第14話 抜けないトゲ
「それじゃ、倍巳。行ってくるね。せっかく潤美ちゃんが目を覚まして、こんなに可愛くなってるんだから。あなたも早く起きなきゃだめだぞ」
優しく話しかける美沙姉を見守りながら、僕はどんな顔をすればいいのかわからずにいる。
「待ってるから。あなたがのんびりやさんなのは知ってるけどね」
「……」
そ、そうかな。
「あんまりのんびりすぎるから、洋介に返事しちゃったのよ。待たせてばかりではダメなんだぞ」
「————っ」
すんでのところで声を飲みこんだ。今のは何? なんなの?
すれ違いざま、扉のそばにいた僕の頭を優しく撫でて囁く。
「お兄ちゃんには内緒よ」
「み——」
頭から離れる手を掴もうと腕を伸ばしかけたが、結局何にも触れることなく力なく垂らす。
この腕は偽物だ。
ベッドの上にこそ本物の僕が在る。肉の身を持つこの身体は虚像。どこにも存在しないものだ。
手を伸ばせば届く距離にいる美沙。僕にとって憧れの女の子。その気持ち、どうやらお見通しだったようだ。しかし、彼女の心に触れる手段はすでにない。
言うべきときに言わなかった。待ってくれていたというのに。
ベッド脇に膝をつくと、溜息混じりに言い捨てた。
「お兄ちゃんの意気地なし」
うん。自分で言っておきながら刺さったよ。
このトゲは、きっと一生抜けることはない。
ドアに「潤美」と書かれた札をぶら下げてある僕の部屋。一つ深呼吸。
今の僕は潤美。よし、気持ちを切り替えた。
「美沙姉、開けるよ」
先に戻っていた美沙姉はすでに着替えを済ませていた。白いミニワンピの上に丈の長い春物カーディガンを羽織っている。
「わ、可愛い」
「そう? ありがと」
昨日へろへろになっていた僕は気付かなかったけれど、どうやら美沙姉もしっかりと自分の買い物もしていたようだ。
僕は長袖の紺色カットソーを選び、ホットパンツを穿いた。僕が持っているスカートは、どれもこれも制服と比べて随分短いものばかり。それを穿いて人混みの中を歩くにはまだ勇気が足りない。
「ビキニデビューしようって娘が何を躊躇しているんだか」
「僕の下着なんて見苦しいだけでしょ。ハプニングとかで見えちゃったらごめんなさい、だよ」
なんといっても中身男なんだし。
「そういうところはお兄ちゃんと似てるわね。あなたたち兄妹は自己評価が低すぎる。次にあたしと出かけるときはミニスカート。決定よ。なんといっても、おばさまと一緒にじっくりと選んだんですからね」
「あうぅ」
心の準備をもらえただけでも感謝しなければならないのだろうか。
居間に下りたが両親の姿がない。
「母さん、準備できたよー」
「はあい。車の鍵は開いてるから二人で先に乗ってて。すぐに行くわ」
素足にミュールを履いていると、母さんの呟きが耳に届いた。この聞こえ方、アルガーによる集音だ。
「ごめんね。なんでもできる倍巳くんに甘えて、大切な時期に放ったらかしにして。今は、少し休んでいるだけなのよね。満足するまで休んでていいのよ。でも、あんまりゆっくりだと潤美が寂しがると思う」
「倍巳。お前の妹、俺に稽古をつけてくれと言ってきたんだぞ。多分、俺が寂しがっていると思って気遣ってくれたんだろう。早く起きて来ないと、お前より強い妹にしてしまうぞ」
「ほどほどにお願いしますね、あなた」
父さん、まだ道場に行ってなかったのか。
「母さん、倍巳くんに遠慮しすぎていたわね。こうして話せなくなって、ようやく気付くなんて母親失格だわ。だから……、できたら早めに目を覚ましてくれると嬉しいな」
車に乗り込むと、美沙姉が僕の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 具合が悪いなら——」
視線を合わせず、彼女の胸に顔をうずめた。
「美沙姉。理由は聞かないで、ちょっとだけこうしてて」
視界がぼやける。でも堪える。大丈夫、僕は男だから。
「うふ。甘えん坊さん。倍巳——お兄ちゃん、きっとすぐに目を覚ますわよ」
