その日

千里温男

第1話

いつの間にか、あなたは知らない部屋の隅に立っています。

大きな明るい部屋で、人でほぼ満員です。

大勢の老若男女が体が触れ合わない程度に集まっています。

まだ小学生になっていないような子どもや20代と思われる青年も何人かいます。

でも平均年齢は80歳くらいでしょうか、90歳を超えていると思われる人もいます。

みんな華やかに着飾っているので、部屋の中はお花畑のようです。

みんなほほえみながら静かに何かを待っているようなのです。

結婚式でも始まるのでしょうか…

けれども、みんなてんでばらばらな方を向いて黙っています。

にこやかに口元はほころんでいるのに、誰も口をきかないのです。

あなたは自分だけが別な人種のように感じます。

質素な服装にも引け目を感じます。

来てはいけない所に迷い込んでしまったような居心地の悪さと不安を感じます。

これは困った、どうしてこんな所に来てしまったのだろう、どうしてここにいるのだろう、

いつここに来たのだろう、ここはどこだろうと考えるのですが、頭がぼんやりして何も思い出せないのです。

そうして時間が過ぎて行きます。

とても不安です、どんどん心細くなって行きます。

とうとう我慢できなくなって、すぐ目の前の人に話しかけようとします。

その時、ふわっと体が浮くように感じて、

「着きました」と言う女性の声がきこえて、ドアが開きます。

どうやら大きなエレベーターだったようです。

みんながどっと溢れるように外へ出て行きます。

あなたも一番うしろから少し離れてついて行きます。

広いエレベーターホールになっていて、紅の豪華な絨毯が敷かれています。

虹色の壁には窓が無いのに、幸福色の光に満ちています。

和服姿の女性が上品な手招きで

「どうぞ、あちらです」と、奥の大きな飾り扉の方へみんなを誘導しています。

あなたは

『これは困った、どこかのビルの最上階の豪華ホテルに来てしまったらしい』と、すっかり狼狽してしまいます。

あなたが戸惑っていると、和服の女性が気がついて笑顔をむけます。

その瞬間、あなたと和服の女性は『あっ』と驚きの表情になります。

あなたの妻だったのです。

あなたの妻はすうっと近付いて来ると、耳元に口をよせて、

「間違えてはだめよ、あなたは下よ」とささやきながら、あなたの背中を優しく押して、

まだドアの開いている先ほどのエレベーターに乗せます。

そして、エレベーター嬢に

「この人、間違えたらしいの。下へ降ろしてあげてください」と小声で言います。

あなたは妻に、ここはどこか、なぜお前はここにいるのか、なぜ自分はここに来てしまったのだろうと

尋ねたいのですが、妻の密やかな態度に声を出すことができません。

エレベーター嬢は妻にうなづくと、黙ってボタンを押します。

あなたはエレベーターが急速に下降する感覚に驚きます。

思わずよろめいて、落下しているのではないかと恐怖に襲われます。

けれども、エレベーター嬢は後ろを向いたまま平然としています。

その後ろ姿が半透明になっていて、全身の骨格が透けて見えます。

その全身骨格もまた半透明で、エレベーターの操作パネルが透けて見えるのです。

あなたが『えっ』と思った時、エレベーターが止まる感覚があって、ドアが開きます。

外から真夏の生ゴミ置き場のようないやらしい異臭とねっとりと生暖かい空気が流れ込んで来ます。

あなたは異臭と粘っこい空気に満ちた薄暗がりの外へ出て行くのをためらいます。

「早く出て来ないか」と言う怒声と共に、毛むくじゃらな気味の悪い腕が伸びて来ます。

腕の向こうには、濁った血の色の目の醜悪で巨大なアシダカグモが一杯に脚を広げて不気味に立っているのです。

あなたは思わず後ろのエレベーター嬢を振り向きます。

が、そこには背の高い薄汚れた骸骨が空ろな眼窩であなたをじっと見下ろしているのです。

あなたはギョッと後ずさりします。

いきなり背後から蜘蛛の爪に喉首を引っ掛けられます。

「ぎゃっ」と悲鳴をあげながら体をよじらせた途端、目が覚めます。

横に寝ていた妻が半身を起こして光る両岸でじっとあなたを見つめています。

