参 <帰還>

参 <帰還>




 夜半には雨が降りはじめていた。

 風の音が耳をさす。樹木はきしみ、木の葉はざわめく。心の不安を掻き立てるように。

 ささめは褥に伏せながらも、眠れずにいた。几帳に囲まれたその外には、いま、海野小太郎幸氏が宿直をしてくれている。守ってくれるというのに雨に濡れる外で宿直などさせられないから、部屋の中に招いた。

 こんなに近いところに男がいて、眠れるはずもない。

 何度も寝返りをうっていると、そのうち幸氏から声をかけてきた。

「眠れないのか」

 衣擦れの音でわかってしまうものは、仕方ない。

「・・・はい。申し訳ないです」

「わたしに謝る必要はない。いきなりあのような話を聞かされて、戸惑うなというのが無理だろう」

「・・・」

 たしかに、それもある。

 叶野のことも、気になって仕方ない。

 しかしいまこのとき、もっと大きな理由は、幸氏本人であるなんて、ささめには言えなかった。

「やはり、信じてはもらえないのだろうな?」

「あまりに途方もないお話で」

 自分が人ではないなんて。

 どんなに幸氏に惹かれていても、そう簡単に受け入れられる話ではない。

 人ではない。

 それは、ささめが最も恐れていた宣告。

「仕方あるまいな」

 幸氏はかすかに吐息して、続けた。

「わたしも最初は信じられなかった。いまでも、すべてを受け入れているわけではない。わたしには地獄の鬼など、記憶にないからな」

 幸氏は、その友人に比べればまだ、まともな認識の持ち主らしかった。

「だが、こどものころから人でないものの姿を見たり、言葉を交わしたりはしていた。襲い来るあやかしをこの手で斬れば傷つけたし、この世から葬れるのも事実だ」

 たしかにこの人は、実体がないはずのあの霊のこどもを傷つけた。ささめの目の前で。

 自らの体験以上に、強い現実はない。

「姫さまに鬼として見出された者は他にもあるが、彼らも皆、異能の持ち主だ。そして我々は皆、姫さまの存在に救われている。だれかを守る目的でもなければ、こんな力、何の意味もない。意味もない異能を持つ者など・・・あやかしとどう違うというのだ」

 少しだけ、幸氏の声音が震えていた。

 そうか。

 この人は、その姫に仕えることで、自分の存在を肯定しているのだ。闇に紛れてしまいそうな恐怖を、この人も抱えて生きているのだ。

 ささめは黙って、彼の話を聞き入っていた。

「姫さまへの心酔を強制はせぬ。ただ我々は姫さまにお仕えして救われている面もあると知っておいてほしい。鬼であると信じられないなら、それでもよい。姫さまの元にはおなじような身の上の者が多くいるし、ささめどのにとっても得られるものがあるだろう」

 冷たい態度の影には繊細な心遣いと遠慮がある。

 ささめは少し、うれしくなった。

 たしかにいま、ささめに出来ることは限られていた。

 落ち着かなければ。

 泣いてばかりいても、何も解決はしない。叶野は簡単に自分を見捨てたりしない。そんな安易な関係ではなかったはずだ。姿を消したのは理由がある。いずれ戻ってきてくれる。必ず。

 それならば、しなければいけないのは、差し迫る身の危険を退けることだ。

 不気味な霊に目を付けられている。守ってくれる叶野は、いま、側にいない。

 幸い幸氏や宗員が、ささめを守ってくれるという。

 彼らには彼らの思惑があるにしろ、力を借りるべきだった。

「ありがとうございます。私こそ、ご迷惑をおかけします」

「これから共に仕える者同士だ。遠慮は無用」

 再び、沈黙が訪れた。眠ってしまえばよいのだろうが、眠気はどこかに飛んでしまっていた。

 気まずいな。ささめは、小さく息を吐いた。

 こんなとき、叶野がいてくれたらその場を和ませてくれるのに。

 いや。

 いつまでもそれでは駄目だ。叶野を頼るのはいい。大好きでもいい。でも、自分自身で己を支える力がなければ、いざというとき、だれかを庇う力さえ出ないのだ。

 私は、叶野が好き。側にいてほしい。幸氏たちにも、それを認めてほしい。

 あきらめない。あきらめたくない。

 自分から動かなければ、大切なものは得られない。守れない。

「幸氏どの。叶野のことですけど」

 ささめは勇気を出して、話しかけた。沈黙よりもずっとよい。

「叶野? あのケダモノか」

「あの・・・宗員どのは、叶野が私の力を吸い取っていたとおっしゃいましたが、幸氏どのもそう思いますか?」

「どうだろうな。ただ、違うなら反論するだろう。黙っていなくなるというのは、やましい証拠に思えるな」

「でも、叶野は私が小さなころから、ずっと私を守ってくれています。そのつもりなら、いつでも私を喰らってしまえたと思うのです。その方がずっと簡単だし、力も得られますよね?」

「そうだな」

 ささめは希望を見いだした。声がはずむ。

「ということは、やっぱり何か事情があるのだわ。幸氏どの。私、叶野と話がしたいのです。もし戻ってきてくれたら、強引に追い出したりしないで、話をきいてあげてください」

 せっかく戻ってくれても、彼らに追い払われたのでは、意味がない。

 しかし、相手もそう甘くはない。幸氏はあくまで冷徹だった。

「約束はできかねる。まずは、ささめどのとまわりの方々の安全が大事だ」

「叶野はいきなり危害をくわえたりなんて、しないわ」

「思いこみは危険だ。なるべく希望にはそうが、そなたはまず自らの安全を考えるべきだ」

 ――やっぱり、この人は、やさしい。

 淡々としながらも、不器用なあたたかさを見せてくれる。ささめには、それが何よりのなぐさめだった。

 できるなら、すがりつきたい。こわいのだと。心細いのだと。

 何もかもが、はじめての出来事で。自分だけで判断することも。

 本来、当たり前のそんなことすら、できていなかった自分に気づかされる。いままでは父が、母が、許嫁が、伯父たちが、そして叶野が、ささめの選択肢を決めていた。守られているだけだった。

 だからここで、過剰にすがりついてはいけないと、ささめは思う。

 主の命とはいえ、見ず知らずの自分を守ってくれる彼らに、これ以上、寄りかかってはいけない。

 彼らはやさしいけれど。打算がないわけではない。

 頼り切ってはいけない。甘えすぎてはいけない。

 彼らの話は途方もなくて信じられないし、協力もできるかわからないけれど・・・ささめは彼らに失望されたくはなかった。弱さを隠すのは無理でも、甘えは見せたくなかった。

 意地もあった。遠慮もあった。叶野を奪った恨みもあった。でも、それだけではなかった。

 ふたりだけになると、否応なく自覚してしまう。

 ――惹かれている。こんなにも。

 出会ったばかりだというのに。

 初めて会ったときから惹かれていたのは、宗員が言うとおり、おなじ世界から来た「仲間」だからなのだろうか?

