17 悲願
後悔はない。悲しみもない。怒りも。
そういった感情は、遠い過去に置いてきた。そうしなければならなかった。そうすることでしか、生きていけなかったのだ。
けれど、いつの間にか膝を抱えている自分がいることに気づいて、彼女ははっと顔を上げた。
闇が、世界を覆っている。
深い闇だ。ただ重く、どこまでも沈んでいくだけの黒。永遠に沈み続ける闇に終わりはなく、その底の底で、彼女は膝を抱えるようにして座っていた。
ここは、彼女が作り上げた世界。影の国といってもいい。影の中に作り上げた楽園。いや、楽園というほどのものでもない。むしろ地獄だろう。
影に喰われて死んだものの意思が流れ落ちてくるのだから。
それは怨嗟であり、憤怒であり、呪詛であり、絶望であったりする。しかし、そういった思念が彼女の精神になんらかの影を落とすこともない。ここは影の国であり、女王は彼女なのだ。彼女の意志を無視して存在しうるものはあり得ない。
光も、音もない。それらさえも拒絶しているのだろうか。自問したところで答えは出ない。
そして、真の闇の中では、自分の姿形すら覚束なかった。試しに腕を伸ばしてみても、なにもわからない。ただ、感覚だけがある。腕を伸ばした、手を開いた、そういった感覚だけが、彼女の頭の中に残った。そして、そういった認識が実像となって網膜に浮かび上がり、肉体を想像させる。白く細い腕。昔の自分を見ているのは、どういう理由なのか。
それもすぐに理解できた。
「よお」
声が聞こえた。闇の中、聞こえるはずのない音。それでも聞こえたのだ。懐かしくも耳慣れた声。たったひとつ、記憶に馴染む音色。いまなら理解できる。心の何処かで彼を求めていたのだと、認めることができる。それは小さな願いだ。日常的に繰り返される闘争の中で忘れ去ってしまえるほどに小さく、儚い想い。
顔を向ける。
「ゼツ」
「やっぱり、負けたな」
悪びれもせずに、彼は、苦笑していた。見慣れた笑顔。もっとも、記憶の中の彼とは随分と違う。それもそのはずで、彼が不良品と判断され、彼女が“黒”の総帥に拾われてから、長い時が流れていた。
(十年……なんて長い……)
あのときの少年は大人になり、少女もまた、大人になった。
「いっただろう、貴様じゃわたしには勝てないと」
立ち上がったとき、彼女の体は、少女のそれから現在のそれへと変化していた。影の国。女王の意志の赴くままに形を変える。
「わかってはいたさ。けどよぉ、ここで逃げるわけにはいかねえだろ、俺ァ、おまえを取り戻すっていっちまったんだぜ。男に二言はねえのよ」
「馬鹿なことを」
「本当にそうだな。馬鹿げた話だよ、まったく」
言葉とは裏腹な口ぶりに彼女は軽く苛立ちを覚えた。そんな軽口を言い合っている時間などはないのだ。彼の体は、既に半分以上が崩れていた。もちろん、彼女の目に映る彼の肉体は実体ではない。イメージに過ぎない。仮初の肉体に過ぎない。しかし、その仮初の肉体も形を保てなくなってきていた。それはつまり、彼の命の火が消えかかっているということだ。
彼は彼女の影に喰われたのだ。どれだけ彼女が望もうと、存在し続けることは出来ない。彼は死ぬ。いや、もはや死んでいるのかもしれない。わずかに残った思念だけが、語りかけているのかもしれない。
不意に、胸が苦しくなった。
「だが、それさえも仕組まれていたことだった」
彼は、こちらに視線を向けながらも、彼女を見てはいないようだった。ずっと遠くを見ている。いつかのように。いつものように。
「俺の反逆も、おまえの鎮圧も、不良品の在庫処分も、俺の死も……なにもかもシナリオ通り。博士もあの世で喜んでいるだろうよ。これでおまえはおまえに戻れる。第一世代最強のAFSデバイスに」
目が合った。生気を失った瞳に、こちらの姿が映り込んでいるとも思えないが、それでも彼女は彼が自分を認識していることを知っていた。だから口を開く。きっと彼に届くはずだ。薄れ行く意識にも届くはずなのだ。
「わたしが最強のデバイスになってどうなる。わたしは、わたしだ。なにも変わらない。なにも」
「そうかな?」
「そうさ。もうあの頃には戻れない。すべてを思い出した今でも、それだけははっきりといえる」
告げる。それは決別でもある。過去との。彼との。
彼は悲しそうな顔をしていた。半身は崩れ去り、残るは上半身のわずかばかり。それも次第に失われてきている。彼女が拒絶しているわけではない。拒絶せずとも、消えていくしかないのだ。
「それでも、俺はおまえを取り戻したかった……」
「まだ、そんなことを――」
