8 破壊

「AFS強制起動オーバードライブ

 ソラが命じた瞬間、網膜の裏側に無数の文字列が浮かんだ。数え切れないほどの文字が生じては消える。辛うじて理解できたのは、声紋認証完了という文字と強制起動開始という文字くらいだった。あとは、彼女が認識するまでもなく消失する。それは記憶する必要もない程度の情報だったということかもしれない。

 彼女の胸の奥底で、なにかが震えた。

 どくん、という心音の高鳴りとともに全身が沸騰し、血液が逆流するような感覚に襲われる。全身の毛穴という毛穴が開く。細胞が活性化する。すべてが変わる。感覚が肥大し、脳に飛び込んでくる情報量が膨大化するものの、処理能力はむしろ加速し、情報の把握に関する遅延などまったくなかった。

 圧倒的な力の解放。意識、感覚、あらゆるものがより強大に、より鋭敏に、より繊細になっていく。

 膨大化した意識が、自身の内に眠る何かを捉える。それは異形の半身。眠れる獣。闇の魔獣。黒き獅子。魂の深淵に眠っていたそれが、彼女の命令に応えるように瞼を開けた。双眸から溢れるのは、黄金の輝き。咆哮が聞こえた。魂の叫び。それは歓喜に違いなかった。縛鎖を解かれることへの歓喜――。

「!」

 ソラの眼前に、ジェイがいた。彼は、槍を突き付けてきていたものの、彼女にはその動作がひどく緩慢に見えていた。鈍い光沢を帯びた槍の切っ先が、極めてゆっくりと迫ってくる。どれだけ鋭利な刃であろうと、どれだけ凶悪な殺気が込められていようと、ここまで遅いと恐怖心が生まれるはずもなかった。回避する方法が無数に浮かんだ。

 それだけではない。

 全周囲より迫り来る無数の矢も数多の敵も、極めて緩やかだった。まるで世界が停滞しているかのような感覚。しかしそれは必ずしも正しくはない。

 意識が加速したがために起きた、体感速度の低下に過ぎない。

 AFSの強制起動による弊害だ。感覚が暴走している。だが、それが仇になるとすれば同世代間の戦闘くらいのものだ。いまは違う。彼女が相手にしているのは格下に過ぎない。失敗作に過ぎない。不良品に過ぎない。廃棄物に過ぎない。

(塵だ)

 彼女は、眼前の敵を見つめながら、力が充溢しているのを認めた。いや、それはもはや充溢どころではない。彼女という器から、いまにも溢れだしそうな勢いだった。膨大な力がある。いままでどこに眠っていたというのかわからないくらいの活力が、ソラの全身に漲っていた。

 両腕を無造作に振るう。

 ぶちんっという妙な音がして、体に絡みついていた泥の触手が無残にちぎれた。簡単なものだ。足元から上がった悲鳴は、泥人形のものに違いない。触手にも痛覚があったのだろう。だからといって哀れむ必要もない。即座にレイピアを振り下ろし、泥人形の眼孔に切っ先を突き入れる。

 化け物が一層耳障りな悲鳴を発するとともに、彼女の拘束は完全に解けた。ソラの肉体は泥の触手という支えを失い、地面に向かって落下する。その瞬間、ジェイの顔色が急激に変化するのを目撃する。彼の体勢が崩れた。槍の切っ先が天を睨む。

 AFSとデバイスは、ある程度の感覚を共有する。

 ソラは、足の爪先で悲鳴をあげる泥人形の頭を踏みつけると、それを足場にして前方に跳んだ。低い弾道の跳躍。眼前の男は、こちらの速度についてくる素振りさえ見せない。できないのだ。泥人形から伝わる激痛に抗えない。ソラは、笑いもせずに体を捻った。右足を赤毛の側頭部に叩き込む。

