第9話 弱みと強み

 どこか落ち着きのない七海さんを見て、俺は首を傾げる。おかしいとは思っていた。少なくとも、送って行くと言った時の反応を見て、おかしいことには気がついていた。だが、その真意は分からなかった。


『……驚かない? 絶対に、驚かない?』


 この言葉が頭から離れない。どうしてそう言ったのか。どうしてそこまで慎重になるのか。どうして……。そんな言葉ばかりが頭の中で反響してうるさい。鳴り止もうとしないその言葉に俺は無理やりキリをつけて、考えていた最悪のビジョンを押しやった。

 それから約十分。俺の家を過ぎて、もっと先にあるのは河川敷。それ以降は畑が広がっている。もっと遠くに行けば都市部だが、そこまで歩いていく人はそうそういない。つまり、河川敷の近くに家があるということになる。しかし、俺が知っている範囲で話せば、河川敷の近くは豪華な家はない。大きい家も無ければ、普通の家も存在しない。あるのはおんぼろの家。もしくはホームレスたちのテントだけ。

 嫌な予感が鳥肌と一緒に盛り上がってくる。もうわかっているのだろう? と囁いてくる。一歩。また一歩と足を進めるたびに、七海さんの表情も余所余所しくなっていく。

 ふと、足を止めると七海さんは俺の方に振り返った。


「も、もう。ここでいいから。私の家、この近くだから」

「……七海さん――」

「言わないでっ。わかってる。君が、燿くんが言いたいことはわかるけど……でも、言わないで」


 必死の叫び。七海さんが隠したかったのは、このことなのか。本当に、俺が考えていたことなのか。それが知りたくて、もっともっと、七海さんのことを知りたくて、俺はそれ以上突っ込んでは行けないとわかっているのに言葉をかける。


「あと少しなんですよね。じゃあ、ついでに送っていきますよ」

「つ、ついでって、燿くんの家はもうとっくに過ぎたでしょ? それに時間も時間だしさ。もう帰ったほうが――」

「何をそんなに焦ってるんですか。七海さんらしくないですよ?」


 挑発するように、俺はそう言った。どうしても引き返らせようとする七海さんにはどんな言葉が効果的かと考えたとき、この言葉しか浮かばなかった。それで、どんな結末を送ったとしてもいいと、俺は後先考えずにそう言った。

 すると、やはりその言葉は効果的でクリティカルヒットだった。言葉に詰まった七海さんを見て、俺は真面目な表情になる。

 挑発は断れない。でも、断らなくてはいけないという迷い。最強であるがゆえに逃げることを許さない。最強であるがゆえにそんな縛りを持っている。それを見抜いた上で、俺は利用した。

 もちろん、困らせようとは思わなかった。だが、知りたかったのだ。この人が必死に隠していることを、包み隠すことなく知りたかった。好きな人だから尚更その思いは強くて、止めることなんて叶わなかった。


「……笑わない? 馬鹿にしない? 私……私のこと、わかってるんでしょ?」

「知りませんよ。だから、笑わないし馬鹿になんてしません。俺は、あくまで七海さんと仲良くしていたい。そのために、隠し事なんてやめましょうよ。ほら、俺は馬鹿だから。強くもなければ、鈍感ですから。隠し事なんてできなくて、そのくせ隠し事されると嫌な気分になるんですよ」

「面倒な性格だね」

「ははっ。俺もそう思います」


 微かな笑い。完全には打ち解け合えるとは思っていない。それでも、少しだけ距離を縮められればそれでいいと思った。

 馬鹿な男の、ささやかな願いは成就された。諦めさせたというのもあるが、七海さんは歩き出し、そのついで話し始めた。


「私ね。家に親がいないの」

「……その、亡くなったとか、ですか?」

「ううん。両方とも生きているとは思うけどね……ただ、二人共同時に愛人を作って、同時に出て行っちゃった。私と妹たちをおいて……どこかに雲隠れしちゃったんだ」

「複雑……って言えばいいんですかね。なんか、俺には想像もできないことです」

「そうりゃそうだよ。私だって最初は嘘でしょ、すぐに帰ってくるでしょ? って思ったもん。でも、現実はそんなに甘くなかったよ。二人共、本当に出て行っちゃった。私がまだ、中学生の時のことだよ。何もできなかった。仕事なんて、何も。お金の事も、いろいろ考えたんだよ? どうしたらいいのかとか、ね」


 寂しそうに言う七海さんを、正直抱きたかった。この期に及んでエロいことを考えたわけではない。包容をしたかったのだ。寂しそうな七海さんをこれ以上見ていられなかった。でも、俺にはそんな勇気はない。だから、その代わりに俺は一生懸命考えた言葉を口にする。


「七海さんは、頑張っていると思いますよ。過去のことは全くわからないけど、高校の時のことなら少なくとも俺は七海さんのことを知っています。いつでも、見ていましたから。生徒会長の仕事を頑張って、いつも笑顔で、いつだってみんなのことを考えていて……うまく言えないけど、七海さんは頑張っていますよ」


 一生懸命考えた言葉も、馬鹿な俺にはこの程度だ。伝えたいことがあるのに、悲しませたくないのに、それなのに思いが言葉にならない。もどかしい。もっと、俺に語彙力があったら。もっと、思いが表現できる奴だったら。そう考えてしまって、俺は少しだけ頭を落とす。

 それを見て、七海さんは嬉しそうに笑った。その表情に少しの影が差していることもわかっている。どうしたら、その影が消えるのか。必死に考える。下手な言葉でもいい。俺のこの思いを少しだけ、あと少しだけ伝えることが出来れば……っ!


「同情なんていらないよ。それに、会長で頑張るのは当たり前だよ。私はみんなのリーダーなんだから――」

「違うです。その、本当にうまく言えないんですけど。頑張っているんです……違う。そうじゃない。俺が伝えたいのは――」

「いいんだよ。燿くんの言葉は届いたよ」


 そうじゃない。俺は七海さんにそんな言葉を言って欲しいわけじゃない。笑って欲しいんだ。この場において、俺はこの人に笑って欲しいんだ。それにはどうすればいい。このタイミングで言えばいい言葉は何なんだ。馬鹿な俺が伝えたいことは何なんだ。

 悩む。大好きな人が目の前で悲しそうに笑っている。そんな笑顔は必要ないと、自然に笑っていて欲しいのだと、そう思うが言葉が見つからない。こういう時、金鵞ならどうするのか。七海さんのことを女神だ天使だと叫ぶ人たちはどうするのか。


――――もっと、頑張ってください。


 ふと、そんな言葉が浮かんだ。ほかの人間ならきっとこう言うのだろうと思った。そして、俺が言いたかった言葉も、思い浮かんだ。



「――七海さん。そんなに苦しいんなら、やめてしまえばいいじゃないですか」

「え……?」


 浮かんだ言葉をそのまま放つ。驚きの表情を見せる七海さんに、俺はもう一度告げた。


「辛いと思うなら、嫌だと思うなら、やめちゃえばいいじゃないですか。七海さんばかりが苦しむのは、おかしいですよ」

「あ、その、ど、どうして……?」

「七海さんの笑顔。どこか苦しそうなんですよ。まあ、俺も七海さんの笑顔ばかりを見てきたわけじゃないですけど。少なくとも、今朝のココアを飲んでいたときや食堂でプリンを食べていたときの笑顔よりは苦しそうです」

「私の笑顔が、苦しそう?」

「ええ。俺が見たいのは今朝と昼の時の笑顔です。敢えて言うなら、俺が千人の相手をしている時のあの笑顔が見たいんですよ。目を輝かせている、子供のような笑顔が見たいんです」


 わかったのだ。七海さんになんて言えばいいのか。七海さんがなんて言って欲しいのか。

 七海さんは確かに頑張っている。生徒会も、日常も、多分家庭の方も。一生懸命だから、忙しいから、笑顔に苦しさが乗る。辛さが引っかかってしまう。それに対して、これからも頑張ってくださいと言うのも間違ってはいない。むしろ、応援の言葉だ。しかし、『頑張って』という言葉は時に残酷なことである。どれだけ頑張ってもテストの点が上がらない人にもっと頑張ってという言葉は皮肉でしかないし、不治の病にかかった人が一生懸命生きようとしているのに頑張ってと言うのはその人の頑張りを、必死さを否定する言葉に変わる。

 もちろん、全てがそうではない。だがしかし、この場においてはその通りになってしまう。臥雲七海は頑張っている。頑張り続けている。壊れそうになりながら、多分並みの精神では壊れてしまっているような頑張りの中で、ひたすら頑張っている。そんな人に、もっと頑張ってという言葉は凄まじくひどい言いがかりだ。これ以上どう頑張ればいいと悩ませるだけなのだ。

 ならば、やめてしまえと言ってやったほうがいいと、俺は思った。それがいいのか悪いのか、それは俺が決めることではない。目の前の、臥雲七海が決めることだ。


「七海さんは、もう頑張らなくてもいいんですよ。少しは休みましょう? 俺は、七海さんが少し休憩するのに反対なんてしませんよ」

「あ、はは……。燿くん、さ。馬鹿みたいって、よく言われない?」

「いいえ? お前は馬鹿だとはよく言われますけど、馬鹿みたいとは言われませんね」

「ふ、ふふっ……そうだね。燿くんは馬鹿だよ。正真正銘の馬鹿。頑張らなくてもいいなんて、普通言わないよ。あはは……ホント、馬鹿だよ。でも――――」


――――ありがとね――――


 トンと、七海さんの頭が俺の胸に当たった。顔を隠すためにそうしたようだが、声でどういう表情をしているのかなど、すぐにわかってしまう。それでも、俺はわからないフリをして、青黒くなった空を見上げた。フゥっと息を吐くと、白くなった息がその青黒くなった空を若干薄めてくれて、心が安堵する。

 夜になりホームレスたちが活動を始める。その音で、七海さんの音は消えた。それがどれだけ心の平穏を与えてくれただろう。

 やがて、七海さんが俺の胸から頭を上げる。目は少し赤く腫れているが、気にせずにいられた。なぜなら、七海さんの笑顔が、俺の大好きな笑顔になっていたから。


「さっ、最初の予定通り、燿くんに家まで送ってもらうことにするよ」

「ええ、もちろん送っていきますよ。で、家はどこなんですか?」

「こっちだよ、早くおいでよ」


 俺がぼやぼやしていると七海さんは俺の手を握って引っ張ってくる。それに動揺しながらも転ばないように俺は走る。

 暗くなった河川敷で、俺と七海さんの影だけがくっきりと映し出され、絶対に消えることなく目的の場所まで走っていった。

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