13 記憶


「そんなことは――」

「戦いの日々が記憶をねじ曲げたか? だが俺は覚えているぞ。俺は見ていたからな。おまえがAFSの起動に成功し、そして失敗した瞬間を」

 男の言葉を妄言と切り捨てられなくなってしまったのは、ゼットの纏う空気が変わったからだ。軽さは失せ、重みだけが増していく。増大し続ける重量に意識が耐えられなくなるくらい、急激な速度で膨れ上がっていく。真実を語っている――ありえないと断じることもできなくなるくらいに、彼女の混乱もまた、大きくなっていた。

「おまえが起動したAFSに自我の発現は認められなかった。デバイスの半身にして、魂の力の顕現であるAFSに、おまえの魂は宿ってすらいなかったんだ!」

 加速度的な速さで、ソラの世界が壊れていく。亀裂の入った硝子細工に圧力が加えられたかのように。あとは音を立てて砕け散るしかない。止められない。何が起きたのかさえわからない。

「そんな馬鹿なことが」

 かろうじて発した声は、自分の耳にさえ届いたのかどうか。しかし、男は肥大した聴覚で捕捉していたに違いない。即座に肯定してきた。

「あったんだよ。そしてそれは馬鹿なことじゃあない。だれにでも起こりうる現象だった。精神接続の欠陥による起動不良。知っての通り、起動実験にまでこぎ着けたデバイスを開発しなおすことなんてできない。そこがデバイス開発の問題点だった。だから、研究者たちはおまえを不良品として処理し、廃棄するつもりだった。俺たちと同じように。が、運が良かったのか悪かったのか――おまえの存在が《黒》の総帥の目に触れた」

 ゼットの饒舌は止まらない。流れ落ちる激流のように、止めようがない。彼の舌を止めるには、その首を刎ね、物言わぬ亡骸にするしかない。しかし、ソラはそのように考えることができても、動き出せなかった。指一本、動かせなかったのだ。それでも聴覚は機能していたし、彼の言葉は一言一句違わず記憶されていた。

「当時あの女は手駒を欲していたからな。裏から手を回し、おまえの廃棄処分を取り下げさせた。かくて彼女はなんの苦労もなく、最強の手札を手にいれたのさ。鬼札をな」

「わたしは……!」

「利用されていただけだよ。可哀想に。なにも知らぬおまえに嘘の記憶を植え付け、妹や兄弟を揃えて偽りの家族を作り出す。愛に飢えたおまえを縛るにはこれほど効果的な鎖はない」

「ふざけるな」

 振り絞った声は掠れ、叫びにさえならなかった。偽りの記憶。確かにそのように思える。本当の記憶とはなんなのか。自分は一体何者で、どうしてこんなところにいるのか。目の前の男は誰だ。混乱が混乱を呼び、混沌の渦となって頭の中を攪拌する。

「ふざけてなどいないさ。思い出せよ。俺はゼツ。被験体No(ナンバー).00003。おまえと愛を誓い合った男だぜ」

「ゼツ……」

 混濁した意識の上で散乱する記憶の断片にその名を見出す。ゼツ。その名に意味を見出すのは難しい。彼女の名のようになんの意味もないのかもしれないし、彼の生後間もなく死んでしまった両親がなんらかの意味を込めてつけた名前かもしれない。

「ゼツ」

 彼女と同じ孤児院で育った少年の名だ。子供のころから真っ白な髪をしていた。いつも、どこか遠くを見るような目をしていて、それが彼女の心を何度となくざわめかせた。何処かへ行ってしまうのではないか。孤独な彼女にはそれが不安で仕方がなかった。結局、何処かへ行ってしまったのはソラの方だったが。

「ゼツ――」

 季節が流れ、状況が変わった。フウェイヴェリルの研究機関での再会は思いもよらぬもので、彼女としては嬉しくもあり、悲しくもあった。できるならば会いたくはなかった。人間ならざる戦闘装置へと開発されてしまった以上、もはや元に戻りようがない。すべては失われ、跡形もなく壊れていくしかない。

 ソラは、目を細めた。視界は広がっている。遠くまで見渡せた。男の顔がはっきりと見える。その余裕に満ちた表情も、遠くを見るようでいてこちらをしっかりと見ている眼も。気に入らないまなざしだ。