 蹴撃一閃。

 ジェイは、なにをされたのか気づいてもいなかったのかもしれない。ソラの靴の先端がジェイの側頭部に突き刺さり、頭蓋骨を砕いて脳髄をも蹴破った。そのまま足を振り抜き、男の体を吹き飛ばす。ジェイの体は、脳症をまき散らしながら冗談のような軌跡を描いて飛んでいったが、見届けはしなぁった。そんな暇はない。

 上空からは、矢の雨が降り注いできている。地上からは敵の群れ。逃げ場はない。

 いや。

 頭上には、空隙があった。

 彼女は、ジェイを蹴り飛ばした際の慣性によって多少回転したものの、即座に翼で大気を叩いて慣性を殺した。さらに翼を閃かせる。翼の羽撃きが発生させる強大な浮力は、彼女の肉体を直上の空へと運んでいった。飛翔。目一杯に引き絞られ、放たれた矢のような急加速だった。しかし、彼女の意識も肉体も、強烈な圧をものともしない。

 上空へ。鉛色の雲が少しだけ近くに見えた。が、どうしようもない。彼女の翼如きでは、雲を払うことなどできるわけがない。冷ややかに笑う。諦観ではない。単純にどうでもいいことだ。少なくとも、いまこの場で考える必要はなかった。

 上空十メートルほどに達すると、彼女は上昇を止めた。翼を羽撃かせて高度を保ちながら、地上を見下ろす。百を数える矢は、目標を見失ったこともわからず、直前までソラがいた場所に滝のように降り注いていった。矢の豪雨によって泥人形が無惨に損壊されていく。

 どうやら、ジェイにはまだ息があるようだ。でなければ、泥人形が存在を保っていられるはずもない。もっとも、その息もすぐに絶えるに違いないが。

 すべての矢が地面や泥人形に突き立ったころ、地上の失敗作たちはというと、空中のソラに飛びかかることもできず包囲を縮めただけに過ぎなかった。これだけの人数だ。一体や二体くらい、飛行能力を有したものが居てもおかしくはないのだが。

(なるほど。慎重だな)

 それは悪いことではない。

 わずか数人で飛びかかっても、ソラに一蹴されるのが目に見えたに違いない。第二世代が一撃で沈んだのだ。例えば飛行能力者が第三世代であれば、目も当てられない結果が待っている。

(だが、つまらん)

 彼女は、翼を止めた。翼。なにかの比喩ではない。ソラの背には、外套を突き破り、一対の漆黒の翼が生えていた。猛禽の翼を想起させる漆黒の翼。たた黒いだけではなく、艶やかな光沢を帯びたそれは、ただひたすらに美しい。

 彼女の身に起きた変化は、それだけではなかった。

 黒髪の中から獣の耳が突き出ていた。猫科の動物の耳だろう。その耳自体にはある種の愛嬌があるものの、その程度では彼女の持つ狂暴性を薄めることはできない。もちろん、彼女自身の耳も存在している。また、外套の臀部辺りを突き破り、漆黒の体毛に覆われた尻尾が伸びていた。毛並みも美しい尾の先端には、黒い炎が灯っている。

 その姿は、紛れもなく人外異形の化け物だった。

 肉体の変化。それもまた、AFSの強制起動による弊害といえるのだが、能力拡張のひとつの形ともいえなくはない。翼は飛翔を可能にし、耳は聴覚を強化した。尾は、戦闘の役に立たないでもない。

 ともかくも人外の存在へと変貌した彼女は、引力に引っ張られるまま、地上へと落下した。急激な落下の最中、数多の声が聞こえてくる。

「あれが第一世代(オリジンズ)」

「ジェイが殺られるなんて」

「ゼットを呼ぼう。第一世代には第一世代だ」

「仕方がねえ」

 猫耳によって拡張された聴覚が捉えた会話に、ソラは、思わず眼を細めた。聞き慣れない名前の第一世代。

(ゼット?)

