7 視線
「ええーっ!? そんなのってないよ!?」
ヨミの大袈裟な反応は、サヤにとっては期待以上のものだった。表情を一変させ、大声を上げた少女は、目元に涙さえ浮かべながらサヤに躙り寄ってくる。怒っているのか泣いているのか判別の難しい表情だった。顔を真っ赤にして頬を膨らませているところから見て、その両方かもしれない。
彼女は、サヤの目の前まで来ると、こちらを覗き込むようにしてきた。小柄とはいえ、ヨミの方がかなりの上背なのだ。当然、サヤは少女を見上げる形になった。鼻息さえ掛かりそうな距離に、少女の愛らしい顔がある。
「お姉さまが帰ってきたって言うから飛んできたのに! 久しぶりに会えると思ったのに……!」
「ヨミちゃん」
宝石のような両目から大粒の涙をこぼし始めたヨミに、サヤは、胸のときめきを抑えられそうになかった。抱き締めたい衝動だけはなんとか捩じ伏せ、懐からハンカチを取り出す。熊を元にした可愛いキャラクターがプリントされたハンカチは、とても総帥が使うものとは思えないような代物だったが、彼女はまったく気にしていない。ヨミの涙を拭う。
「ううう……お姉さまとたくさんたくさんお話したかったのに。お昼だって一緒に食べたかったのに……」
その場にへたり込み、悲しみに暮れる少女の姿に胸が締め付けられるのは、なぜだろう。ただの子供の駄々と切って捨てることもできる。だが、サヤにはそのような感情は微塵も湧かなかった。むしろ、愛しさと慈しみが溢れてくる。自分の性分には苦笑を漏らすしかなかった。
サヤは、ヨミの顔を覗き込んだ。涙に濡れた黄金色の瞳には、自分の姿が映り込んでいるのだろうか。尋ねる。
「わたしと一緒じゃ、嫌?」
「お母さまと一緒にお昼?」
こちらの言葉を反芻するようにつぶやいた直後、少女の表情が一瞬にして明るくなった。
「ううん! 全然そんなことないよ!」
「そう、良かったわ」
彼女の幸せそうな笑顔に引き込まれるようにして微笑する。
そこに大輪の花が咲いたかのような急激な変化には少々面食らったものの、サヤは、彼女の機嫌を取れたことにほっと胸を撫で下ろした。これには、ヨミがサヤを本当の母のように慕ってくれていることが大きいのだろう。彼女にとってはサヤは本当の意味での母であり、ソラもまた、本当の意味での姉なのだ。
もっとも、ヨミのソラへの愛情は、時として家族愛以上に深く、激しい。サヤへの想いとは比べるべくもない。そして、比べる必要もない。サヤは、すべての子供たちを平等に愛しているのだから。
しかし、彼女の行き過ぎた愛情が、サイズルーンの都市をひとつ、この大陸から消滅させるなどさすがのサヤにも想像できなかった。結果、ヨミは最凶最悪の第一世代(オリジンズ)と呼ばれるようになり、また《委員会》の監視下に置かれるようになった。
《委員会》は、《黒》及びサヤ個人の判断だけでヨミを運用することを禁じたのだ。
彼女を取り巻くダークスーツの連中がそのエージェントだ。監視員たち。いまでは彼女の言動に振り回されるだけのお笑い集団のような様相を為しているものの、彼らは《委員会》直属の人間であり、《黒》の部外者といえた。
ふと、サヤの脳裏に妙案が浮かんだ。それは危うい賭けかもしれなかったが、いま行動に移さなければ、《黒》の腐敗を招きかねない。早急に対処しなければならないのだ。
膿みは、滅却しなければならない。
サヤは、嬉しそうににこにこしているヨミの頭にぽんと手を置くと、呆気に取られている監視員たちに声を掛けた。
「あなたたち、疲れたでしょう?」
「い、いえ、そんなことはありません」
直前まで呆然としていた男たちの顔に緊張が走った。彼らが即座に姿勢を正す様子に、サヤは自分が総帥であったことを再確認する。いや、理解して入るのだ。常に意識もしている。しかし、ヨミとの何気ない会話は、彼女をして総帥という立場を忘れさせた。悪い癖には違いない。
監視員の女が、務めて平静を装って告げてくる。
「これも務めです」