 壊れかけた意識は、ゼツがお喋りしている間に、ほぼ完全に作り直された。致命的な障害は取り除かれ、頭の中は極めて鮮明になっている。AFSは魂の力。肉体のみならず、精神にさえ作用する。

「懐かしい名だ」

「ようやく思い出してきたか?」

 ゼツの表情が緩んだのをソラは冷ややかな目で見ていた。

「ああ。思い出せたよ。貴様のおかげだ。礼をいう」

「礼には及ばないさ。俺はおまえを取り戻したかっただけだ」

「取り戻す?」

 ソラは、相手の態度に冷笑を浮かべるしかなかった。すべてを理解した。自分が何故こうまで取り乱したのかも。冷静さを見失い、相手の術中にはまっていったのかも、把握する。AFSによる自動修復が必要だったのは、その原因が外部にあったからだ。

 首筋に刺さっていた極小の棘を抜き、捨てる。恐らくはゼツのAFSの能力だろう。その一刺しに気づかなかったのは、腹部に受けた打撃が原因。つまり、腹と首の二箇所に同時に攻撃を受けたのだ。

「笑わせるな。わたしは元より貴様のものではない。わたしの全存在は《黒》の主たるサヤ様のためだけにある」

「酷い洗脳もあったもんだ……! 待ってな、すぐに解放してやる!」

 勢い込んで刀を構えるゼツの様子に呆れ返りながら、彼女はレイピアを構えた。ゼツの多重攻撃には注意しなければならない。特に棘は危険だ。棘による精神汚染は、ソラをして使い物にならなくするほどのものだ。

「……洗脳? 違うよ」

「なにが違う! おまえはそんな女じゃなかった!」

「ゼツ……おまえは一体わたしのなにを知っているというんだ? ガキの頃一緒にいたというだけだ。機関で一緒だっただけだ。それだけだ。おまえはわたしを知らない。わたしのことを何も知らないんだ」

「すべて嘘だったっていうのか……!」

 縋るような叫び声は、彼女の胸に空々しく聞こえた。響かない。響くはずがない。鐘の音はならないのだ。ソラの心はとっくの昔に凍りついている。熱情では溶かせないほどには強固に。もちろん、それだけが問題ではない。過去に縋るものの言葉では、現在を生きるものの心を突き動かすことなどできはしないのだ。

「俺との誓いも! 俺との願いも! 俺との約束も! 全部、すべて、なにもかも! 嘘だったっていうのか!」

「時は流れ、夢物語は終わった。真実は形を変え、現実がここにある。いまあるわたしこそが事実なんだよ。おまえの見ているそれは、幻の中のわたしに過ぎない。いや、わたしですらないんだ。わたしと同じ名前の別の存在。過ぎ去った時の中にしか存在し得ないものなんだよ」

 言って聞かせたところで分かり合えはしないのだろう。でなければ、このような事態にはなり得なかった。彼女は半ば諦めの境地にありながら、ゼツの表情が変化していくのを見ていた。望みが絶たれ、願いも打ち捨てられた男の顔からは感情という感情が消え失せていた。怒りすらない。悲しみなどあろうはずがない。彼は一方的な思い込みと勘違いに縋って今まで生きてきたのだ、それが失われた今、彼の心を満たすのは絶望そのものなのかもしれない。

 いや。

 ソラは頭の中で前言撤回した。ゼツの表情こそ失われたものの、その瞳から意志の光は消えてはいなかった。むしろより強く、烈しく輝いている。ぎらぎらと照りつける真夏の太陽のようだ。苛烈で、一切の容赦なく降り注ぐ天の光。

 やはりソラとが相容れないのだ。

「だったらよお! 思い出させりゃいいだけじゃあねえか!」

「懲りない男だ」

「俺ァそういう男なんだよ、生憎なァッ!」

 ゼツの長刀が、ソラの眼前を薙いだ。剣風が顔面に刺さるかのようだった。ソラの動体視力でさえ捉えられないほどの剣速は、彼が隠していた実力を発揮したことの現れだろう。つまり、いままでは手加減をしていたのだ。加減をしなければ殺しかねないとでも考えていたに違いない。

「舐められたものだ」

 つぶやきながら、片手でレイピアを構える。全身が、ゼツの気配の変化に反応していた。全身が総毛立つような殺気を感じている。彼のまなざしを見てもわかる。本気なのだ。正真正銘、こちらを倒すつもりなのだ。そうでもしなければ、彼の思う通りの結果にはならないとでも思っているのだ。嘆息する。