 彼女が胸中で首を傾げたのは、記憶の中に存在しなかったからだ。少なくとも、フウェイヴェリルで開発された第一世代デバイスの情報は、頭の中に叩き込んでいるはずだった。どれだけ記憶の深層に潜ろうと、ゼットという名前の第一世代に関する情報はでてこない。その断片さえ見当たらなかった。

 奇妙なことだ。

 第一世代の開発が凍結されてから既に数年。どこかの派閥によって開発が再開されたという話もない。派閥同士が監視し、牽制しあっているという現状、開発再開を隠蔽することは難しい。であるならば、彼女の持つ情報がフウェイヴェリルの第一世代のすべてだ。

 ゼットとはなにものなのか。もしかすると、フウェイヴェリルのデバイスではないのかもしれない。エンシエルか、サイズルーンか。両国の第一世代についてはわからないことが多い。剣を交えたデバイスも少なくはないが。

 いずれにしても、ソラの目的に変更はないのだ。たとえ極秘裏に開発された第一世代であろうと、他国の第一世代であろうと、廃棄処分するだけだ。

 地面に激突する寸前、彼女は翼で大気を叩いた。強烈な一撃が生み出す浮力により急停止し、さらなる羽撃きが、ソラの肉体を前方へと飛ばす。一直線に敵陣へ。数メートルの間合いは瞬時にゼロになった。眼前には第三世代のデバイスたち。AFSも実体化し、それらの前方で武器を構えていた。

 甲冑を身に纏った騎士、槍使い、斧を構えた戦士――同じような姿のAFSの群れ。まるで大量生産された商品が並んでいるかのような印象さえ抱く。それが第三世代の特徴であり、模造品イミテーションと呼ばれる所以だった。

「迎え撃てえっ!」

 ソラがその叫び声を聞いたのは、剣を構えた騎士ナイトに殺到した直後だった。眼前に銀の兜。面具越しに、緑に輝く双眸が覗いた。人外の眼。彼女は、おもむろにレイピアを伸ばす。白銀の刀身は容易く面具を突き破り、騎士の素顔に突き刺さった。異形の悲鳴が上がるより早く、手首を返してレイピアを閃かせ、騎士の頭部を斬り裂く。兜の上半分を頭部もろとも撥ね飛ばし、血とも脳漿ともつかぬ体液を飛び散らせた。が、彼女に降りかかることはない。そのときには、ソラの肉体は別の目標に飛翔していたからだ。デバイスのことなどどうでもよくなっていた。AFSの脳を破壊したのだ。もはや死んだも同然だ。

 そのころになってようやく敵陣に動きが見られた。騎士、闘士ウォリア戦士ファイター槍使いランサーなどと分類される第三世代のAFSたちが、ソラを迎撃すべく動き出したのだ。手斧や棍棒を得物とする戦士と肉体そのものを武器とする闘士は軽装であり、顔が露出していることで顔の作りまで酷似していることがわかる。個体差などごくわずかで、じっと観察しなければわからない程度のものでしかない。

 槍使いは、騎士同様に重装備だ。得物は長大な槍。その間合いは、他のAFSよりも遥かに広い。が、こうも密集した陣形では思うように振るうこともできまい。後方に潜んでいるのであろう弓使いアーチャーとて同じことだ。この状況では、そう簡単に矢を放つことなどできない。味方を誤射する可能性が余りにも高すぎる。

(その状況でも敵だけを射抜くのが、本当の狙撃手だがな)

 それはあまりにも無体な注文といわざるを得ない。

 彼らは廃棄物として処理されるはずだったのだ。正規の訓練など受けてもいない。戦い方も我流に近く、ある程度の統率は取れていても、戦術としては稚拙と言わざるを得ない。ソラを幾重にも包囲したまま、距離を詰めてきたのだ。結果、彼らは密集することになり、思うように力を振るえなくなっている。

 どれだけ凶悪な力を持っていようと、発揮できなければ意味がない。

 その点、ソラに遠慮はいらなかった。巻き込むような味方もいなければ、手加減しなければならないような相手でもない。商品棚に並ぶこともできなかった失敗作たち。遠慮はいらない。持てる力の限りを尽くし、完膚なきまでに破壊してしまえばいい。

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