 いや、この人に感じる気持ちは、同族意識などではない。

 やはり自分は、この人を好きになりかけている。

 彼を知りたい。

 そんなことばかり考えている場合でもないのに。それでも思考は感情に支配されていく。

 言い交わした相手は、いるのだろうか。年ごろからいえば、いてもおかしくはない。

 ・・・どうしてこんな気持ちになってしまったのだろう。

 聞きたいことが、たくさんある。

 尋ねてよいのか。ささめが躊躇している間に、幸氏が先に問いかけてきた。

「ささめどのには、許嫁がいたそうだが・・・」

「え? あ、はい。伯父の北条時定の嫡子で、時尚と申します。先の奥州討伐に加わっておりましたが、戦の途中で行方知れずとなり戻ってまいりません。私たちは幼なじみで、彼の妹のかがりと三人、兄弟のように育ちました。兄のように、頼りになる人でした」

 恋ではなかったと、いまならわかる。あの人を相手に、こんな気持ちにはなれなかった。

 ああ、結局自分には何もわかっていなかったのだ。人を想う気持ち。

 これでは、かがりに責められても文句はいえない。こんなにも、彼に気持ちが傾いている。

 それにしても幸氏はなぜ、こんなことを訊くのだろう。少しはささめを気にかけてくれているのだろうか。

「そうか・・・」

 幸氏の相づちは気のないものだった。

 淡い期待も、彼の素っ気なさの前では長続きしない。

 それでも、一番の質問をきりだしやすくなったのもたしかだった。

「幸氏どのは、決まった方がいらっしゃるのですか?」

「いいや」

 短い返事に、不愉快そうな気配がもれていた。

 訊かれたくない話題だったのだろうか。

 幸氏は、すこし考えたあと、言葉を選びながらぽつぽつと話した。

「いまのところ嫁をもらう余裕はないだけだ。だが、わたしは海野の唯一の生き残りだから、そう遠くない先には婚姻も考えなければなるまい」

 姫さまに告げられた予言。この娘が、自分のもっとも大事な女になる。報われなかった前世からの恋をつなごうとするふたり。――それは、言わないでおこうと幸氏は決めていた。この状況では言うべきでないし、真実そうなるならばそれは予言の成就ではなく、ふたりの意志のためであるべきだった。

 いまは、まず、差し迫った危険を退けなければならない。

 姫さまは、このままではささめが死んでしまうと言われた。

 いつものことだが、姫さまは、予言の肝心な部分をあえて教えてはくださらない。

『いつも答えを教えていたら、おまえたちが莫迦になるわ』

 それが姫さまの口ぐせだった。

 姫さまのしもべとしてふさわしいか、彼らは常に試されている。自分でものを考えられないのでは、姫さまを守れるはずもない。そして姫さまに仕えるにふさわしくないならば、彼らには生きる価値すらないのだ。

 鎌倉に到着するまで、危険はすべて退けて、幸氏はささめを守るつもりだった。まずは憑いていたあやかしを追い払った。もともと死霊が入り込んだのも、あのあやかしが内側から結界を破ったせいだろう。

 死の陰の原因がどれなのかは定かでないが、明後日に来るという迎えがそうであってもそうでなくても、危険はすべて排除してみせる。ささめを無事に鎌倉へ送り届けるのが幸氏たちの任務だった。

 何としても、この任は完遂したかった。

 それは姫さまの命令であるし、ささめに同情したからでもある。女の身で、姫さまのしもべとなるとは、哀れとしか言えなかった。

 幸氏の同輩たちは皆、姫に心酔している。しかし覚悟の上ではあっても、実際のところは、姫の手足として活動し、場合によっては捨て駒となる運命だ。

 ここを生き延びて鎌倉へたどり着いても、待っているのは修羅さながらの戦いの日々。かよわいこの娘に堪えられるものなのだろうか。男の自分は、いい。武者として生まれた時点で、戦いは宿命そのものだった。しかしこんな娘にまでそれを強いるのは、彼女への好意云々以前に、男として気が進まない。

 それでも、ここで彼女を見逃したとしても、彼女はこれから生ある限り、あやかしに目を付けられやすい存在であるには違いない。あやかしを払う術を持たなければ、いずれは食い荒らされてしまう。姫さまの元を離れたとて、安逸な人生を送れはしまい。それならばまだ、自分たちが側にいた方がすこしでも庇ってやれる。

 すべては前世の業ゆえに、と、姫さまはおっしゃった。

 身内すべてを失い、あやかしに命を狙われ続け、姫さまのしもべとして絶対の服従を強いられなければいけないほどの業とは、何だったのだろう。

 幸氏自身のなかにも、その由来となる記憶は留まってはいない。

 恋故に地獄へ繋がれた恋人たち。まるで他人事にしか感じられなかった。

 くだんの姫に今生を捧げて、許される罪。

 罪となるほどの恋情など、幸氏はまだ、知らない。

 あるのは幼い日に誓った姫さまへの忠誠だけだった。

 それでも姫さま以外の女をこれほど気にかけている現実を彼は自覚していた。



◇ ◇



 会話を途絶えさせたくなかった。

「幸氏どのは、大姫さまにお仕えすることに抵抗はないのですか?」

 問えば、答えが返る。しっとりとした低い声が心地よく、風雨の音を覆ってささめの耳をくすぐる。

「そうだな・・・わたしは姫さまに一生を捧げた身だから」

 幸氏は、己の過去は多く語らない。

 大姫とは、どういった方なのだろう。

「あの、大姫さまは、どのようなお方なのですか?」

「どう、とは?」

「たとえばですね、どうして私をご存知なのでしょうか。お会いしたこともありませんし、私は北条といっても傍流で、とても姫さまのお耳に触れるような存在ではないはずで」

「ああ・・・そういえば、肝心な話をしておらんな。我々がお仕えするのが、どれほど稀なお方であるか」

 稀・・・幸氏や宗員のような者を心酔させる姫さまだ。それだけでもただ人とは思えない。

「ささめどのは、くだんをご存じか」

「くだん、ですか? たしか・・・世の災いの前に現れて、予言をなすあやかし、と聞いておりますが」 

 そしてそれは、半分人間、半分獣の化け物であると。

 不吉の象徴のような聖獣。

 災いしか口にしない獣・・・。

「くだんは、予言を告げる聖者だ。元来は天道に住まう、尊いお方だ。あやかしというのは、誤りだな」

 怒った風はなかったが、幸氏はしっかりと否定した。

 くだんの姫。

 その方は、やはり、うつくしいのだろうか?

