6 愚者
サヤが、ある程度の仕事を処理して執務室を出たのは、正午過ぎ――ちょうどお昼時のことだった。
フウェイヴェリルの首都グラスヴェリル有数といわれるその大邸宅は、彼女の私邸にして《黒》の派閥の拠点だった。《黒》の総帥たる彼女にとっては職場でもあり、また、サヤが《家族》のために用意した家でもあった。建物がやたら大きいのは、彼女の《家族》が暮らすにはそれくらいの容量が必要不可欠だったからだ。
《家族》という。
彼女が総帥を務める
食堂を目指し、広い廊下を進む。昼食は、みんなと一緒に食堂で食べるというのが彼女の日課だった。お昼を食べながら他愛ない会話を交わす時間ほど大切なものもない。忌憚のない意見が飛び交い、時に怒号や罵倒が交錯することもあるが、それはそれで活気があっていい。
廊下の床や壁、天井は磨き抜かれており、手入れが行き届いているのがよくわかった。
サヤは、その廊下を歩きながら微笑を浮かべた。みんな、良い子だ。
と。
「お姉さま~! お姉さまはどこなの~?」
どこか伸びやかな少女の声が、サヤの耳に飛び込んできた。とてつもなく可愛らしい声だった。溌剌としていて、元気そのものといった感じがある。そのうえ、可憐なのだ。母性本能をくすぐるとはまさにこのことだろう。
声は、サヤの進行方向――執務室から続く廊下の突き当たり、左右に分かれた通路の左側から聞こえてくるようだった。別の声が続く。
「こちらには居られませんでした」
「こ、こちらにも!」
どこか疲れきったような様子さえ伺える男共の声の調子に、サヤは、多少の同情を禁じ得なかった。彼らが悪いわけではない。彼らにその役目を押し付けた連中が悪いのだ。あの子の監視など、並大抵の労力では済まない。彼女の行動に半日付き合うだけで、大抵の人間は絶望を知るという。
「む~! お姉さまは絶対にどこかにいるわ! 探しだすのよ!」
少女が声高に叫ぶ。だか、その叫び声から威圧的な要素が微塵も感じられないのは、声の可愛らしさもあるだろうが、彼女にそういうつもりがないからだろう。命令するというよりも、お願いしているという感覚に近い。それ故か、反発を覚えにくく、立場もあって、男共は彼女の言う通りにせざるを得ないのだ。
サヤは、男たちが内心で悲鳴を上げるのを聞いた気がした。
「し、しかし」
「残すところ、御母様の執務室のみです」
サヤは、男の怯えるような声には多少むっとしながらも、彼の口にした御母様という呼称には満足した。もっとも、《委員会》の送り込んできた監視員がそう呼ぶのは、何処か面映ゆいものがあったが。彼女が強要したわけではない。彼らがこちらに来た当初は総帥と呼んでいたし、それでよかったのだ。しかし、数日後には、御母様の呼称に変わっていた。あの子のせいには違いない。
「そうなの?」
「はい。他は手当たり次第調べ尽くしました」
男の台詞にサヤが吃驚したのはある意味当然だった。この屋敷は、とにかく広い。小型の要塞ではないのかと思えるくらいに広く、巨大なのだ。部屋の数は優に三桁を数え、地下五階から地上五階までを繋ぐ通路は複雑に入り組んだ迷宮を思わせる。すべての部屋を片っ端から調べて回るなど、正気の沙汰ではなかった。
しかし、あの子ならそれをやりかねない。巻き込まれる方からすればいい迷惑だろう。いや、迷惑などという類のものではない。とはいえ、監視員である彼らにはどうすることもできない。彼女の機嫌を損ねることこそ、最も恐れなければならない。もはや天災に遭ったのだと諦めるしかない。
「じゃあ、いこ」
少女が、こともなげに言った。
なんの逡巡もなく即断即決で言い放った女の姿がありありと脳裏に浮かんで、サヤは、危うく吹き出すところだった。彼女はそういう子だった。
なにものにも支配されざる自由な魂。
たとえ《委員会》が厳重に監視しようとも、彼女の奔放な魂を留め置くことはできない。唯一彼女を制御できるものがあるとすれば、彼女が愛してやまない「お姉さま」だけだった。《黒》の総帥として君臨するサヤでさえ、彼女を支配することはできない。腫れ物でも触るような繊細さと、赤子をあやすような柔軟さが要求された。
とはいえ、彼女が、サヤの意見を蔑ろにすることなどほとんどなかった。それもこれも彼女の「お姉さま」の言い付けのおかげではあったが。
「えっ!?」
「し、執務室ですよ?」
「御母様の!」
「総帥の!」
