を見届けた。

 手元の大きな水瓶に望めば、彼はおよそこの国のすべてを覗く力があった。

「だから人間の男など、あてにはならぬと申し上げましたのに」

 由衣はあきらかに不満げだった。それは主に対してではなく、主の期待に微塵も応えられなかった人間の男に対する侮蔑だった。

「期待というほどでもなかったが、どうしてあれは自ら身を引いてしまったのだろうな。今更、天道の理に逆らうを恐れたわけでもあるまいし。欲するものが目の前にあるというのに、なぜ強引に手に入れようとはしなかったのか」

「あの娘の幸福を願ったのでしょう。運命をねじ曲げて死の道を選ばせるには、あまりにも不憫と」

「それがわからぬ。現世に遺しておいて、どうしてあの娘がしあわせになれるなど信じられるのだ? しかも、仮にしあわせになれるとして、傍らには自分はおらぬというのに」

「あれはこれから地獄へ堕ちるのです。見えぬところで別の男と微笑んでいるより、目の前で愛する者が苦しむのを見る方がつらいというだけのこと。人間なぞ、だれもかれも己の都合でしか動きはせぬのです」

 主ははじめて、自分を慕うこのこどもの過去に興味を持った。

「・・・だから由衣は、男がきらいなのか?」

 けれど由衣は、それに肯定も否定もしなかった。

 


◇ ◇



 再び時尚が行方知れずとなり、浦辺邸は大騒ぎになった。

 どんなに探しても行方はようとしてしれず、だれもその後の姿を見た者はなかった。

 北条時定はひそかに涙し、かがりは半狂乱になっていたが、それでも時尚はどこにも現れなかった。

 いろいろな噂が流れた。

 神隠しにあったという者、偽物が正体を見破られて出て行ったという者、幽霊が帰ってきたのだという者・・・。

 またしてもささめの周りで起こった怪異に、伯父は何かを訊きかけたが、やはり武者としての矜恃が邪魔をしたのだろう、その後もささめには何も問わなかった。

 季節はいつの間にか移ろっていた。日差しは相変わらずきついが、風の感触がすでに秋のものになっている。

 この騒ぎでまたしても旅程に支障をきたしたものの、時尚の捜索が断念されたころ、ささめたちは当初の予定どおり、鎌倉を目指すことになった。

 時尚のうしろにいたであろうあやかしが干渉してくることは、とりあえずなかった。

 出発の前夜、三人と一匹はささめの控えの間に集まっていた。

「――ようやく鎌倉へ出発じゃ。姫さまはさぞかしお待ち兼ねじゃろう」

「まったく、このように時間がかかるなど、姫さまに顔向けができぬ」

 ふたりの姫さま大事は、相変わらずだった。

 彼らとは、鎌倉に着いたらしばらくお別れだった。ささめはまず北条邸へ赴きしばらくはそこに逗留する予定だったし、彼らは早々に御所へ戻り、元の生活に戻るのだ。

 ささめは北条邸でいくらかの教育を受け、その上で大姫に仕える流れとなるだろう。

 くだんの姫。

 予言をもって人の世を救う聖獣の化身。幸氏たちを使わして、ささめの命も救ってくれた。いや、命だけではない。新しい道までも示してくれているのだ。自力で、踏みしめていく道を。

「しばらくお会いできないなんて、さみしくなりますね」

 突然、見ず知らずの場所へ勤めに出るよりも、こうして知り合えた彼らがいると思うと、御所勤めにもどこか安心できた。

 ささめのなかに、幸氏への恋心はやはり淡く宿っている。はじめて心惹かれた人。

 けれどいまは、時尚の面影がもうすこし遠くなるまでは、己の恋にうつつを抜かすなんてできるささめではない。

 時間が必要だった。

 それを知ってか知らずか、結局幸氏もささめをそれ以上には扱わないから、結局このふたりの関係は当分進展しそうにはないのだった。

「しかし、ささめどの。どうしても、そのケダモノを鎌倉へ連れて行くのか?」

 宗員は、心底嫌そうだった。御所にこんなあやかしを連れて帰ったら、他の同輩たちに何を言われるやら。いや、姫さまにだってどんな叱責をうけるかわからない。自分たちがついていながら、ささめに恥をかかせるのもいやだった。

