第3話 弟子と師匠

 いつもの朝。髪の毛には寝癖がついているし、寝ぼけた顔はどこか馬鹿らしい。三年ほど着続けた寝巻きはヨレヨレになり、ボケっとしている俺にふさわしいといえよう。

 そんな、どこにでもある普通の朝。別段何が起こる予兆もなく、何かが起こった形跡もない。つまらない朝。そんな朝が変わるのに、不可欠なものは何か。それはハプニングである。


 しかしながら、そんなハプニングがそうそう起こるかといえばそうではなく、滅多に怒らないからハプニングという訳で、それでもなおそれを求めるというのは、きっとバカがすることだろう。

 そういうことなら、望まないハプニングが起こるのは一体どういう状態のことだろう。馬鹿な俺から言わせれば、それは必然的にトラブルという名前に変わる。そして、トラブルというのは時に残酷なものなのである……。


 俺の家にはいつも誰もいない。母親は朝から仕事で俺より早く家を出るし、親父は稽古だなんだと言って、母親より早く家を出る。兄弟はいないので、俺は毎朝決まってひとりである。そのことに文句はない。むしろ何も言われなくて清々しいくらいだが、たまに、本当にたまにだけれど居てくれと思う事がある。それは決まって面倒な時で、親に擦り付けたくなるようなトラブルで、引き受けたくないハプニングである。

 朝早く、と言っても七時を回っているが、それでも早いといえば早いかも知れない時間帯。俺は一人の訪問者を前にして固まっていた。


「やっほー」


 そう、軽々しく挨拶をするのは悪友、南雲金鵞……ではない。性別から違う。現実逃避を強制的にやめさせられて、俺の目の前には俺が通う吽雀高校の校内最強と呼ばれ、『一姫当千』という異名を持つまさに有名人の臥雲七海生徒会長がいるということを再認識させられた。

 生徒会長は大きめのマフラーに白いコート、ピンクの手袋をつけて、ほのかに赤くなった表情でニコッと笑って立っていた。

 ここで勘違いしないで欲しいが、俺は生徒会長と仲がいいわけではない。むしろ、ついこないだ宣戦布告じみた言葉をかけられたくらいに仲はよくないと自負している。そして、なにより、俺の家の場所を教えたことは絶対にない。

 ゆえに、なぜ生徒会長がここにいるのかが疑問で仕方ない。

 俺が引きつった表情をしていると、会長はここに来た理由を話すために美しい口を開く。


「えっとね。お迎えに来たんだよ?」

「あっ、そっすか。いやー、すみませんね。お迎えなんて……とでも言うと思いますか?」

「たはは、流石に無茶が過ぎたかな? でもでも、君に会いに来たことは確かだよ?」


 ええそうでしょう。そうでしょうとも。なぜなら、ここは俺の家だ。俺以外にあの高校に通っている人はいない。もっと言うなら、この地区に俺以外にあの高校に通っている人はいない。だから、確実に俺に会いに来たことはわかっている。

 でも。でもだ。どうしてこの人が俺に? もっと詳しく言えば校内最強様が、どうして校内最弱の家に?

 俺は寝起きで回らない頭――馬鹿だから普段から回っているか定かではないが――で必死にこの疑問を解決しようとするが、校内最強の脳内細胞は素晴らしい出来なのだろう、馬鹿な俺ではちっともわからない。

 なので、率直に聞いてみることにした。


「あ、あの。どうして俺の家に?」

「まあまあ、それは君がご飯を食べながらでもいいじゃん? 私、少し冷えちゃったみたいだから上がらせて?」

「お断りします」

「え!? ちょ、ちょっと! 本当に寒いんだってば!」


 それはわかっている。会長の家がどこにあるのかは知らないが、少なくとも三十分以上は二月上旬の肌寒い中を歩いてきたに違いない。寒いのは重々承知しているが、そればかりは許容できなかった。

 それもこれも、会長の昨日の言葉が原因で、それに加えて会長が美しいということも相余って、俺は会長の訪問を拒絶した。

 流石に会長もムキになったのか、俺に拳を突き出してきた。俺はそれが本気でないと分かっていたので軽く避けたが、会長はそれを見てさらにムキになる。次々と繰り広げられる玄関での死闘。これで負けたところで会長を上がらせるだけだからいいのだが、それでも負けてやることはできなかった。

 しばらくして、会長が白い息を濃くした頃、俺は時間の関係上、これ以上は無駄にできないと考えて、会長を上がらせることにした。


「へぇ。ここが君の家かー」


 まじまじとつまらない家を眺める会長に、俺はソファーを譲ってココアを家にキッチンに向かう。同時に、朝食も取らねばならないが、時計を見ると絶望的な時間帯。料理を作っている暇などなかった。ゆえに、俺はなけ無しのお金を使って昼を過ごさねばならないだろうと思い知らされた。

 全ては会長のせいだが、それでも朝から激しいおっぱいの揺れを見せてくれた会長には少しだけありがたみを感じる。そんなことを考えていると、ココアを入れるためのお湯が沸いていた。

 淹れたてのココアを片手に、俺は会長のそばに向かう。


「これどうぞ」

「あ、ココアだぁ」


 嬉しそうにココアを飲む会長を見て、ああ、可愛いと思ってしまった俺は負けだろうか? ま、まあ、こんな美しい少女が目の前にいるのに手を出さない俺なのだ、それくらいは許してくれ。

 さて、と俺は会長に質問をし始めた。


「会長はどうして俺の家に? その前に、誰に俺の家の場所を聞いたんですか?」

「ん? ああ、この場所は先生から聞いたの。私が笑顔で聞いたら男の先生、みんなして教えてくるんだもん、びっくりしちゃったよ」


 おい、教師たち。気を引こうとして俺の住所を使うのやめてくれません? 自己の尊重だっけ? プライバシーだっけ? そういうの守ろうぜ?

 

「それと、君に会いに来た理由だね。えっと、君を弟子にしようと思って――」

「は? ちょっと待ってくれ。弟子って……弟子ってことか?」

「え? うん。そうだけど?」


 いやいやいや。待てよ。弟子って、校則で言うところの弟子か? それだとすると、少しまずい気がするんだけど……。

 

 弟子、というのは吽雀高校の校則で設定されている列記としたシステムである。内容は、自分より強いものに弟子入りして、師匠と共にランキングで順位を上げていくというシステムだが、その実、成功例は少ない。弟子が師匠より強くなってしまったり、師匠の修行についていけず弟子をやめてしまう者もいたそうだ。そういうこともあって、師弟関係になるにはそれなりの力を持っている同士でなければならないとされている。


 そして今、目の前の校内最強様はその師弟システムを使おうとしているのだ。この俺を弟子として入門させ、その上でどうするつもりなのか。

 BUTしかし。よもや会長は忘れてはいまいか、俺が一体どういう存在なのかを。俺という人間は校内最弱で、しかも避ける以外に何もできないクズであるということを。

 俺が困惑していると、会長は何かを諳んじ始めた。


「校内ランキング代一万二千五百九十七位で実質の最下位。ほかの人たちからは校内最弱と呼ばれ、誰でも勝てると新入生の当て馬にも抜擢されたほどの最弱っぷり。勉学もできず、最高点は数学の四十点。進級も危うく、教師には諦められている。父親は世界でも屈指の武闘家で、母親は銀行に勤務。一家の恥さらしと昔、幼馴染に笑われながら言われたことが有り、頑張ったこともあるがやはり勉学は上がらなかった。武術の経験はなく、習得武術はなし。避けるのはうまいと言われたことがあるが、強いと言われたことは皆無。彼女ない歴=年齢で彼女が欲しいと悪友の南雲金鵞に呟いたところ、バカには彼女はできないらしいぞ~と言われて本気の喧嘩をするほどの思春期。女子の胸を見て、頷いていたところをほぼ全ての女子に見られている。だっけ? すごいね君」