彼が、自分の口に人差し指を当てたのを見て、彼女は口を噤んだ。時間がない。その事実を、彼は感じ取っている。言葉を聞き届けなければならない、最期を看取らなくてはならない、そんな強迫観念。
「すべてが仕組まれていたのだとしても、俺はおまえを愛していたんだ。それはだれにも否定させない。否定できやしない。俺は俺だ。おまえがおまえであるように、俺は、俺だったんだ」
彼は叫んだのかもしれない。けれども、慟哭は闇の中に吸い込まれて反響することはなかった。もちろん、彼はそんなこと露ほども気にしてはいない。むしろ、語気が荒くならずに済んでほっとしているかのような、そんな穏やかな表情だった。
「あー……いや、最後にいいたいのはそれじゃない。それじゃないんだ。そういうことじゃない。もっと大切なことだ……もっと……」
彼は慌てたように頭を振った。残された時間の少なさに不満を漏らす暇さえない。彼の体は崩壊の一途を辿っている。彼女の領地で意識を保ち続けることなど不可能なのだ。
「なあ、ソラ。俺はおまえになら――」
声は、影に溶けて聞こえなくなってしまった。
彼の幻像もろともに崩れ去ったのだ。
彼女の目に映るのは漠たる闇だ。無限に流動し続ける影の王国は、彼女の胸中を映す鏡であるかのように、音もなく渦を巻き続けている。
(わかったよ……ゼツ)
胸の奥に穴が開いたような感覚に囚われて、彼女は、頭上を仰いだ。浮上しなければならない。闇の奥底から、薄明かりの下へ。
そうしなければ、彼の願いを叶えられない。
影の中から浮上するとともに目撃したのは、惨劇の跡そのものだった。
カリシアの街は、まるで天変地異に蹂躙されたかのようだった。戦場となった公園を中心とした一帯は廃墟と化し、散乱する死体が地獄の様相を描き出している。
彼女は静かに頭を振る。
こんなものだ。
AFSデバイスを用いた戦闘の跡とは、こんなものなのだ。
AFSを起動し、超常の力をぶつけ合えば、地は割れ、建物は崩れ、木々も巌も砕け散り、原型を残さぬ死体が散乱する。それがAFSデバイスという戦闘装置を用いるということだ。そのおかげで生身の人間同士が戦うよりも、戦場に流れる血は格段に減った。代わりに流れるのはデバイスの血だ。もはや生物としては認識されなくなった戦闘兵器たちの、赤い血。
その血を洗い流すように、雨が降っていた。影に潜っている間に降りだしたのだろう。黒い雨は、戦いの終わりを告げるかのように静かに煙っていた。生物にとって有害な情報を運ぶ、死の雨。この雨をものともしないデバイスに戦争を任せるようになったのは、当然の道理といえた。
頭上、鉛色の雲が何層にも渡って天を覆い隠している、頼り甲斐のない薄明は、それでも、影の中にいたときよりは眩しく、ソラは目を背けるように視線を戻した。
ソラは、生物にとって有害な情報だけをもたらす雨に打たれながら、抱き抱えていたゼツの亡骸を地面に横たえた。彼は死んだ。これはもはやただの骸だ。魂の実在が認められたいま、生物が死ねば、肉体は魂の抜け殻となるというのは常識とさえいえた。いまやただの肉塊に過ぎなくなったそれに感傷を抱く必要はない。
しかし、それでも彼女は、そこになにかが残っていると信じて疑わなかった。情報といってもいい。彼が生きてきた今日までに蓄積されてきた様々な情報。そのわずかな欠片でも残っているのなら、彼の願いを叶えたくなるのは当然だと、ソラは思った。
(らしくないな)
それが変わったということだろう。密やかに認める。自分は自分だ。が、内心に変化が起き始めていることも確かだった。その変化がシナリオ通りというのならそれもいいだろう。
皮膚に染み込む死のウイルスをむしろ心地よいものとして感じながら、ソラは、ダルクを呼び寄せた。闇色の獅子は、翼を翻しながら悠然と降り立つ。黒い雨が、彼の肉体に溶け込み、破壊と再生を繰り返している。
「おまえに逢えてよかったよ、ゼツ」
つぶやき、ダルクに命じる。
獅子はこちらを見上げ、なにかを言いたげな目をした。金色の目。デバイスと同じ色彩の、無機物的な輝き。
そこに意思を感じることは出来ない。錯覚だろう。彼に自我はなく、彼女の命令に意を挟むことなどあり得ない。だから失敗作でありながら、ある意味では成功品なのだ。そして実際、ダルクはソラの命じるがままにゼツの死体を貪り始めた。
死肉を喰らう獣を見下ろしながら、彼女は眉ひとつ動かさない。目線ひとつ動かさない。顔色ひとつ変えない。AFSがデバイスを喰らい尽くすまで、身じろぎさえしなかった。見届けなければならない。彼の死を。完全な消滅を。でなければ、彼の願いは叶えられない。小さな望みひとつ。