 訊きたくても、口にできなかった。いずれお目にかかるときもあるのだろう。そうすれば嫌でもわかる。

 だからいまは、それは訊かない。

「それでは姫さまは、この世に予言をなすためにお生まれになったというのですか? 私のことも、予言のために、こうしておふたりを使わしてくださったのですか」

「ああ。姫さまは未来をよみ、予言をなす。くだんの予言は不吉というが、くだんが不吉なのではない。世の中の禍々しい凶事は、神ではなく人がつくるものだ」

「そう・・・ですね」

「姫さまの予言は違えない。姫さまには、おつらいことも多かったのだが、これまで幕府の政の陰で、多く父君を支えてこられた」

 つらいこと。たとえば、許嫁の木曽義高が殺害された事件。

 予言ができても、救えないものはやはり、あるのだろう。

 だって、この世には、どんな権力者にも、高邁な僧にも、武勇の主にも変えられない運命が、たしかにある。

 人は、皆、死ぬ。これはだれにも避けられない。

「ふつうなら信じがたいだろうな。だが、姫さまの予言は外れぬ。そしてそのお力と引き換えるように、病弱でもいらっしゃる。我らの役目は、姫さまをお守りすることと、姫さまの手足となってそのお役目を支えることだ」

 この人はもしかしたら、姫さまの話ならば何でも受け入れてしまうのではないだろうか。たとえ、姫さまがくだんではなかったとしても。

 ずっと側にいて、近いところに仕え続けて。

 もしかしたら、このひとの姫さまへのお気持ちは、忠誠だけではないのかもしれない。

 ずきんと、心の奥が痛んだ。あまい痛みだった。

 この痛みは、彼には気づかれたくない。

 ささめは、気持ちを切り替えようとして、ふと宗員のふてぶてしさを思いだした。

「宗員どのも、すべて納得されているのですか?」

「ああ、あれには何と、記憶があるらしいぞ。生まれる前は地獄の獄卒であったと幼いころから周りに話して、気味悪がられていたらしい。しまいには変なものが見える、襲われる、と言いだして・・・とうとう寺に放り込まれてしまった。あれはああいうふざけた男だが、苦労もしておるし、仲間想いでもある。どうか、許してやってくれ」

「・・・はい」

 意外な気がした。

 宗員はひどく陽気な質に見えたから、そんな苦労をしているなんて、わからなかった。

 この力を持っていて、どんなに周囲から奇異な目で見られるか。ささめには痛いほど理解できる。周囲から避けられ、気味悪く思われ、不吉の元凶のように言われてきた。

 その苦難を幸氏も宗員も乗り越えてきたのだろう。

「おふたりは、強いのですね」

 うらやましい。

 こんなにも後ろ向きで、だれかの影に隠れないと生きていけない自分。

 これ以上嫌われたくなくて、疎まれたくなくて、周りに流されるまま生きてきた。

 自分の望みなんて、何一つかなわないと思っていた。親を失い、許嫁を失い、不幸にひたって埋もれていた自分。

 それなのに彼らは、自分と同じ力を持ちながら、なんて強く生きているのだろう。

 男と女という違いはあるのかもしれない。けれど、女だから心まで弱いなんて、そんなのは自分に対する言い訳にすぎないと、だれよりもささめ自身が一番よくわかっていた。

「強くなりたい・・・私も」

 だれも傷つけずにいられるように。

 霊やあやかしにも負けないように。

 自分がもっと強かったら、叶野はあんな風に離れていかなかったかもしれない。

「ささめどのには、大事なものはあるか?」

「大事なもの?」

 そういえば、以前、叶野にも同じことを言われなかっただろうか?

「自分よりも大切なもの。命に代えても守りたいもの。そんなものがあれば、人は強くなれるものだ」

 この人は、強いからやさしいのだ。きっと、だれにでも。

 一見、冷たいようでいて。

 出会ったばかりの見ず知らずの娘に、正面から、真摯に向き合ってくれている。きっとだれに対しても、きちんと向き合う強さを持っているのだ。

 夢中になってしまいそうだった。

 強くてやさしい人。この人に愛されたら、どんなにしあわせだろう。

 どうせどこかに嫁がなければならないのなら、この人の奥方になりたい。

 認められたい、この人に。

 側にいたい。

 近くにいれば、もしかしたら自分を見てくれる可能性だってないわけじゃあないから。

 この人の、特別になりたい。

 そのためには、やはり、いまのままの自分では駄目だと思う。自分の判断で自分の道を生きていける強さを持たなくては。この人の負担にだけはなりたくない。

「ありがとうございます、幸氏どの。私はいままであまりにも受け身に生きてきました。でもこのままではいたくないです。もっと強くてしっかりした自分になりたいのです。鎌倉へ行けば、私も少しは変われるのかもしれません。私にはまだ、おふたりのお話すべてを納得はできません。でも・・・私にできる範囲で、大姫さまにお仕えしたいと思います」

 鎌倉へ行けば、変わらずにはいられないだろう。甘やかしてくれる人は、たぶん、いない。

 強くならなくては。どんな運命が襲ってきても、堪えて生きていけるほど、強い自分にならなければ。だれかにすがらなくても生きていける自分でなかったら・・・きっと、だれも側にいてはくれない。