それは確かにその通りだった。彼女らは、《委員会》のエージェントとしてヨミを監視するためだけにここにいた。しかし、厳重に監視するということは、対象と常に行動をともにするということであり、それは、自由自在なヨミの有り様に毎日のように振り回されなければならないということでもあった。肉体的にも精神的にも疲労困憊に違いなかった。疲れが、顔に出ている。
どれだけ取り繕おうとも、疲れは、隠しようがないものらしい。
そして、サヤは、話を切り出した。
「昼食の間、この子の面倒はわたしが見ておきましょうか? あなたたちもたまには羽を伸ばしたいでしょう?」
それは、危険な賭けだった。
場合によっては、彼女の立場を危うくしかねない。《委員会》に対する反逆行為と受け取られても仕方がない。実際、それは彼女なりの抗議でもあったのかもしれない。愛しい我が娘であるヨミを監視員という縛鎖で繋ぎ止めておくという仕打ちには、頭では理解できていても心では納得していなかった。
必要なのはわかっているのだ。彼女を野放しには出来ない。だからといって、許せるはずもない。例え、ヨミが自分の置かれている状況を窮屈に感じていないのだとしても、だ。
だからこそ、サヤは、賭けに出た。
「え? ですが……」
案の定、監視員の女の目が光った。疲労に曇っていた眼差しに鈍い輝きが灯り、こちらの意図を探ろうとするのがわかった。当然の反応。予想通りとしか言いようがない。緊張したのは、その女だけではない。ヨミに同行する五人の監視員全員が、サヤの目を見ていた。
サヤは、微笑を絶やさない。告げる。
「それとも、この子の機嫌を損ないたいのかしら」
その台詞は、監視員たちへの脅迫と成り得た。ついさっきまでこの屋敷中を走り回らされていたのだ。機嫌が悪くなくてもそれなのだ。不機嫌になった彼女がどのような騒ぎを起こすのか、想像するだけで恐ろしい。
サヤの目の前の少女は、にこにこしたまま涎さえ垂らしていたが。お昼時だ。お腹が空いていてもおかしくはない。なにより彼女は、監視員ともども屋敷の中を走り回っていたのだ。空腹の極地であっても何ら不思議ではなかった。
「……」
監視員たちが、顔を多少青ざめさせながら視線を交わした。ヨミの暴走を想像してしまったのかもしれない。そうなると、哀れみを覚えるのがサヤだった。この二ヶ月、彼らは休みという休みもなくヨミに付きっきりなのだ。傍若無人たる彼女の相手など、だれに務まるというのか。
そもそも、ヨミの監視員は彼らが最初ではない。前任者たちのうちあるものはストレスで胃に穴があいたといい、あるものは血反吐を吐いたといい、あるものは毛根が薄くなったという。最後が切実なのは気のせいではない。ヨミと四六時中一緒にいるということがどれほど大変なのか、それを聞くだけでわかるだろう。
二ヶ月。
彼らにも、彼女と付き合う大変さが身に染みて分かってきているころだろう。むしろ、体調に異変が起き始めている頃合かもしれない。疲労を隠せないのは、さっきまでドタバタ走り回っていたせいだとしても、女監視員の化粧の乗りが悪いのは、ヨミの監視をしていることが原因かもしれなかった。
彼らの逡巡は、長い。
彼らの思考回路がめまぐるしく回転しているのは、想像に固くない。彼らも自分の立場を考えなくてはならない。《委員会》直属のエリートたち。超重要危険人物たるヨミを監視するために《黒》に出向してきたのだ。任務と言えば、ヨミが任務につかないように監視するということだけだ。しかし、これにも危険が付き纏う。彼女は最凶最悪のAFSデバイスなのだ。ちょっとした判断ミスが、命取りになりかねなかった。
ヨミの逆鱗に触れたとき、彼らの命数は尽きる――実際そんなことは起きようがないのだが、そう信じていても致し方なかった。
ヨミは、ソラのためだけに、ひとつの都市をこの地上から消滅させた。
「では、お言葉に甘えさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
やがて、彼らが結論を出した。
監視員たちの緊張した面持ちに対して、サヤはいつになく透き通った笑みを返した。彼らの決断は、組織の人間としては大きな間違いだったが、彼女にとってこれ以上にないくらいの正解だった。彼らの疲れを労わるためにも、この処置は必要に違いないのだ。