「思い込みほど恐ろしいものはないな。わたしを倒したところで、なにも変わらないさ」

「おまえを倒す? 違うな。取り戻すんだよ!」

「何度言ったらわかるんだ? わたしは元より貴様の所有物ではないのだよ」

「ほざいてろ!」

 ゼツが叫んでくる。空を薙いだ刀をそのままに、こちらを見ていた。決然たるまなざしは、彼が力を駆使することの前触れに違いなかった。そしてそれを理解するより早く、ソラは、敵に向かって飛びかかっていた。

 相手が聞く耳など持っていないのは端からわかっていた。でなければこのような事態にはならなかったはずだ。国家への反逆を企て、それを成そうとした以上、狂気が彼を支配していると見ていい。正常な判断ができるのならば、フウェイヴェリルを打倒しようなどと考えるはずがない。たった百体程度の不良品が集まったところで、フウェイヴェリルという国が揺らぐはずもない。

 ソラを奪還するという妄想に囚われ、現実を見失ってしまったのかもしれない。

「哀れな不良品だ」

 切っ先の届く距離に達した瞬間繰り出した突きは刀の峰で弾かれ、レイピアは目標を見失って流れていく。武器はなにも突剣だけではない。そのまま突っ込んで間合いを詰める。刹那、真紅の尾がソラの左脇腹目掛けて伸びてきた。猛烈な打撃。かわしきれるものではない。一瞬の躊躇もなく、彼女は翼で全身を覆った。強烈な衝撃が翼を通して彼女に襲い掛かる。が、翼が突き破られるほどのものではなかった。ただ距離を稼ぐための無造作な一撃は、確かに彼女を引き離すのには成功していた。

 ソラが翼を開いたのは中空であったし、慣性を殺すために翼を羽ばたかせたとき、視界の片隅に映るゼツの全身が淡く発光しているのが見えた。

「AFS完全起動フルドライブ

 ゼツが告げ、大気が震撼した。

 轟然と吹き荒ぶ熱風に煽られながら、ソラは、ゼツの気配が変質するのを認識していた。爆発的な力の拡散と変容。姿形までも変化する。いや、元に戻ったというべきか。AFSと融合した状態から、デバイスとしての素体へと戻ったのだ。では、AFSはどうなったのか。

 彼は、完全起動フルドライブといった。

 強制的な起動ではなく、AFSを完全に起動したのだ。強制的なAFSの起動は、雑魚を蹴散らすにはもってこいだが、逆を言えばその程度の力しか発揮できないとも言える。AFSデバイスの本領を発揮するのは、なんといってもAFSの完全起動によってでしかない。強制起動オーバードライブによってAFSと一体化しても、AFSを武装化しても、AFSを使いこなすことはできないのだ。

 渦巻く熱波は、解き放たれた力の大きさを物語っている。完全解放されたAFSから発生する力の奔流が大気を焼き、荒れ狂う熱気となって中空のソラにまで届いていた。その熱源は、ゼツの側にはない。人間と大差ない元の姿に戻った彼は、太刀を構え、こちらに向かって突っ込んでくるところだった。

(AFSは……)

 高熱源体を背後に察知したとき、彼女の背に衝撃が走った。翼の付け根を狙った重い打撃。AFSによる急襲。

 急転直下、ソラは地上に向かって真っ逆さまに叩き落とされる。背骨が砕けたのではないかと思うほどの痛撃。人間ならば即死だったろうし、並みのデバイスでもただでは済まなかったはずだ。第一世代だから耐えられた。

 が、ダメージこそ耐えたものの、落下は防げない。迫り来る地面との間に割って入ってくるのはゼツ。AFSという枷を外した獣が、獰猛な笑みを浮かべていた。鈍く輝く刀身に映る己の顔を認めて彼女は苦笑した。

 苦痛に歪む自分の顔を見たのは、いつ以来だろう。長い間忘れていた感覚。死の実感。それは前方と後方から迫ってきている。ゼツと、彼のAFS。

 歯噛みする。強引に痛みを捩じ伏せ、翼を展開する。翼は折れてはいない。慣性を殺して滞空し、体を捻って天地に対応する。突剣でゼツの斬撃を、左手でAFSの打撃を受け止めた。激しい衝撃が彼女の両腕に負荷をかける。骨が軋んだ。

「甘いな」

 ゼツが言うが早いか、天と地、双方で爆発が起きた。


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