 同情しかされない。そんな自分ではいたくない。

 機会をくれたのは、その姫さま。

 大姫さまに、感謝しよう。たとえ、姫さまには姫さまの思惑があるのだとしても、姫さまが自分の運命を変えてくれた。

「きっとお仕えすれば、姫さまをお慕いせずにはいられなくなる」

 予言のように告げながら、幸氏は小さく笑った。ささめがどうやら落ち着いてくれたし、素直に鎌倉へ来る気にもなってくれたので、安堵したのだろう。これで姫さまの指示を遂行し、ささめを守ることができる。

「姫さまはわがままだが、理のない方ではない。そなたとは年もおなじ。お側にあれば、姫さまもお心安くしてくださろう」

「はい」

 自分に何ができるのか、それはわからない。

 鎌倉へ行けば、つらい思いも苦しみも待っているのかもしれない。

 それでも自分を必要としてくれる周りの期待があり、それに応えられるというのなら、それ以上の喜びがあるだろうか。

 新しい毎日がはじまる。

 ささめの意識は、うっとりと眠りに落ちていった。



◇ ◇



「鬼たちが、集まってくる」

 煩わしい、と、彼は言った。

 薄暗い社の奥。闇の中に棲む性か、静謐を好む男だった。

 傍らには、こども。五つ、六つほどの、かむろ髪の少女だった。

「ぬし様は、なぜあの男にお手を差し伸べるのでございますか?」

由衣ゆいはあの男が気に入らぬのか?」

「男は皆、嫌いです。乱暴で、汚らわしい」

「おやおや。由衣は、われも嫌いなのか」

 くすりと、彼は吐息した。揶揄とも、失笑ともつかなかった。

「ぬし様は違いますっ」

 少女はつい、声を荒げた。

 からかわれているのだろうとはわかっている。それでも、万一にも、誤解を得たくない疑いだった。

 もっとも、不要な騒ぎ立てをすれば、かえって主には見捨てられるかもしれない。自分が男を厭う以上に、主は騒々しさを嫌悪していたから。

 ・・・不興をかってしまっただろうか?

 由衣は俯きながらも、ちろりと主を盗み見る。

 それでも主の様子はおだやかそのものだったので、少女は安堵するとともに、己の軽率さを恥じた。

「・・・ぬし様は、ぬし様です。妾のお仕えする、大切なお方。ただの男として論じるなど、思いもよらず・・・」

「由衣はいつまで経っても、幼いのだねえ。そなたの潔癖と忠誠を、我は気に入っているよ。そう・・・あの男の一途さも、我は気に入っている。死して尚、この地に留まるためには、強い執着が必要だ。我はあれに、ほんの少し力を貸し、その方法を授けたに過ぎない。あれは自らの望みで罪を犯し、この地に留まり続けるのだ。しかもあれの執着が鬼の娘にあるとなれば・・・我にとっても益となる話」

「あの男に、鬼を捕らえるなど可能なのでしょうか」

「ぜひともがんばってほしいものだね。鬼があの男を受け入れるにしても拒むにしても、己の命をかけねばなるまいよ。小うるさい鬼どもを一匹でも排除できるなら、このくらいの助力など惜しむべくもない。くだんの姫から手駒をすべて取り上げたら、さぞ気持ちよいだろうよ。大地に住まう我々にとっては、気まぐれな天上の救い手など煩わしいだけ。早々に引き上げていただきたいものだ」

 いつからともわからないほど昔から、この地に住まう、人型をした人でないものたち。

 人の近くに棲み、時にはその輪に交わりつつも、決してとけ込めはしない存在。寿命もないに等しく、妖力を誇る彼らは、人を見下し羨んでもいた。

 天上の神々が救う対象に、彼らが入った試しはない。六道の理からはみ出して、永久を彷徨う運命の者たち。彼らは自由な存在だった。人に干渉して「国津神」と呼ばれる者もあれば、災いをなして「物の怪」「あやかし」と呼ばれる者もあった。この世のものとも思えない美貌の者もあれば、醜悪な姿の者もいる。孤独を好む者、夫婦者、主をあおぎ群れる者、さまざまな生き方はすべて己の気分次第。故に「王」は存在しなかったが、それでも首魁となるべき者はいくたりか存在していた。

 彼は、そのひとり。

 気ままに日々を過ごし、配下を従えるに満足を覚える質でもなかったが、彼の美貌や能力ゆえに慕い集う者は少なくなかった。ことさらに天に刃向かうつもりはない。しかし、自分の視界にそれらがあるのは不愉快でしかなかった。

 くだんの姫など、早く、天上へ還ればよい。

 姫の手先である鬼どもなど、見るもおぞましい。

 天の干渉がなければ生きていけないならば、人の世にそれらが必要だというのなら、人の世など滅びても構わない。・・・それが、彼の考え方だった。

 そんな彼に、とりまきの配下たちが靡かぬはずもない。

 少女は、陶然として主張した。すこしでも、この主の覚えめでたくありたかった。

「鬼がおきらいならば、この由衣が鬼を屠りに参ります。いつでもお命じになってください」

 しかし、彼はゆっくりと頚を振るのだった。

「おまえはまだ幼い。鬼を見くびっては怪我をする。その手に負った傷のように」

「――」

「傷が癒えるまではおとなしくしておれ。・・・まずは、あの男の行く末を見守ろう」

 男に与えたのは、よみがえりの秘法。

 現世への執着ゆえに、閻魔庁への白き道を拒んだ男へ、地上へしがみつく方法をささやいた。選んだのは、あの男。罪と知っても、よみがえりを望んだ。ただひとつの望みをかなえるために。

 あの男は、役にたちそうだった。

 見るべき価値があったから、気まぐれに知恵を授けた。ただ、それだけのこと。

 楽しませてくれればよい。

 くだんの姫が、鬼を見捨てるのか、救うのか。救うならどうするのか。

 すべては彼にとって、退屈しのぎだった。



◇ ◇



 叶野の言葉どおり、風雨はだんだんと激しくなっていった。やはり二、三日はこの館に足止めされそうだ。

 夜明け前に幸氏は戻っていった。入れ替わりに猫がささめの元に入れられた。その猫は宗員の術でつくられた使い。朝の身支度やらばたばたしている時間帯、女であるささめの側に宗員や幸氏ではいられないからその代わりらしかった。