「心配いらねえよ、宗員」

 しかも、このケダモノは自分たちを呼びつけにする。

 いったい何様のつもりなんだか。

「叶野? ・・・そろそろ教えてあげた方がいいんじゃない?」

 くすくすとささめは声をたてた。笑い顔は、やはりかわいい。

「そうだなあ。こいつらに恥をかかせるのもなんだから、教えておいてやるか」

 あくまで態度のでかいケダモノは、そのあと、とんでもない告白をする。

「おれさまはよお、おまえたちに言いがかりつけられたあと、ささめから離れて鎌倉に行ってたんだよな」

「何?」

 宗員も幸氏も、息をのんだ。

 嫌な予感がして・・・それは、的中した。

「それで何をしてきたかというと、まあ、早い話がおまえたちの飼い主に話をつけに行ったのさあ。ささめとおれさまの関係に、いっさい口出しするんじゃねえってな」

 それは、あんまりな宣言だった。

「なんだと!」

「このケダモノ! いったい、どういうつもりじゃ!」

 叶野はまったく悪びれない。

「だって、おまえたちがああいう態度なら、そのあと鎌倉に行ったって、おまえらの仲間にもおなじような扱いをうけるだろう? ・・・たしかにおれさまは、ささめの側にいて、その力をいただいてきたよ。ささめを守るためにな。ただでさえ、ささめの力は強すぎた。あれじゃあ、莫迦な人間にはわからなくとも、異形の者たちには目立ちすぎる。だからそれを押さえるためにも、おれさまは役に立っていたというわけさ。でも、おまえらが簡単に納得する話じゃないだろう? あれこれ邪推されるのもつっかかられるのも鬱陶しいからな。直接くだんに話をつけた方が早いに決まってる」

 なんというおそれを知らないケダモノだろう。

 人型もとらぬ物の怪の分際で、天上の聖獣であるくだん姫にかけあうとは。

「それで・・・姫さまは、何と・・・」

 幸氏は心なしか青ざめていた。ささめや叶野よりも、姫さまの性格はよく知っている。

「もちろん、すぐに納得してくれたさあ。さすがにくだんは何でもお見通しだな。最初おれさまを追い払おうとしたおまえらの仲間なんて、こっぴどく叱られていたぜえ? 敵かどうかも見分けられないなんて、修行が足りねえってなあ」

 うっ。やはり、そうか。

 それなら、戻ったときに、同輩たちの八つ当たりを受けるのは、やはりこのふたりに違いなかった。

「ああ、それから、くだんの姫さまから伝言があったぜ」

 聞きたくない。しかしそんなわけにもいかないふたり。そして、予想は裏切られなかった。

「うちのしもべはいったい何を遊んでいるのか。帰ってきたら、お仕置き! ・・・だ、そうだぜ?」

 くくくくく。叶野は心底楽しそうだった。

「幸氏・・・わし、なんだか戻りたくなくなってきおった」

「わたしも気が重い」

 ほんとうに姫さまには弱いのだと、ささめは感心してしまった。

「私、姫さまにお会いしたら、おふたりにどれだけ助けていただいたか、お話します」

「ささめどのは、やさしいのお。ますます惚れ直すわ」

「宗員はその軽口を直した方が生きやすくなると思うぞ」

「おや、幸氏は妬いておるのか」

「わたしはそういう話をしているのではない」

「人間素直さが肝心だぞ。あとから後悔したくなかったら、素直にな」

「宗員! おまえはいったい、わたしをなんだと・・・」

 こうなってくると、ふたりの言い合いはいつまでも終わりそうもない、

 ささめには、それが楽しかった。

 鎌倉へ行けば、辛いこともあるだろうけれど、きっと、もっと楽しいことだっていっぱいあるに違いない。

 自分はしあわせにならなければいけない。

 助けてくれたみんなのために、時尚のために、そして何より自分のために。

 きっと大事なものはそこにある。必ず出会える、そんな気がする。

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