「ええ。この子のことはわたしに任せて。これでも長年母をやっているもの。大丈夫よ」
サヤはヨミの頭を撫でながら、監視員たちを見回した。彼らとて、罪悪感を覚えずにはいられないのだろう。暗い表情だった。しかし、一時でもヨミから解放されたいという欲求が、鎌首をもたげているのもわかる。そして、一度言い出した以上、止めることはできないだろう。
理性という堤は決壊した。
あとは、本能に従うしかない。
「総帥……いえ、御母様。お心遣いありがとうございます」
監視員たちが、深々と頭を下げてきた。そちらを振り返った読みはきょとんとしたようだったが。彼女には理解できないだろう。理解しなくてもいいことだ。
サヤは、軽く手を振った。
「いいのよ。気にしないで頂戴。あなたたちもヨミちゃんと同じく大切な家族だもの」
「ああ、御母様……!」
女が、感極まったような表情を見せたのは、ヨミというある種の暴君から短時間でも解放されることへの喜びもあったに違いない。罪悪感などどこへやら、女は、久方振りの自由を心の底から喜んでいる様子だった。
「ヨミ様との合流は一時間後、食堂ということで構いませんか?」
「ええ。それでいいわ。楽しんでいらっしゃい」
「では、失礼いたします」
監視員たちは、再びサヤに向かって深々と一礼した。もはや彼らは解放された。すぐにでも駆け出したい気分に違いなかったが、はしゃぐわけにはいかないということもわかっている。それはいくらなんでも礼儀がなっていない。それに、ヨミを刺激したくはないと考えるのが普通だ。
彼らは、こちらに背を向けると、足音一つ立てないくらいの慎重さで歩きだした。
ヨミはというと、彼らを気に留めてもいないようだった。むしろ、心ここにあらずといった表情に見えた。熱に浮かされたかのような表情といってもいい。虚ろなまなざしは空をさまよい、顔全体がわずかに紅潮していた。その表情は、有り体にいえば美しく、いつもの子供っぽい言動からは想像できないほどの色香が漂っていた。
サヤは、彼女のそんな表情を見るのが好きではなかった。どこか痛ましいのだ。ヨミらしくない。彼女はいつものように子供っぽくはしゃぎ回っているのが一番いい。それだけでサヤの心は救われるのだ。巻き込まれる人たちには悪いが。
ヨミはヨミでありさえすれば、それでいいのだ。
だからこそ、サヤは、心苦しくもあった。そんな彼女を利用しなければならない自分の無力さに腹が立つ。だが、ヨミでなくてはならなかった。だれにも気づかれず、なにものにも悟られずにサヤの計略を実行できるのは、《黒》の派閥においてヨミしかいなかった。いや、フウェイヴェリル中を探し回っても、彼女以上の適任者はいないだろう。
《万軍の主》たる彼女のみが、サヤの望みを叶えることができる。
「……ねえ、お母さま」
ヨミが、虚ろなまなざしをこちらに向けてきた。目を合わせても、彼女がこちらを見ているという実感はなかった。もっと遠くを見ているような眼。よく見ると、第一世代特有の黄金の虹彩が、わずかに発光しているのがわかる。AFSの起動中ではないにも関わらず、虹彩の発光現象が確認されるなど普通ではない。
無論、わかりきったことではあった。
ヨミは、尋常ではないのだ。
「どうしたの? ヨミちゃん」
「お姉さま……強制起動したみたい」
大陸の東端で任務にあたっているはずのソラの気配を感じ取ったというのか。
サヤには、そんなことなどありえないことのように思えたが、しかし、ヨミがそんなことで嘘をつくはずもないのは事実だった。そして、最凶最悪のAFSデバイスと呼ばれる通り、彼女はすべてが規格外なのだ。あらゆる面で他の追随を許さない。
彼女を常識で推し量ってはいけない。
それは開発当初から囁かれていたことではあったが。
そして、相手がソラならば尚更かもしれない。
ヨミは、ソラのことを心の底から愛していた。
「お姉さま、とてもつまらなそう」
ヨミがぽつりと漏らした言葉は、ソラが、順調に不良品を処分していることの表れに違いなかった。
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