監視員の男女が口を揃えて抗議する様が、目の前で展開されるかのようだった。妄想ではない。通路を進めば、すぐに目の当たりにできるだろう。《委員会》から派遣された大の大人たちが、たったひとりの少女相手にたじたじになっているのだ。それはいつも通りの光景に違いなかったが、いつ見ても面白い光景だった。
そして、サヤは、廊下の突き当たりに辿り着いた。ちょうど、少女が監視員たちに言い返すところだった。
「うん、知ってるよ。でも、お母さまがお姉さまを独り占めにしてるんなら、執務室ででも乗り込むんだから! そして取り返すのよ!」
サヤは、少女の剣幕に少しばかり驚いたものの、彼女の「お姉さま」への想いから考えれば当然の反応かと思い返した。彼女は、極めて穏やかな笑みを浮かべると、通路に屯する連中へと視線を向けた。視界に飛び込んでくるのは、ダークスーツに身を包んだ大人たちであり、その大人たちと対峙するひとりの少女だった。その少女の華奢な背中に声をかける。
「なにを取り返すの? ヨミちゃん」
「あ、お母さま!」
サヤに名を呼ばれた少女は、脊椎反射とも取れる速度でこちらに向き直った。
ヨミ。
彼女は、少女と呼ぶにはやや大人びた外見をしている。燃えるような深紅の頭髪は長く、そのまま垂らせば膝裏に触れるほどだが、今日はツインテールにしていた。白い肌は、血色も良く、汚れなどしらないかのよう。猫の目のようだとも言われる双眸は、長い睫毛に縁どられており、瞳は黄金の虹彩を湛えている。あざやかな色彩だった。見ているだけで吸い込まれそうになる。いつ見てもそう思うのだから不思議なものだった。
柔らかそうな唇は、男にとっては垂涎の的なのではないかと思われた。いや、それは同性にしても同じことかもしれない。吸い付きたくなるような唇だった。もっとも、サヤにその気はない。あったとしても、娘の唇を奪うような人間にだけはなりたくなかった。
一言でいえば、彼女は童顔だった。
背丈は決して低くはない。少なくとも、サヤよりは遥かに長身だといえた。サヤと比べれば大抵の人間が長身になるなどとは、わかっていても考えないのがサヤのサヤたる所以なのかもしれない。
とはいえ、一六〇センチもないだろう。体つきは華奢ではあるものの、出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んでいた。つまり、女性的な凹凸に恵まれており、その点でも少女とは形容しにくいかもしれない。もっとも、彼女を少女と認識するのは間違いではない。むしろ、大人の女性というには無理があった。主に精神的な意味で、だが。
言動が幼いのだ。
良くいえば天真爛漫、悪くいえば傍若無人――要するに子供そのものだった。
彼女は、柄物のシャツにサスペンダーで吊るした短めのパンツという格好で、豊かな胸としなやかな太腿を強調してはいるものの、そこに色気はほとんどなかった。その上から着込んだ革のジャケットさえも子供っぽく見えてしまうのは、彼女の纏う雰囲気のせいなのかもしれない。保護欲を掻き立てる空気といってもいい。
「お母さま……お姉さまがどこにいるのか知っているんでしょ? 隠さなくてもいいんだよ?」
彼女の困ったような、それでいてどこか決然とした表情もまた、非常に愛らしかった。そして彼女は、「お姉さま」とは違い、サヤに対して一歩も怖じることがない。畏れるべき対象とは認識していないのだ。総帥という立場さえわかっていないのかもしれない。サヤが《黒》の総帥だということは知っていたのだとしても、それが一体何を意味するのか把握していないのだ。
それは、いい。
サヤは、むしろ権力の象徴としての総帥でありたくはないのだ。《黒》をまとめる存在でありさえできればいい。《黒》という家族的派閥に属するすべての子供たちを守り、安んじることさえできれば、それだけでいいのだ。もちろん、このフウェイヴェリルを良くしたいとも考えてはいるのだが。
現状、それは極めて難しいことだった。
フウェイヴェリルは、四つの派閥に分たれている。サヤを総帥とする《黒》を筆頭に、《青》、《白》、そして《赤》。フウェイヴェリルの領土において他国と接する最前線を管轄下に置く《赤》こそ、与えられた使命を黙々とこなしているものの、《黒》を始めとする三つの派閥は、権力闘争に明け暮れていると言っても過言ではない。
愚かなことに。
サヤもまた、その愚か者の一人に過ぎない。
サヤは、少女の顔が急変するのを半ば期待しながら、告げた。
「ソラちゃんなら、お仕事でしばらく帰って来られないわよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます