短篇 無邪気な微笑み
東雲 裕二
第1話
茹だるような蒸し暑い日の午後、私は墓参りへと出かけた。時期は盆。本来ならば私は午前中に墓参りをするのだが、ここ連日の熱帯夜のせいでなかなか寝付けずに予定時刻よりも遥かに寝過ごしてしまっていた。時計を見ると二時を過ぎようとしていた。
先祖が眠っている霊園は山の上にある。私はいそいそと車に掃除道具や仏花を載せると先祖の眠る地へと出発した。霊園に着き、道具を持って先祖の墓へと向かう。道中では首にタオルを巻きながら墓の草むしりに精を出す人とすれ違う。私は軽く頭を下げて挨拶をした。私はお供え物が備えてある墓、綺麗な花を飾られた赤い涎掛けをした無数の水子供養の地蔵の前を通る。
「一番遅いのは私か……御先祖様に申し訳ないな」
霊園の道が太陽に熱せられてまるで水があるかのようにゆらゆらと揺らめいていた。陽炎だ。または『逃げ水』と呼ばれる気象現象の一つだった。近づこうとも決して近づく事は出来ない。近づくと遠くへと逃げいてく。そこには存在しない幻。
私はとぼとぼと燦々と輝く太陽の下を歩いていた。額から流れた汗が頬を流れる。塩分を含んだ汗のせいで目を幾度か細めた。
途中、道の脇に墓掃除をする為に水を入れる水道があった。私はそこで水を入れる事にした。きゅっと蛇口を捻ると勢いよく水がバケツへと溜っていく。弾いた水飛沫が顔にかかると何とも言えない心地よさを感じた。地下水なのだろうか、水の冷たさに思わず溜息が出た。
ふと背後で数人の子供の無邪気な笑い声が聞こえた。走り回っているのか、子供の声は遠くなったり近づいたりした。男の子の声の中に混じって、時折女の子の声が聞こえた。実に楽しそうな声だった。
「お墓で転ぶと霊が憑くから気をつけないと・・・て言っても意味が無いか」バケツに溜った水を覗きこむようにして私は呟いた。
先祖の墓に着くと、バケツと荷物を置いた。持ってきた白い手袋を小さな草を毟り、墓石に付いた苔を水とスポンジで丁寧に洗い落とす。一通りの作業が終える頃には私の着ていた服はじんわりと汗で湿っていた。私は早く帰ってシャワーを浴びたいと考えながら墓に仏花を供えた。
次に蠟燭を荷物から取り出した。透き通るような飴色の蠟燭。墓の燭台に蠟燭を立たせるとマッチで火をつけようとした。だが、丁度その時風が吹く。消えたマッチは燐の香りを漂わせているだけだった。どうして火を着けようとした時に限って風が吹くのだろうか、と苦笑いをしながら私はもう一本のマッチを取り出した。ようやく蝋燭に火が灯る。消えぬうちにと急いで線香に火を移した。
なんとか火が消えずに参る事が出来た。数珠に手を通し、目を静かに瞑る。蝉の鳴き声とお墓参りの人々の声が耳に入ってきた。そして、時折あの子供達の声も聞こえた。
目を開けると・・・白檀の線香の仄かな香りが鼻をくすぐる。
「また、彼岸に来ますね」
私は微笑みながらそう先祖に呟いた。
御墓参りを終えた私は掃除道具をまとめ、車へと足を向ける。
「そうだ、御堂の方にも顔を出すかな」思い出したようにそう口にした。
私は霊園入り口にある薬師如来象を祀っている小さな御堂へと立ち寄った。
「こんにちは」私は玄関に入ると伺うように言った。
「おや、川村さんとこの」お堂の奥から初老の男性が笑いながら出迎えてくれた。「墓参りか? 相変わらず、若いのにお墓参りに来るなんて感心じゃのう」
「いえいえ。寝過ごしてしまいこんな時間に来たので感心される事でもありませんよ」私は頭を掻いた。
「暑かったじゃろう。今、冷たい茶でも出してあげるから待ってなさい」
私は奥へと去っていく男性の背中を見終えるとお堂に鎮座している薬師如来に手を合わせた。穏やかに微笑む薬師如来像を見ると心が落ち着いた。
しばらくすると男性は緑茶をカランと氷の音を響かせながらグラスを二つ持ってきた。
「では、有難く頂戴致します」
私はそういうと玄関に腰をかけ、緑茶を口にする。
「それにしても……今日は騒ぎますね」私は冷たい緑他で喉を潤しながら霊園を眺める。
「ああ、水子の霊か?」
「ええ、水を汲んでいる最中後ろで走り回っていました。でも、あれは水子というよりも子供か」
「ここは古い。かつて水子と呼ばれた子供の霊も眠っているからのう。君の母ちゃんにも昔に話したが、日が沈み出す正午過ぎは何時もの事で水子が騒ぎ出す。ましてや盆。水子も騒ぐ。しかし君は動物に憑かれ易い・・・水子も憑いて来るから気をつけないといけんぞ」
「悪さをしなければ私は気にしないのですが」
「水子は悪さをするつもりは一切無いぞ」男性も緑茶に手を伸ばす「まあ、一部は悪い子もいるが、ここの子は薬師如来様の御加護で大人しくしているわい」
「そうでしたね」
「もし、悪さをしても子供のした事。無邪気・・・邪気がないのでは怒れんわ」
「でも、それ故に憑いて来られたら大変ですけどね」私は苦笑いをする「邪気が無いから悪もない、幼すぎて仏の言葉もあまり通じませんし」
「そうじゃな・・・まあ、何かあったら遠慮なく来なさいよ」
「ええ、その時はお言葉に甘えて。ご馳走になりました」
私は氷だけになったグラスを置くと立ち上がった。
御堂を後にした、外に出るとむわっとした熱気が頬に触れる。そして蝉が鳴いていた。短い地上での一生を謳歌する如く。
私は車へと向かった。あと半月で夏も終わる。いつの間にか御墓参りに来ていた人は私だけになっており、一台の車だけが寂しく止められていた。
次に来るのは彼岸・・・真っ赤な曼珠沙華が咲き誇る季節。
私は異界とさえ感じる熱気の籠もった車のドアを開けた。
「さて、帰るとしますか」
後部座席に荷物を載せる。そして運転席に座ろうとした時だ。蝉時雨が止む。
不意に着ていた服の裾がくいっと引っ張られる。木の枝にでも服を引っ掛けたかな、と私は思い振り向く。だが、背後には小さな着物を着た三歳ぐらいの男の子が無邪気に微笑みながら裾を握っていた。
ああ、気を抜いたらこれか……早速かと溜息が出た。無邪気な微笑み……邪気の無い微笑み……。目の前が陽炎のように歪んで見えた。そこにいる男の子は存在しない。私が近づいても触れる事はない。だが、逆は違うのか。
「お友達が向こうで待っているよ。それに私は何もできないからお帰り」
男の子は一瞬困った顔をしたが、再び服の裾を握りながら無邪気にきゃきゃと笑う。無邪気……邪気が無い……故に恐ろしい。悪という概念がないからだ。
私は車の鍵を再び掛けた。
「はぁ、薬師如来様にこの子の面倒を御願いするか」
私の溜息は再び蝉時雨に掻き消された。
私は水子に手を差し伸べて御堂へと向かう。御堂までの短い距離に陽炎が揺らめいていた。
終
短篇 無邪気な微笑み 東雲 裕二 @shinonomeyuji
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