「……その情報は一体どこから?」

「うーん。紗智さちに頼んだらその手の情報屋にツテで教えてもらったみたいだよ? 確か、名前は金鵞くんだったかな? あれ? 金鵞くんって――」


 よし、とりあえず今日あったら一発殴っておこう。

 俺は悪友の名に恥じない所業をする金鵞に恨みの言葉を発しつつ、会長の諳んじた全てが本当のことであることに少しだけ赤面した。

 ちなみに、紗智というのは校内ランキング第二位のメガネをしていて、控えめでありながら将来が楽しみなおっぱいをもつ我が校の副会長、神原紗智かんばら さちのことだ。

 なお、会長はこれでわかっただろうという笑顔で俺を見ていた。


「ホント、何しにきたんすか」

「え? ああ、うん。だから言ったでしょ? 君を弟子にしようと思ったの」

「ちょっと待ってくださいよ。今、自分でそらんじてたでしょ? 俺は変態でバカってことですよ? そんな俺を弟子になんてしたら会長の名目に問題が――」

「そんなの関係ないよ。私の面目を傷つけられるのは私より強い人だけ。そして、私より強いのはあの高校には存在しない。ほら、私の名目も面目も守られたでしょ?」

「いやいやいや。そういう問題じゃないでしょ!? そもそも、最弱って呼ばれてる俺をなんで弟子にしようと思うんですか!」

「だって、本当は君、強いもん」

「……は?」


 会長の言葉を理解するのに、大分時間を使わないと行けなかったが、随分と考えた今でも会長の言葉を完全に理解できていなかった。


――――本当は君、強いもん。


 この言葉は最弱の俺にはふさわしくない。身震いと鳥肌を立たせる言葉だ。

 避けることにしか能がなく、相手に攻撃をすることができず、勉強もできない俺が、本当は強い? どんな勘違い、どんな言葉責めだ?

 しかし、会長の表情は真面目の一点張り。言っている言葉に訂正などなく、また、ここに来たこともそれだという主張に俺は滅入った。


「あのですね。本当に強かったら俺は最弱なんて呼ばれませんよ……」

「そんなことないよ。君は強い。だって、私の技を避けられたんだから。自覚はないと思うけど、君は私の最大の攻撃を避けてみせたんだよ?」


 そう言って、会長は身を乗り出す。ちゃぷっとココアを入れたコップから音が鳴り、俺の目の前で会長のおっぱいがボインと大いに揺れた。

 乗り出した反動で会長の顔が近くなる。それに敏感に反応してしまった俺は瞬間的に一歩下がる。だが、会長は下がった俺に再び近づいてくる。そして、真剣な眼差しで俺を見つめ、こう言った。


「こないだの闘いで私が最後に放ったのは私が編み出した技で確実に相手で倒す禁じ手。相手を殺めてしまうかもしれないから使わないと決めていたのに、ムキにあった私はつい君に使っちゃった。でも、それを君は避けた。しかも、余裕をもって」

「い、いや。避けられてなかったでしょ。だって、腕掴まれたし……」

「あれは技を避けられたから切り替えたの。それでも禁じ手を使ったことに変わりないし、それを避けられたことにも変わりない。だから試合は止められたし、私もそれを容認した。君は、私に本気を出させて、その上でそれに打ち勝ったんだよ」


 違う。そもそも、あれが本気だとすれば、この人はそれほど強いとは言えない。どう見てもこの人が禁じ手と言った技はモーションが大きく、避けやすかった。だから俺でも避けられたし、きっとほかの誰かでも避けられたと思う。

 したがって、俺は強くない。と言いたいが、会長のこの眼差しを見る限り、それを言わせてはくれないだろうな。

 俺は椅子に座って、会長から視線を逸らした。


「俺は……そんな大した人じゃないっすよ。ホントに、弱くて……」

「確かに、君の攻撃を見た人はいない。ううん。君はきっと、攻撃ができないだと思う。勉強もできないし、彼女が欲しいって嘆いているような変な人だけど――」


 最後の必要だったのかな?


「君は強い。私が……吽雀高校最強の『一姫当千』が全てを賭けてそう言ってあげる。君は、強い。もっともっと強くなれる。だから、私の弟子になってみない?」


 その言葉に皮肉は感じられない。大袈裟な気もするが、会長が言うのならと考えてしまう。きっと、こんな出会いはありえないのだろう。きっと、こんな人は地球上どこを探しても見つからないだろう。きっと、これが俺に与えられたチャンスなのだろう。


 吽雀高校最弱が、吽雀高校最強の弟子になる。どこまで行けるかわからない。どこまで強くなれるのかわからない。それでも、この人となら、もしかしたら――。

 そんな、希望的観測も、神にすがるような願いも、この人の前では本当のことになりそうで。俺は会長の手をとった。

 会長はそれを容認と見たのか、とった手を引っ張り俺に抱きついてくる。


「ははっ。これで私のライバルが作れそうだよ!」

「へ?」

「ううん! なんでもない! さっ、学校行こ? もう遅刻だよ?」


 時計を見ると、八時半を回っている。どうやら相当話し込んでいたらしい。せめて、もう遅刻だよではなく、もう少しで遅刻だよと言って欲しかった。

 俺はすぐに着替えを済ませ、玄関で待っている会長の元にジタバタと走っていく。そして、玄関を出た俺に、会長が一言。


「今日からよろしくね。あと、ココア、美味しかったよ」

「……こちらこそ。それと、そりゃどうも」


 どこまでも広がる青空の下、時間に追われる俺と時間を無視する会長はそんなどこにでもありそうな会話をした。

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