 かわいらしい黒猫は愛嬌があって、どこか叶野を思い出させた。

「叶野・・・」

 呼んでも、叶野は現れない。やはりもう、戻ってはきてくれないのか。

 会いたい。

 暗い屋敷の中は、息が詰まった。格子を上げると、激しく風が吹き込んだ。雨が吹き込まぬよう、高さを調節し、景色が見えるようにした。銀糸が庭をたたいている。

 ささめは所在なくしていた。手習いのため、いくつかの和歌集を与えられていたが、身が入らない。物思いばかり。とうとう、手習いはあきらめて、冊子はよそに積んだ。

 膝に例の猫を抱き、そのやわらかな手触りとあたたかさに触れる。

 伯父たちは、用がなければ顔も見せない。忙しいらしい、というか、どうもあのふたりを自分に近づけまいとしているように思われた。

 だから宗員がひとりでやってきたのには、びっくりした。

「やあ、ささめどの。あのときは大変失礼した」

 宗員は相変わらず陽気だった。ささめの表情は強ばった。

 有髪の僧形、明るさの影にひそむ強硬さ。外面の朗らかさが彼のすべてでないのを、ささめはもう知ってしまっている。

 けれど、宗員は何事もなかったように笑いかける。

 無遠慮に近づくとささめの顔をのぞき込んだ。

「目が赤いな。夜更かししたじゃろう? せっかくのべっぴんさんがもったいない」

「宗員どの。どうしてこちらに」

 伯父たちはどうしたのだろう。しかし、彼はしれっと答えた。

「ああ、時定どのたちは、幸氏に任せた。いまごろのらりくらりと相手しているだろうよ。・・・ふっ。我らふたりが嫁を探していると言ったら、急にこちらに出入り自由になったぞ」

「それは・・・」

 要するに、このふたりなら、伯父たちもささめの嫁ぎ先として許せるのか。

「まあ、わしはこう見えても鎌倉きっての有力御家人、比企能員の息子だからな。うちは御所さまと、その御嫡子と二代に渡って乳母を出している。御所さまの御嫡男をお預かりしてお育てしているのは我ら一族だ。どうだ? 嫁にくるか?」

 面白そうな宗員に、ささめは何と言ってよいやらわからなかった。

 比企一族は、源頼朝が伊豆で流人生活をしていたときも、一族ぐるみで彼を支えた。頼朝はその恩を忘れず、いまでも頼りにし、鎌倉で比企一族を重用していた。

 だから伯父たちの反応もわからなくはない。・・・ささめには、受け入れがたいとしても。

 おそらく心情が顔に出ていたのだろう。

 宗員は皮肉げに笑いながら、言を繋いだ。

「わしが駄目なら、幸氏でもよいぞ。あれは諏訪の大豪族、海野氏の跡取り息子だからな。弓の名人で、御所さまの覚えもめでたい。うん、あれは絶対におすすめだ」

「そ、そんな・・・」

 幸氏を持ち出されると、自然に頬が赤くなる。見た目にもすぐわかるだろう。これは、また宗員にからかわれる?

 身構えたささめだったが、しかし予想に反して、宗員は何も言わなかった。

 代わりにささめの膝で眠る猫を奪い取り、自分の鼻先へ持って行った。

「こやつ、さては役目を忘れておるな? 自分ばかりよい目をみおって」

「宗員どの。せっかく眠っていたのに」

「はは。こやつの役目はささめどのを守ることじゃ。眠ることではない」

 猫はにゃあと不服そうに泣いたあと、床に下ろされてふたりから少し離れる。

 宗員は、ささめの傍に腰を下ろした。

「昨夜のことは、わしは謝らぬ。あのケダモノとささめどのの関わりは想像できるが、我らにはおぬしの方が大事だからな。寄生されていると力も思うように使えぬ。それではこの先、困るであろうよ」

 ふっと、宗員はまじめな顔つきになった。

 精悍な横顔は、きりりとしてまぶしい。信念を持つひとの眼差しだ。

 彼らは彼らの正義に従って行動している・・・。

 ささめを気にかけてくれているのも、偽りではないだろう。見かけ通りの親切さがすべてではないにしても、いまの孤独なささめにとって彼らはありがたい存在だ。

 これで、叶野の件さえ解決してくれれば。

「あの、幸氏どのにもお願いしたのですが、叶野が戻ったら、話をきいてやりたいのです。だって、寄生なんて面倒なことをしなくても、私が幼いころから側にいた叶野なら、いつでも私を喰らう機会があったのだと思うのです。でも、叶野はそうしなかった。彼は私を利用しただけではないと思うのです」

「それは、願望だろう。願望と真実をすり替えてはいけない」

 そうかもしれない。

 自分は見たい姿を叶野に見ているだけなのかもしれない。

 けれど、彼がいままで自分を支えてくれたのも確かで。父が死んだときも、母が死んだときも、許嫁のときも・・・叶野だけが側にいてくれた。

「だからこそ、真実を見つけたいのです」

 今度こそ。

 ふたりは、互いの瞳を見つめ合った。その中に互いが意志を探していた。ささめはここで負けてはならないと祈った。決して自分から目をそらそうとはしなかった。

 折れたのは、宗員だった。

「まあ、話くらいは聞いてやってもいいだろう。妙なたくらみがあるようなら、容赦はせんがね」

「ありがとうございます」

 ささめの顔は輝いた。

 心から、ささめは願った。どうか叶野、戻ってきて、と。願い続けていれば、いつかは戻ってくれるかもしれない。希望だけは捨てたくなかった。

「ささめどのは、素直なよい方だな」

 宗員には、それがほほえましかった。きっと守られて大切に育てられたのだろうと、その言葉は飲み込んだ。

「宗員どの?」

「いや、それはひがみかな。わしには、おぬしや幸氏のように、この世ばかりを見つめて、懸命になることができぬ。幸氏から聞いたのであろう? わしはおぬしたちと違って、幼少のころから地獄を覚えていた。自分が役人として刑を執行し、罪人たちを裁くさまをな。それは凄惨なものさ。泣き叫び、許しを請う罪人たちを、片端から殺してまわるのじゃ。鉄の棘をつけた混紡を持って罪人を殴り、縛り付けてはのこぎりで少しずつひき殺した。やつらは簡単に死ぬが、風が吹くとすぐに生き返る。永遠に処刑と再生の繰り返しじゃ。うんざりするくらいにな。わしの手はいつも血にまみれていた。まさに、地獄というやつだな」

 さばさばとした口調からは想像もつかない、凄まじい世界。そんなところに、彼はいたのか?