美沙姉なりに何かを感じ取ったらしい。僕の感情にかなり近い部分を言い当てられ、少しだけドキッとした。
美沙姉に頭を撫でてもらいながら、菜摘と加奈の顔を思い浮かべる。こうして僕を支え、居場所を作ってくれる人たちがいる。倍巳もだけど、
そんな人たちのために、僕は何ができるだろう。
僕を女の子らしく着飾ることで、母さんと美沙姉は喜んでくれた。その笑顔に触れることで、僕自身幸せな気分に浸っていたのも事実だ。
今の僕は、潤美としてみんなと笑顔を、幸せな気分を分かち合うことができる。なら、それを少しでも多く振りまきたい。
そうしたら次は倍巳としても、みんなと笑い合いたい。
必ず倍巳に戻ろう。そのためにミッションコンプリートを目指す。だけど、もう焦らない。
いつか戻る。でもそれまでの間は——
「女の子になる。少しずつだけど」
「そうね。誰かのためじゃなくて、潤美ちゃん自身のためにそうしましょう。いくらでも協力するわよ」
まずは言葉遣いから、かな。できる範囲で。
抜けないトゲは失恋の象徴——いや、違う。
初恋を自覚しつつ、それを始めようとさえしなかった後悔の記憶だ。
その痛みに苛まれるたび、僕——あたしは歯を食いしばって先に進む力へと変えるのだ。
* * * * *
「着いたわよ。帰りも迎えに来るからメールちょうだいね」
そう言い残して走り去る母さんの車を見送ると、改めて目的地に聳える巨大建造物を仰ぎ見た。
「ほえー」
「あはは、何よそれ」
「だって温水プールって言うから。てっきり、ちょっと寂れたスポーツ施設かと思ってたの」
案に相違して、目の前に広がるこの施設、国内で五本の指に入る規模のスパリゾートなのだ。温泉や遊園地も併設されており、名をギガスパーという。当然ながら、入場料はそれなりの値段である。
ちなみに夏になると施設内あらゆる場所を水着のままで利用できるようになるが、今の時期は室内プール部分だけに限られる。
「まさかとは思うけどさ。定期的に通うとか言ってたけど、毎回ここを使うってわけではないわよね?」
「潤美ちゃん、何か吹っ切れたみたいね」
美沙姉はすぐには質問に答えず、あたしの頭を撫でてきた。
「おばさまがね。年間パスポートを買ってくださったのよ。だから楽しみましょ」
マジか。
「あ、洋介からメール。今、哉太と合流したって」
そういえば、佐美名先輩と哉太っていつの間に——あ、クラスメイトだった。
「そうだ、美沙姉。あたし、佐美名さんのこと何て呼べばいい?」
「んー。洋介兄?」
「ごめん無理。佐美名先輩って呼ぶわ」
「あら残念。でもきっと本人から要望が出ると思う。そのときは、もしよかったら聞いてあげてね」
「うー。前向きに検討します」
更衣室はそこそこ混雑していた。ただ、夏ではないためか親子連れは少ない。どちらかというと水泳そのものを目的とした客層という感じだろうか。
「美沙姉、後ろ、ズレてない?」
「んーん、上手にできてるよ。うん、やっぱり似合うね、水色の三角ビキニ。あたしの目に狂いはなかった」
「まだちょっと慣れないっていうか。気をつけていないと猫背になっちゃいそう。美沙姉は堂々としててかっこいいね」
ピンクのリボンタイプビキニは美沙姉のキュートな部分を余すところなく引き立てている。
「ふふ、パーフェクトボディの潤美ちゃんに褒められると自信が倍増するわ」
自分ではとてもそうは思えないんだけど、ひょっとしてあたしの体型って世の女の子視点で見たらパーフェクトなのかしら。……なんてね。まだまだだと思う。
「さて、行きましょ。男の人って着替えるの早いから、そんなに待たなくてもよさそうだし」
首を縦に振ってから、気になっていたことを告げる。
「ところでビキニってさ」
小首を傾げる美沙姉。
「泳ぐための水着じゃないわよね」
「バレたか」
知ってた。
舌を出す美沙姉と笑い合いながら、あたしたちは洗浄用の水槽をくぐってプールサイドに足を踏み入れた。
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