15 解放

『おまえはこれからあの魔女に拾われる。このフウェイヴェリルに禁断の知識と技術をもたらした、あの忌まわしき女に。喪服の女神に』

 聞き慣れた声が、広い調整室に反響している。フウェイヴェリルにおけるAFS研究の第一人者だったはずだ。名前は思い出せない。記憶が混乱しているようだ。顔を見れば思い出せるかもしれないが、残念ながら彼の顔は見えなかった。それ以前に彼女は眠っているのだ。デバイス用の調整槽に満たされた液体の中で、寝息すら立てている。液体が肺を満たしても、いつもの様に呼吸を続けることが出来た。この液体の中では溺れることはない。だから、眠ることができるのだ。

 しかし、夢は見ていない。ぼんやりとした意識の中にあって、調整室の全景を見渡していた。

 彼女の目は、二つだけではない。

『おまえは魔女の元で娘となるのだ。魔女の意志に唯々諾々と従う人形にな』

 広い調整室を照らしているのは、調整槽の下部に設置された照明の光だ。巨大な試験管のような容器に満たされた液体を通して、エメラルドグリーンの輝きを室内に散乱させている。開発した人体を調整するための液体。命の水だと研究者たちはいっていたが。

 彼女のもう二つの目に映るのは、二十基に及ぶ調整槽であり、調整槽の中で膝を抱え、胎児のように眠るデバイスたちの姿だった。彼女自身の健やかな寝顔も確認できる。

 デバイスにとって調整槽は、まさに母胎だった。穏やかな眠りと優しい夢を見せてくれるのだ。いつまでもこうしていたいと思う。けれど、そうもいっていられないのだろうということもわかっている。早く産声をあげなければならない。でなければ、開発された意味がないのだ。

 開発者の密やかな声が、彼女の眠れる意識に入り込んでくる。

『あの魔女はこの地上に禁忌をもたらした。許されざる知恵を。望まれざる力を』

 魔女とは一体なにものなのか、彼女の半ば眠りについた意識では理解しようがなかった。知っているはずのことを思い出すことの出来ないもどかしささえもない。ただ、もう二つの目を通して見える世界を見ているだけだ。もう二つの耳に入ってくる声を聞いているだけだ。そして記憶に留めておくのだろう。いつか思い出すときのために。

『故にこの大地は呪われてしまった。滅びに瀕してしまった。おまえに馴染みの深い黒き雨も、この世の理が歪められたことで現出したのだ』

 黒い雨。

 物心ついたときには降っていた記憶がある。あの雨を浴びてはいけないと、きつく注意されたことがあった。人体にとって有害な毒なのだと。ずっと昔からこの大陸を蝕んてきたもの。恐ろしいもの。悪い夢。

『だからこそ滅ぼさなければならないのだ。あの魔女を。黒き母を』

 開発者が、ふとこちらを振り返った。彼は気づいていたのだろう。彼女のもうひとつの意識が稼働し、もう二つの目と耳が彼の言動を捉えているということに。そしてそれは思惑通りでもあったのだ。彼は、その秘めた殺意を彼女の深層意識に埋め込まなければならない。

『サヤを殺せ』


 ソラは、跳ね起きた瞬間、喉が張り裂けるほどに叫んでいることに気づいた。激痛のあまり叫んでいたのか、それとも夢に見た物事への対応だったのか。全身を苛む痛みは、瞬く間に癒えていく。ゼツの擬態の爆発によるダメージは、想像よりは少なかった。肉体の損傷も軽微。無意識の治癒に任せても問題ないくらいだった。

 だが、精神的な負担は大きかった。

 意識の落ちた先で見た夢。

 あれをただの悪夢だと切り捨てるには、あまりにも現実感がありすぎたのだ。研究者の声も覚えている。忘れようがない。彼の手によって、ソラもゼツも人間ではなくなることができたのだ。AFSデバイスとなった。一個の純然たる戦闘装置へ。

 ゼツが、目を丸くしているのが目障りだった。何を驚いているのか。戦闘兵器ならば、敵の撃破にこそ全力をあげるべきだ。好機を逃して何の意味があるのか。

「わたしは一体なんなんだ?」

 想いとは裏腹に口をついて出た言葉がそれだった。自分という存在への疑問など、たかが兵器が持つべきではない。戦闘装置は、ただ目の前の敵の撃破を優先すればいいのだ。しかし、研究者の言葉が脳裏を過る。サヤを殺せ。自分はそのために作られたというのか。大いなる母を暗殺するために、彼女のもとに送り込まれたというのか。

「やっと……思い出したようだな」

「どういうことだ? 貴様は知っていたのか?」

「さあな。いっただろう、俺はおまえを取り戻す、と」

 ゼツが腕を掲げ、指をこちらに向けた。彼の足元で傅いていたAFSが瞬時に反応する。跳躍とともに翼が火を噴く。凄まじい加速でもって迫ってくるドラゴンを睨みながら、ソラは、ゼツの独り言を聞いた。

「それだけが、俺のすべてだ」

 左へ翔ぶ。加速し過ぎたドラゴンが通り過ぎて行く。振り返り、視線で追う。大回りに旋回するAFSと、彼女の死角に生まれる殺気。ゼツ。

「わかったよ」

 ソラは嘆息するように告げた。考えていたって埒が明かない。自分が何者で、なんの為にここにいるのかなど、考えるだけ無駄なことだ。きっと答えは出ない。思考を放棄し、すべてを戦闘に注ぐ。敵は二体。挟撃されるだろう。ならばやることはひとつだ。こちらも戦力を増やせばいい。

「AFS完全解放(フル・ドライブ)」

 網膜の裏側に無数の文字列が浮かんだ。認識できないほどの速度で流れていったそれらは、彼女の能力開放を認証するものだった。静寂が生まれた。鼓膜が、聴覚が、周囲のあらゆる音を拒絶した。無音。まるで原始のような沈黙が、彼女の意識を包み込む。そして、心音が響く。獣の咆哮のような鼓動が、耳朶の内から鼓膜を叩く。破壊的な衝動。全身の毛穴という毛穴が開き、血液が逆流するような感覚が襲ってくる。鮮明化する視界に幾筋もの光が走る。網膜の中心に向かって収束するように。受光器を光で埋め尽くすように。

 力が漲っていく。獣の雄叫びが聞こえるたびに、枷が外れ、鎖が引きちぎられていく錯覚。いや、錯覚などではない。感覚こそが真実であり、厳然たる事実なのだ。

 だからこそ、発現する。

 自律型武装魂魄――AFS。

 視界を包み込んでいた光が消え失せると、目の前にひとつの闇が出現していた。凝縮された濃密な闇そのもののようななにかが、うずくまっていた。闇の表面に光沢が生まれた。漆黒の体毛が、薄明かりを反射したのだろう。

 開放感があった。あらゆる制約から解き放たれる実感。重力から、肉体から、意識から、縛鎖の如く絡みつくありとあらゆる事象から解放される。自分が何者であるかなどどうでもいい。いまや自分は一個の破壊衝動だ。殺戮機構となったのだ。有象無象の感情を破棄し、純然たる闘争の化身となった。

「ダルク!」

 名を、叫ぶ。

 それは儀式だ。起動しても眠りこける彼の意識を叩き起こすための。

 闇の塊が、静かに首をもたげ、音もなく吼えた。魂という実体の不確かなものより誕生した、もうひとりの自分。ソラにとってそれは漆黒の、異形の獅子であった。雄々しい鬣が闇そのもののように揺らめき、一対の翼と、黒い炎を灯した長い尾を持つ獣。

 いつの間にか眼前まで接近していたゼツのAFSが、金切り音を立てながら地に沈んだ。ダルクの咆哮に撃墜されたのだ。同時に、ソラは、背後に向かって拳を打ち出している。衝突。強烈な手応えがあった。力と力が激突し、衝撃波を発生させる。振り向く。ゼツの目。金色に膨大化している。ぶつかり合った拳と拳の間で、火花が散っていた。超常の力によって発生する力場の激突が、空間を歪めている。

 ゼツは、笑みを浮かべていた。

「ようやくか!」

「ああ、ようやくだ」

 嬉々としたゼツの叫び声に応じながら、ソラは、右の拳を相手のがら空きの脇腹に差し込んだ。が、敵の刀に阻止される。再び火花が散った。

 後方、ドラゴンが跳ね起きるのが見えた。ダルクが対応する。闇の結晶のような巨躯を誇る獅子が、戦闘態勢を取った。翼が空を叩く。衝撃波がドラゴンへ殺到した。ドラゴンが吼え、炎の壁を作り出して衝撃波を阻んだ。炎の壁は爆散し、熱風となって吹き荒れる。

 熱波がソラの頬を撫でた。

 力比べにも飽いたソラは、両手を引くとともに飛び退いた。体が軽い。ゼツの拳と刀が空を切るのを見やりながら、手を胸の前で組み合わせる。両手に集中した力場を球状に圧縮し、放つ。エネルギーの塊はまるで放電するかのように力を発散しながら、ソラを追ってきたゼツの胸元へ向かった。ゼツが刀の腹でエネルギー球を受け止めた瞬間、爆発が起きた。閃光と轟音。大気が震え、ソラの肉体を後方へ押し流す。爆煙の向こう側から咆哮が聞こえた。

「レグド!」

 ゼツの叫び声に真紅の竜が呼応する。激しい攻防を繰り広げていたダルクの視界から飛び去ると、ゼツの元へと飛翔していった。ダルクは追わない。ソラが追わせなかった。自分の落下地点に先回りさせ、翼を広げさせた。目いっぱいに広げられた翼に受け止められて、着地する。

 ソラは、前方から目を逸らさぬまま立ち上がった。爆煙の中で光が散乱している。まるで雷雲のようだ。その雷雲は瞬く間に吹き飛ばされ、ゼツとレグドが姿を現す。ゼツの纏うコートはぼろぼろになっていたものの、彼自身に痛撃を叩きこむことは出来なかったようだ。

 彼はコートを脱ぎ捨て、刀をぶら下げるようにした。構えになってはいない。が、それが彼の戦闘態勢なのだろう。本気になった、ということかもしれない。ドラゴンは左にあり、いつでも飛びかかれるように低い姿勢を取っていた。ぎらぎらと輝く双眸が、AFSに自我があることを思い知らせてくる。

 ソラは、ダルクを右に立たせると、半身に構えた。武器はない。いつの間にか手を離れていた。強制起動時に全身を覆った生体装甲も、ゼツの攻撃によって大半が破壊され、ダルクの発現とともにすべて消失した。肉体を覆うのは傷だらけの戦闘服だけだ。だが、構わない。問題ではないのだ。いまやダルクは顕現した。デバイスとしての機能は最大限に発揮され、戦闘兵器として万全となった。

 もっとも、それは向こうも同じだ。

 だからこそ、ソラは、相手の出方を見ていた。

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