 いや、自分も?

「私・・・そんなの、覚えてない・・・」

 どう考えても、それだけは事実と思えない。

 地獄や鬼が存在するなんて。

 ここまでされてもまだ、彼らの話が、自分をからかっているものではないかと疑ってしまうのだ。

 そんな気配を感じたのだろう。めずらしく宗員が、苦いため息をもらした。

「ふつうは人の世に出るところで記憶を失うからな。しかし、わしにはそれは許されなかったらしい。物心つくころから毎晩夢にみてうなされるわ、力を奪おうというあやかしには狙われるわ、母やら乳母やら兄弟やらにそれを訴えて、気味悪がられて。とうとうわしは寺に入れられてしまった。見放されたのだろうな。姫さまに見いだされて寺を出るまでは、ずっと親にさえ会えなかった」

「・・・」

「まあ、もともと地獄で獄卒になるのも、自分が前世でそれだけ業が深かったせいだしなあ。これだけ苦労するのも、どうやら過去世の行いが響いているらしい。自業自得というやつだ。いまは現世でもおとなになって、我慢も返り討ちもできるようになったから、一段落ついている」

「ご苦労、なさっているのですね」

「それが鬼のさだめさ。それでも我らは運がよい。閻魔王の特命でくだんのしもべの任を得た。地獄をしばらく離れられるし、うまくつとめを終えれば、いずれは転生の道へ帰してももらえる。とにかくわしは、獄卒の仕事にはうんざりしておるのだ。あそこに比べたら、この血なまぐさい時代の人の世だって、まだましじゃ」

 このひとの忠誠は、どうやら幸氏とはやや趣が異なるようだった。この人にとっては、忠誠も義務なのだろう。幸氏のように心酔しきってはいないのだ。

「そういうわけだからな、ささめどの。がんばって姫さまにお仕えし、共に地獄を抜け出そう」

 こんな風に、明るく力強く笑えるようになるまで、彼はどれほどの苦悩を味わったのだろう。一族に見放され、寺に入れられて。それでも出家をしないというのは、きっと彼の意地なのだ。

 それに比べて自分は、なんと贅沢だったろう。父にも、母にも、間違いなく愛されていた。こんな奇妙な自分を嫁にという人までいた。

 しあわせの重さ、不幸の重さ。それらを計って何になるというのだろう。結局は自分が強くあれるかどうか、それだけだ。

「・・・宗員どのは、お好きな方はいらっしゃらないのですか?」

 しあわせは、つくっていくものだから。このひとなら、きっとしあわせになれる。そんな人がいるなら、ぜひそうなってほしい。

 しかし、返ってきたのは意外な弱音だった。

「そうだなあ。いまのところは、考えたことはないな。それに・・・やはりわしらは鬼だから、どうしてもあやかしたちに狙われる。そのような生活、ふつうの女性には耐え難のではないかのう」

 ささめは自分のこれまででさえ、異形の者たちに干渉されていたのを思いだした。ふつうになど、暮らせないのだ。

 こんなに強く見える彼でも、やはり、家族を持つには抵抗があるのかもしれない。僧形は、その弱さの表れでもあるのだろうか。

「私、おふたりにお会いできてよかったです」

 ささめは、ゆっくりと目を閉じた。

「平穏な毎日など期待できぬぞ?」

「元から普通など、無理な話です。人間て、他人の弱さや強さに触発されて強くもなるし、やさしさも知るものですよね。私はもっと、強くなりたい。おふたりとおなじように」

 やっぱり、ささめどのはよいな、と宗員はつぶやいたが、それはささめには届かなかった。

 そのとき、甲高い声が宗員のそれをかき消したからだ。

「――ささめ!」

 唐突に現れた、ここにいるはずのない少女。

 勝ち誇るような、喜ぶような、それは従姉妹のかがりだった。

「かがり、どうしてここに」

 ささめは立ち上がった。なんだか、妙な胸騒ぎがした。

 かがりは珍しいくらい、上機嫌だった。

「何、ぼうっとしてるのよ。相変わらずどんくさいわねっ。あんたに一刻も早く知らせてやろうと思って、この嵐の中、追いかけてきたっていうのに! ああ、あんたたちがここに足止めされててよかったわ」

 はしゃいでいる、といってもいい。ささめは困惑していた。

「どうしたの?」

「いいから来なさいよ。いま、父上たちのところにいるんだから」

「え?」

 かがりはささめの手を掴んだ。ひっぱられる。

 相手が若い女性なだけに、宗員もつい、口出しをできずにいた。どうやら知り合いらしいし。ただ、宗員も感じていた。何やら得体のしれない気配を。

 かがりという娘ではない。いささか情がきつそうだが、そんなに害になるものは感じられない。

 この感じは、まるでここに霊のこどもが紛れ込んだときのようだ。

 また、結界が破られたか? こうも頻繁に破られては、自信もなくなろうというものだ。

「んもう、じれったいわね! 来なさいよ! 来ればわかるんだから」

 引きずられるままに、ささめは広い板間へ連れて行かれた。宗員も後を追う。

 そこには、館の主である浦辺正之と、ささめの伯父である北条時定、居合わせた海野幸氏、そして――宗員には見慣れない、ひとりの若武者がいた。

 どこか、ささめに似ている。日焼けした無骨な手が、ささめに伸びた。

 ささめは、立ちつくしていた。呆然と。

 若武者はささめを抱きしめた。当たり前のように。

「ささめ、会いたかった」

「・・・兄上」

 それは死んだはずの、ささめの許嫁だった。

 


◇ ◇



 生きていたのか。宗員は舌打ちしたい気持ちだった。

 これでは話がややこしくなる。せっかくささめの気持ちが鎌倉に傾いていたのに、連れて行くのがむずかしくなるかもしれない。

 ささめを抱きしめたまま、離さぬ男。宗員はそれを苦々しく見つめ、ふと気になって幸氏を伺った。

 さすがにあの男も、この光景を見れば突き動かされる感情があるかもしれない。

 が。

 幸氏は、相変わらずだった。動揺のかけらも見られない。

 こいつは何でこうも冷静なんだ、姫さまの予言で自分の嫁になると言われた女が、別の男の腕にいるというのに。やはり気持ちはないのか? ならば、わしがもらってしまうぞ。そう捲し立てたいのを宗員は飲み込んでいた。

「・・・どうして? どうしてここにいるの、兄上」

 苦しそうに吐息した。武士の強いちからで抱きしめられれば、華奢なささめには負担だった。

「おい、おれたちは夫婦になるんだ。兄呼ばわりは止めてくれと言ったろう」

 男はようやく腕をとくと、そのままささめの頬を両手で包んだ。

「久しぶりだ、よく顔を見せてくれ。おまえに会いたい一心で、ようやく戻ってきたんだぞ? ん? どうした。喜んでくれないのか?」

 やさしげな風貌に似ず、強引な男だ。そして・・・この気配。

 この男は、人か? 