なんだか体が妙に小さく思えます。

それに真っ黒の毛むくじゃらです。

ついこの間、妻の三回忌を済ませたような気がするのはどういうわけでしょうか。

妻が毛むくじゃらな体をぶるっと揺すります。

あなたは唐突に今しがた見た夢を思い出します。

『あの蜘蛛だ!』

あなたは反射的に後ろへのけぞります。

途端に、ドスンとどこかに落ちてしまいます。

何がなんだかわかりません。

「だいじょうぶですか?」

やさしい声がして、女性があなたの上半身を抱き起こしてくれます。

「どこか痛いところは?」と尋ねる男の声も聞こえて来ます。

あなたは二人の顔に見覚えがあるような無いような変な気分です。

男が、あなたの両方の腋の下に手を入れて体を持ち上げてベッドに腰掛けさせてくれ、

そのまま肩を支えていてくれます。

そこへ、女性がコップにプチプチと泡のはじける液体を入れて持ってきて飲ませてくれます。

心地よい冷たさと発泡酒のような刺激があなたの頭の濃霧を払います。

男は息子で、女性は息子の妻であることを思い出します。

少し離れた壁際には、猫のクロもいます。

妻が死んでからは、毎夜、彼女がかわいがっていたクロと寝ていたことも思い出します。

あなたは

「いや、変な夢を見てな。どうも寝惚けたらしい、ははは」と笑って見せます。

しかし、あなたは自分が病気であることをはっきりと思い出すのです。

こんなことが前にもあったような気がします、また認知症が進んだような気がします。

心のなかで何とかしなければならないと切実に思います。

「まだ2時だから、もう一眠りするといいよ」

そう言って、息子はあなたを横にさせます。

息子の妻が、布団をかけてくれて、その上から優しく押さえてくれます。

あなたは目を閉じて眠ったふりをします。

老いて病んだあなたの呼吸は弱弱しく静かです。

それを息子と彼の妻は安らかな寝息と勘違いして、やがて彼らも隣室のベッドに戻って行ってしまいます。

もうそろそろいいだろうと思えるくらい時間が経ってから、あなたはこっそりベッドから這い出します。

足音を忍ばせて、息子たちの寝室に近づきます。

ドアに耳を押しつけて中の気配をうかがいます。

それから、ドアを細めに開けて、息を殺して片目で中を盗み見ます。

どうやら二人はよく眠っているようです。

これなら気付かれる心配はなさそうです。

あなたは慎重にドアを閉め、幽霊のような足取りで離れて行きます。

自分の部屋をぬけだして、夢遊病者のようにゆらゆらと居間へ忍んで行きます。

あなたには、あの二人に邪魔されずに、どうしてもしなければならないことがあります。

忍者のような黒いスエットスーツに着替えると、そっと今の窓を開けて外に出て、また窓をそっと閉めます。

あなたはジョギングをしなければなりません。

誰にも邪魔されないように、人のいない未明に走らなければなりません。

そうしないと、体がなまってしまいます、認知症が進行してしまいます。

何としても、それは防がねばならぬと、思いつめています。

それにはジョギングするしかありません、そう固く信じ込んでいるのです。

まだ暗いのですが、所々にともっている街灯で、アスファルト道路のセンターラインだけはくっきりと見えます。

そのセンターラインの上を、あなたは走り始めます。

向こうの方から、怪物のような二つの大きな強い光がどんどん近づいて来ます。

あなたは、その光の強さと速さに一瞬ギョッとします。

しかし、すぐ、あなたの頭は

『そうか、また夢を見ているのだ、また幻を見ているのだ。もう、そんなものに騙されないぞ。

あれは本当はクロの二つの目だ、クロが自分を慕って走って来るのだ』と、はっきり覚醒します。

あなたは走ります、クロに向かって走ります。

(おわり)

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その日 千里温男 @itsme

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