やがて、ダルクがゼツのすべてを体内に収めたとき、ソラは得体の知れぬ感情に襲われた。怒りとも哀しみとも知れぬ不愉快な衝動。電流のように身体中を駆け回る激情の有り様には、ただただ困惑するしかなかった。ゼツの慟哭が聞こえる。幻聴なのか、実際、頭の中で鳴り響いているのか。無数に反響し、閃光のように消えていく。いくつもの言葉、叫び、怒号、嘆き、絶叫。彼女は理解した。
それが、AFSデバイスを喰らうということなのだ、と。
血を飲み尽くし、肉を喰らい尽くし、情報までも搾り取り尽くすのだ。
得られるのはエネルギーだけではない。
得体の知れない感情の濁流に紛れて、膨大な量の情報が流れ込んでくるのがわかる。かつてだれかが見た景色、聞いた言葉、知った事実。脳裏に投影されるのは、よく知った、けれども知らない風景。ホームと呼ばれた孤児院、デバイスの研究開発施設、不良品の廃棄場、カリシアの街――ゼツの見た景色。彼の風景。そこに度々現れる少女。カリシアの街で現れた姿は、別人のように変わっていた。
ソラ。
彼女は、視界が揺れていることに気づいた。叫びたかった。しかし、ゼツを食らったことで得た情報は、泣くことを許さない。彼の記憶の奥底に眠っていた真実。最初にして最強のAFSデバイスの作り方。
不意に、彼女の耳朶を叩いたのは、軽薄な拍手の音だった。雨音の静けさを拒絶するような、耳障りな音。
彼女は眉を潜めた。拍手だけで他人の神経を逆撫でにする人物など、ひとりしか心当たりがなかった。
「たったひとりで処理しちゃうなんて、さすがは黒の最終兵器といわれるだけのことはある」
感情の籠っていない称賛の声に視線を向ける。噴き出したばかりの血のような紅が目に入る。紅い装束。フウェイヴェリルを支配する四つの派閥のうち、赤を称する連中が好んで身につける、いわば制服といえた。それを纏うのは、十代半ばの少年にしか見えない男だ。
「応援に駆けつけたぼくらの面子が丸潰れだ」
「馬鹿げたことを。ゼツが出てきたときから感じていた視線はなんだ? ウツキ」
ソラは、苛立ちを隠せなかった。ゼツの死体から取り込んだ情報を処理しきれていないいま、感情を制御することが難しくなっている。本来ならば、あられもない感情を他者にぶつけてしまうなど、彼女の誇りが許さないのだが。
ウツキは、こちらの精神状態など気にもしていないようだった。
「嫌だなあ。ぼくに覗き見する趣味はないよ。ただ君の想い出との決別に口を挟みたくなかっただけさ」
死にたくはないからね、と冗談めかしく続けてきた男に怒気を向ける。それもいつもならしなかったことだ。感情がむき出しになっているのがわかる。もっとも、彼は涼しい顔で目を細めただけだが。
「おかげで決別できただろう? 幼き日の淡い想いに」
感謝して欲しいとでもいわんがばかりの態度に、ソラは歯噛みして感情の撃発を防いだ。無論、ウツキの本心ではあるまい。彼にとってはどうでもいいことなのだ。言葉の端々から感じられる冷淡さが、彼という存在を端的に表している。だが、それでも、ソラは相手を睨まざるを得ない。心の内でのたうち回る激情は、まるでソラのものではないかのようだった。
「怖い目だ。そんな感情的な君を見るのはいつ以来だろうね」
「なにがいいたい……?」
「さあ?」
ウツキは、はぐらかすように微笑した。話を変えてくる。
「ところで、死体はぼくらが処理して構わないね?」
「勝手にしろ」
ソラは、掴み所のない相手の様子に、苛立ちを隠せなかった。ウツキの様子はいつもと変わらない。なのになぜ、こうまで感情が揺さぶられるのだろう。
(らしくない……)
ただの戦闘装置にあるまじきことだと理解はしているのだが、感情がそれを許さない。涼しい顔で受け流すことも、黙殺することもできず、苛立ちだけが募っていく。
「良かった」
ウツキが笑うと、彼の背後から人影がふたつ現れた。まるで彼自身が分裂したように見えたのは、背格好が酷似しているからだろう。同じような体格に赤装束、髪型まで同じなのは、彼らの主の趣味だからだろうか。よく見れば顔の造作が異なることがわかる。ふたりは女だ。少女染みているという点でも、少年染みたウツキと似ている。纏う空気そのものがよく似ていた。
赤の総帥直属のAFSデバイスたち。立場的には、ソラと同じようなものかもしれない。
「AFS完全解放(フルドライブ)」
三人が、異口同音にAFSを起動した。想像上の天使に似た造形のAFSが三体、彼らの背後に顕現する。赤に君臨する天使たち。闘争と破壊と殺戮を司る非情さこそ、天使には相応しい。
もっとも、死体を喰らい、己が糧とするのは、悪魔的行為と言わざるを得ないのだろうが。
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