 たしかに実体は伴っているようだ。しかし気配が尋常ではない。

 宗員は鳥肌がたっていた。まるで、強大なあやかしと対峙したときのように。

「うれしいわ。生きていてくれて」

 ささめはまだ信じられなくて、まじまじと彼の顔を見つめた。

 なつかしい顔。なんだかもう、数十年会っていない錯覚にとらわれる。

 生きていてくれた。それは、こんなにうれしいのに。

「――いいかげんにせぬか、時尚。客人の前だぞ」

 伯父が助け船を出してくれた。ほっとしてささめは、心持ち、許嫁から身を離す。

 時定は息子の肩をつかんだ。

「宗員どの。いま、幸氏どのと正之どのにはご紹介したのだが、これが行方知れずとなっていた息子でござる。どうやら奥州の戦で深傷を負ったらしくてな。地の者に救われて、ようやく旅ができるまで回復したので、戻ってこれたのだそうだ。わしも会ったばかりで驚いている。もう、すっかりあきらめておったしな」

 時定の様子はたしかに、喜びよりも困惑が勝っていた。

「何言ってるのよ、父上まで。生きていたんだもの、それだけでいいじゃないの。もっと喜びなさいよ。ほら、ささめも!」

 かがりだけが、異様にはしゃいでいた。

「比企宗員じゃ。無事で何より」

 笑ってはいたが、宗員のあいさつはあまり友好的ではなかった。何でいまごろ、というのが露骨に態度に出ていたのだ。

「父にききました。ささめを迎えにいらっしゃったとか」

 それでも時尚は気にしていなかった。有髪の僧形である若者など歯牙にもかけていなかった。

「御台所のおおせでな。ささめどのは鎌倉の御所に出仕するのだ」

「それだけどね、父上」

 時尚は宗員を無視して、父を見据えた。

「おれが戻ったんだから、ささめは鎌倉にやる必要、ないよな? 祝言をあげる約束だろう」

 予想とおりの展開に、宗員は眉をひそめる。この話の流れでも、無表情な幸氏が尚、にくらしかった。

 一方で、時定は必ずしも息子の味方というわけでもないようだった。

「しかしだな。御台さまじきじきのおおせであるからには、まずはもう一度事情をご説明申し上げないことには」

「いいじゃないのよ、父上。そんなに人手不足なら、私がささめの代わりに鎌倉へ行きたいわ」

 かがりはそれが一番言いたかったのだろう。大好きな兄が戻ってきたうえに、自分に巡ってきたこの好機。ささめは兄としあわせに田舎で暮らせばいい。自分もしあわせに鎌倉で暮らす。万事めでたく丸くおさまるというものだ。

「かがり、これはそう簡単な話ではない。御台さまたってのご希望であり、北条総領家でも望んでいる話なのだ。――宗員どの、幸氏どの、まずは御台さまのご意向を伺おうと思う。それでよいですな?」

 時定はもうそれ以外は受け付けないとばかりに断言した。かがりはむくれたが、鎌倉のふたりは軽く頷いた。

 ささめは固い表情をしていた。そんなささめに何も言ってはやれないまま、ふたりは席を外した。

「困ったな」

 宗員は、その場を離れてから幸氏に耳打ちした。

「生きていたものは仕方あるまい」

「おぬしは常に冷静だな。たまに、その頸を絞めたくなるぞ」

「そう見えるか?」

「そうとしか見えん!」

 めずらしく宗員がいらいらしている。

 幸氏は立ち止まると周囲を伺い、だれもいないのをたしかめてから、言った。

「頭を冷やせ、宗員。まるで時尚どのに妬いているようだぞ?」

「おい」

「落ち着け。許嫁がいようといまいとおなじこと。姫さまの予言は絶対だ。ささめどのは鎌倉へ行く運命。姫さまに見出された者に、それ以外の道はないのだからな。これは変わらぬ。では・・・時尚どのの出現は、いったい、何を意味するのか。そこのところをよく考えるべきではないか?」

 幸氏はずっと考えていた。

 姫さまは、ささめの命が危ないと申された。

 それはずっと、霊のこどもが告げた「迎え」のせいだと思っていた。ささめは、人外の者に狙われている。自覚のないまま霊力をそなえている彼女は、不埒なあやかしたちの絶好の獲物ともいえた。

 それ自体は、幸氏たちとて幾度もくぐり抜けてきた危機。単純に追い払うことだけを考えていた。

 だが、ほんとうにそれだけか? こんなにも都合よく時尚が戻ってきたのをもっとよく考えてみる必要はないか。

 霊のこどもと、この時尚につながりがあるとしたら・・・すべては不吉な意味をもってくる。

 降りかかった災難をただ払いのければよいだけではなくなる。

 時尚が生身の人間であるならば、問題はまだしもまっとうだ。しかしあれが死人であるならば、ささめも自分たちも覚悟を決めなければならなかった。

 ささめの許嫁を冥府へ追いやるなど、決して気持ちのよい事態ではない。

「あやしい、ということか」

「用心に越したことはない。使いをささめどのから離すなよ」

 猫はささめの元へ置いてきた。それは宗員の目となり、耳となるはずだった。

 


