第1話 コマンドキャンセラー

 日直の仕事を終えたあたしは部室へと向かっていた。

 この時間、通り道である渡り廊下には誰もいない。

 まあ、以前ここで襲撃されたんだけどね。

 お兄ちゃんの張り巡らしたセンサーと、人数の増えたサブマスターのおかげで、今では不意打ちの心配はほとんどない。

 ……などと思っていたら。

「誰?」

 あたしの呼びかけに対し、返事がない。

 ここからだと、男子生徒の足だけが見えている。

 渡り廊下だから当然だけど、上靴だ。靴底が見えてて、爪先が上を向いている。それってつまり、寝てるってこと?

 あの上靴の色は、高等部の一年生だ。

 太もものざわつきは感じない。慎重に身構え、近寄ってみる。


【潤美。今いい?】

 お兄ちゃん。いいけど、人が寝てるか倒れてるっぽくて。接近中。

【その場で待ってて。敦が向かってるから合流するまで接近禁止】

 なんで? 危険はないと思うんだけどな。

【サイトウの例もある。油断禁物だよ】

 過保護だなあ。


 唇をとがらせたようなふりをしつつも、頬が緩む。こうして他人に聞かれる心配のない会話でさえ、しっかりお兄ちゃんを演じてくれることが嬉しいのだ。あたしは素直に足を止めた。

 サイトウとお兄ちゃんたちは同じクラスだ。しかし、サブマスターである敦先輩も美沙姉も、彼から気配を感じることはないという。

 敦先輩を待つ間、少し情報を整理しておこうと思う。


「この身に触れたところで何も起こらないよ」

 クラスで顔を合わせた途端、サイトウはお兄ちゃんにそう告げたそうだ。

 『ケージ』という技術。それにより、サイトウは自らに取り憑いたはずのワームを逆に制御していると主張する。

「今はそれ以上のことは教えない。ただ、俺に何らかの不利益が生じた場合、いつでも『ケージ』を解除する用意がある。自由を得たワームがどんな行動に出るか、それは俺にも予測がつかない。どうなっても構わないというのなら、俺を拘束するなり拷問するなりしてみるといい」

 悔しいけれども、今のところサイトウに構ってはいられないというのがお兄ちゃんの判断だ。あたしとしても同意するしかなかった。


 そこで、敦先輩と美沙姉は隣のクラスのワームキャリアたち二人を先に処理しようと動いたのだけれども。

 その二人とは、あの日プールにいた高等部一年三組の生徒。原先輩と蘭堂先輩だ。


 まず、原しょう

 太めの体つきだが筋肉質ではなく、髪を長めに伸ばしている少年だ。スポーツマンではなさそう。朝北学園では全ての運動部が例外なく長髪を禁止しているから。

 もちろん、根拠としては弱い。校内の運動部に所属せず、校外のスポーツチームに所属する生徒も一定数存在する。

 ただし、原先輩についてはすでに敦先輩によりマーキング済みだ。彼はどこのスポーツチームにも所属していない。


 次に、蘭堂らんどうはるか。

 ややぽっちゃり体型の少女だ。もともと吊り目がちな上、常に眉間に力を込めたような表情をしているせいか、他人を寄せ付けない雰囲気を身に纏っている。

 彼女も校内の部活に入らず、校外でもどこにも所属していない。美沙姉によりマーキング済みなので、こちらも裏がとれている。


 事実かどうかはともかく、原先輩と蘭堂先輩は恋人同士だというのが周囲の認識だ。二人ともお互いに他の人とは言葉も交わさないらしい。

 他のクラスメイトが必要に迫られて話しかければ、返事くらいはするという原先輩に対し、蘭堂先輩ときたら首を縦か横に振るだけで専ら沈黙を返すという徹底ぶりだというのだ。

 今回、美沙姉たちが話を聞けた範囲からの情報によると、誰一人として彼らの笑顔を見た者はいなかったとのことだ。

 それだけ聞くと、クラス内では二人だけの空間が出来上がっているのではないかと思う。男女別となる体育の授業では孤立状態ではなかろうか。

 美沙姉と敦先輩は四組だ。体育の授業は三組と合同なので、今回は楽な仕事になると思われた。しかし。

「近づけないのよ、これが」

「うん。言葉を交わしたこともないはずのクラスメイトたちが、常に二人をさりげなくガードしてるんだ」

 洗脳、かな。

 以前あたしのクラス、中等部一年四組では、岡くんにワームが取り憑いていた。その能力により、クラスメイトたちの様子がおかしくなっていたのだ。

「人の精神を操るなんて最低だよ。菜摘と加奈にも協力してもらって数で押し切ろうか」

「いや、それは得策とは言えないかも」

「敦先輩っ」

 恥ずかしっ。声に出しちゃってた。聞かれたのが敦先輩でよかったけど。

「えっと、得策じゃないって、なんで?」

「僕らバスターが、原くんや蘭堂さんに迂闊に触ると、高等部一年三組の誰かが貧血で倒れちゃうんだ。ワームキャリア本人たちは平気なままで、ね」

「え?」

 ちょっと何言ってるかわかんないっす。

「ほら。そこに倒れているあずまくんで二人目。偶然とは思えないから、これ以上試すのは躊躇われる」

【センサーをフルに使って調査したよ。今回、一年三組の全員をマークしている。感知できた信号が微弱だけど、倒れたタイミングといい、多分間違いない】

 お兄ちゃん。ふざけているわけじゃないみたいね。

「アル兄は『コマンドキャンセラー』って仮称をつけてたけどね」

 あたしたち兄弟はふたりとも『ますみ』なので、仲間たちはお兄ちゃんのことを『アル兄』と呼ぶことにしたようだ。

「キャンセルするっていうより、本来ワームキャリアが受けるはずだったバスターコマンドによるダメージを、スレイブの誰かに肩代わりさせる技術みたい」

「なにそれ。卑怯」

「そうだね。それでスレイブへのダメージなんだけど。ただ失神するだけで大したことなければいいけれど――」

 その言葉に、あたしは両目を限界まで見開いた。

「どういうこと?」

「いや、倒れた二人についてはアル兄が即座にチェックしてくれてる。大したことないよ。ただ、今後三人目、四人目の『被害者』が出たとき、倒れた拍子に頭を強く打って二次被害が出ないとも限らない」

「ああ、そういうことね」

 でも、それを今考えていても仕方ない。

「じゃ、東先輩を二人で保健室に連れて行きましょうか。で、部活行きましょ」

「ん。そうだね」

 二人がかりで運ぶつもりだったあたしを制して、敦先輩は東先輩をひょいっと背負っちゃった。細身なのに力持ちだな。結局、あたしがした仕事といえば、保健室のドアをノックして扉を開けるくらいだった。

 部活で怪我をする生徒もいるので、保健の先生は割と下校時間ぎりぎりまで残ってくださっているのだ。東先輩をベッドに寝かせるのも、敦先輩と保健の先生とでやってしまった。あたし、見てただけ。

 それにしても、サイトウだけでなく原先輩と蘭堂先輩も厄介な相手だったとは。その日の部活、残念ながらあまり身が入らなかった。

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