◇ ◇



 ささめの控えの間に、ふたりはいた。小さな猫が隅で眠っている。時尚は、猫には目もくれなかった。ささめの側を片時も離れたくないとばかりだった。

 時尚はささめに、膝を貸せと言った。そのまま転んで、強引に枕とする。

「ささめ、ずっと会いたかった。おまえを思わない日はなかった。おまえに再び会うために、おれは地獄の縁から戻ってきたのだ」

 ささめは息をのんだ。

 地獄。思わず死者を連想して、しかし、ささめは頭を振った。これはものの例えだ。死にかけて戻ってきた、それだけだ。

 許嫁は、生きていたのだ。

 目の前の彼は、たしかに生身の体を持っている。

 再会の奇跡に感動したあとは、ただ戸惑うしかなかった。

「どうして、知らせをくれなかったの? 皆、とても悲しんだのよ。討ち死にしたと思って」

「悪かったよ。しかし、助けてくれたのは奥州の山の民だぜ。文字も書けない、麓に降りるのは滅多にないとくると、知らせる術がなかった。何しろおれも瀕死の重傷だったし」

 悪びれる様子もなく、笑ってみせる時尚。ちょっと無邪気で、独占欲の強い人。

 ささめのすべやかな髪を弄びながら、時尚はつぶやいた。

「ところでさ。あのふたりは、何だ?」

「ふたりって、幸氏どのと宗員どののこと?」

「そうさ。なんだかえらく、ささめに馴れ馴れしかったな。親爺どのも、どうもはっきりしないと思ったら、あいつらのどちらかをおまえの婿にしたかったみたいだな」

「そうなのかしら・・・」

 時尚は、ささめの髪を指に絡ませながら、にやりと笑った。

「まあ、いいさ。もうおれは戻ってきた。――おまえはだれにも渡さない。帰って祝言をあげるんだ。いいな?」

「それは、私たちが勝手に決められないわ」

「なぜだ?」

「だって、御台さまが」

「ふんっ。気にするな。どうせ御所にあがるのは、北条の娘ならだれでもよいのだろう。かがりが行きたがっている。ちょうどうるさいのがいなくなれば、おれもおまえも安泰じゃあないか」

 かがりはこの兄が大好きで、いつもいつも追いかけていた。ささめとふたりきりになどなろうものなら、すごい剣幕で間に割り込んできたものだ。

 この兄妹は、よく似ている。

 強引さと、独占欲の強さ。

 時尚は、意志のよわい自分をいつも引っ張ってくれた。道をしめし、近くにいて、いつも自分を守ってくれた。この強引な腕に守られて生きていくのは、決して不幸ではなかったろう。

 そう、あのふたりと出会う前だったなら。

「ささめ。おまえ、ちょっと変わったな?」

 ささめはどきっとした。

 確かに自分は変わったかもしれない。

 彼が知っているのは、幼いばかりの自分。守られるのに慣れていた。それこそ彼に寄りかからなければ、生きていけそうにないほど、頼りない存在だった。

 皮肉にも、自分を変えたのは彼の死の知らせだった。

 頼るべき彼を失って、居場所を見失った。自らの不吉に打ちのめされた。鎌倉への出仕を言われたとき、体よく追い払われるのだと観念した。流されるだけの運命に失望していた。見知らぬ土地で、北条の道具としてどこかの豪族へ嫁ぐ身だと覚悟した。

 けれど次に現れたのは、まぶしいほどの希望だった。

 厳しく、まばゆい閃光。道を示し、自立を促す光。

 叶野がいなくなって。自分がどうやら人ではないらしいと知って。このめまぐるしい夜がささめを前向きにしたのは事実だった。

 そして――恋。

 自分は恋をしている。あのつめたい顔をした、やさしい若武者に。

 きっかけは些細なものだった。相手には知られていないし、ましてや思いを返されるのもあり得ないとはわかっている。でも、心は止められはしなかった。

 彼に出会うまで恋など知らなかった。時尚にはその意味で申し訳なさがある。こんな気持ちは時尚にはいまだ感じたことがないからだ。

 ささめは困ったように笑った。何も言わなかった。

「うつくしくなった。まるで初めて出会う女のようだ。・・・もう一年も離れていたんだものな」

 うっとりと、時尚は目を細めた。熱の籠もった視線。その意味するところに、ささめは長く無頓着でいた。時尚はとっくに、自分をただの幼なじみとは見ていなかったというのに。

 彼はたしかに、ささめを愛してくれているのだろう。

 しかし、いま、ささめが想うのは幸氏だった。あの眼差しが忘れられない。彼ならきっと、そう簡単には女性を褒める言葉など口にしないのだろう。あの素っ気なさも、つめたさに隠れたやさしさも、もう手の届かない存在になってしまった。

 自分には、時尚を裏切れない。

 ・・・忘れなければ。時尚は生きていたのだから。自分は北条の館へ戻るのだ。一生あそこで暮らすのだ。

 かつて望んでいた、穏やかな生活。

 頼もしい夫に守られて、子を産んで育て、老いていく。静かで平穏な毎日。

 鎌倉とは関係のない生活。二度と彼らとは接点がないだろう。開けていると思った未来への扉が、音もなく閉じていくのをささめは感じていた。

 それが、いま、こんなにもさみしい。

 叶野がいてくれたら、どう言ったろうか。やはり鎌倉へ行けと言うだろうか。

 鎌倉に行きたい。

 なぜかいま、本当にそう思う。

 自分にとって伊豆にいるのは隠棲と同義だった。鎌倉に出ればきっと何かが変わるにちがいない。新しい何かに出会い、生き甲斐を見つけるにちがいないのに。

 もう、二度とそんな機会はなくなるかもしれない。時尚は決して出仕など許さないだろう。

 心のどこかでこんな状況を恨む気持ちが、ささめのなかにもあったのかもしれない。

 だから、時尚に話しかけられて、ささめはそんな己を心底憎んだ。

「ささめ・・・おまえに会えてよかった。もう会えなくなるかと思った。おまえに再び会うためなら、おれは何でもできた。こうして戻ってくるために、おれはどうにかがんばれたんだ」

 ゆっくりと時尚は目を閉じる。まるでこどもに返ったような安心しきった顔。

 いままで、さぞ、苦労をしたのだろう。

 そんな彼を思いやってやれないなんて。ささめは自分を責めた。

 わがままは、捨てよう。

 そうだ。多少強引であっても、時尚はいつでもささめを大事にしてくれた。いつでもささめが辛くないように、悲しくないように、そればかり。

 差し伸べられたこの手を離すのはやめよう。

 幸氏どの、宗員どの、ごめんなさい・・・。

 もはや心のうちでしか、彼らに謝罪できなかった。

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