第13話 裸のつきあい
母さんの運転する自家用車が、御簾又家に到着した。
来栖家ではご夫婦が揃ってお出かけとのことで、今夜は美沙は家に帰っても一人なのだ。そこで母さんはすぐに来栖さんに連絡を入れ、美沙を一晩預かることにしたのである。
一旦来栖家に寄ったので、美沙の手にはお泊まりセットの鞄があった。
「お邪魔します。すみません、突然。一晩お世話になります」
「いらっしゃい、美沙ちゃん。こちらこそ潤美が世話になったね。さあどうぞ、あがってあがって」
人の気も知らずにこの親父はもう。ああ、たっぷり世話になったよ。新しい扉が開きかねない方向で、ね。
あ、すごい。
靴の脱ぎ方もきれいだ。父さんに尻を向けず、膝をついて靴を揃えて……。そういう作法もきちんとしてるんだなあ。
「あのさ、美沙姉」
「なあに?」
髪から漂うシャンプーの香り。耳元で揺れるイヤリングの輝き。
「……」
束の間、言うべきことを忘れた。見とれてしまったのだ。
彼女は、そんな僕を急かすことなく小首を傾げ、笑顔を向けてくれる。ああ、やっぱり美沙の仕草は可愛いなあ。
そういえば……。僕が最初に「異性」を意識したのは美沙だったな。
小学生になってからも低学年のうちは男も女もなかった。哉太と三人、仲の良い幼馴染みだったんだ。
いつ頃からだろう。僕と哉太が遊ぶ横で、彼女は雑誌を読み耽ることが多くなった。髪型や服にこだわるようになったのだ。幼い頃、喜んで身につけていた玩具のようなアクセサリーは、やがて少しずつ洗練されたデザインのものへと置き換えられていった。
女の子。その単語を、まるで美沙の代名詞のように感じていた時期があった。
そしてその時にはもう、ふとした動作や言葉遣いも僕らとは違うものとなっていた。
あ、しまった。沈黙が少し長かった。
先に話しかけられてしまったよ。
「イヤリング気になるの? よかったら付けてみる? 安物だけど」
「あ、いやいやそうじゃなくて。美沙姉には似合ってるな、とは思ったけどね。安物だとは思えないよ」
というか、アクセサリーを見る目なんてないんだけどさ。
僕が言いたいのはアクセサリーのことではない。
「中学生にもなって、自分のことを僕と言うのは、おかしいかな?」
「え? あたしは全然そんなこと思わない。むしろ、潤美ちゃんには合っていて可愛いわよ」
「そっか。……ならいいんだけど」
言葉が足りない。きっと美沙には伝わっていない。でも正確に伝えるためには、こちらの事情を隠したままでは難しい。だから言えない。
「あと、話し方とかさ。僕、美沙姉の言葉遣い、とても好きなんだ。でも、真似しようと思うと……。どうしても恥ずかしくて、さ」
美沙は目を細め、口許を緩めて僕に近付くと、頭を撫でてくれた。
なんてことだ。菜摘のせいだ。最近、頭撫でられることが心地良いって思い始めている。あ、不意打ちで胸を揉まれるのは嫌だよ。覚えてろ加奈。
「ふふ。一緒にお風呂入ろっか。そこで語り合おう」
「……うん」
どうかしていた。半ば自動的に返事をした後、脱衣所に歩いて行く間なにを話していたのか、あるいは話していなかったのか。まるで覚えていない。
——なにしてんの僕。なんで美沙と一緒に服脱いでんの。
多少は慌てたものの、パニックと言うにはほど遠い。
そりゃそうだ。今日はさんざん着せ替え人形にされた上、明日は一緒にビキニを着るのだ。温水プールの更衣室が個室だなんてあり得ないだろう。
何を今更、という話だ。最早この程度のことで慌てても仕方がない。女は度胸。……なんか違うけど。
「いやーん。潤美ちゃんマジ天使。なんて綺麗な体なのっ」
「美沙姉、姿見見たことある? その言葉そっくりそのまま返すよ」
相似形とまでは言わないけれど、僕と美沙の身体つきはそう大きく変わらない。五センチかそこら美沙の方が高いくらい。大きく違うのは髪だ。
髪をほどくと、僕の黒髪は肩胛骨にようやく届く程度。一方、美沙の茶髪は背の半ばを軽く超え、もう少しで腰に届くほどだ。
「僕も、そのくらいまで伸ばしたいな」
うわ、いま何を口走ったんだこの口は。いったい何か月かかると思ってるんだ。正気か、僕。
「あたしはやっぱり、その艶やかな黒髪が羨ましいわ。黒く染めたい気もするけど、長いとやっぱり手間なのよね。乾かすのも時間がかかるし」
互いの髪を丁寧に洗い、背中を流し合った。
「あら。長いこと寝たきりだったとは思えないわ。髪といい背中といい、とても丁寧に洗ってくれて嬉しい」
しばらくは当たり障りのない話題ばかりを適当に交わす。
「言葉遣いの話だったわね。もしかして哉太に何か言われたの?」
「何故その名前が出てくるか謎だけど、言われてから気にし始めたのは確かだよ。……言ったのは父さんだけどね」
湯船は向かい合わせに入れば、同時に浸かっても互いに脚を伸ばすことができる。
「ふう、気持ちいい。……じーっ」
「な、なに」
もう完全に開き直ったつもりだったのに、注目されると落ち着かない。思わず腕で胸を隠してしまう。
「三つも下なのにそのサイズ。潤美ちゃんがあたしの歳になる頃にはきっとFカップね」
「ええっ。僕もうこれ以上の大きさなんていらないよっ」
「うわぁ。女性の大半を敵に回す台詞よ、それ」
そんなことない、と思う。だって、倍巳のときは巨乳よりもちっちゃい方が……だめだ、今はそのことは忘れよう。
「ああ、やっぱり潤美ちゃんの脚長いわぁ。腰の位置が違うもん。太腿じゃなくて細腿よね。あたしお尻大きい分太腿が太くて嫌になっちゃう」
女の子のコンプレックスって男よりも種類が多くて根も深そうだな。
「だけど、丸みがなくて色気がないって言う男もいるよ」
主に女体化前の僕だけどね。こうして見ると、やっぱりこの身体って「なりたい自分」ではなく「なっちゃった自分」なんだよな。そりゃまあ、肉体年齢の割に均整の取れた肢体だとは思うけれども。
「まさか、潤美ちゃんに面と向かって言ったの!? 誰よそれ、この美沙姉が成敗してやる!」
やばい。僕、倍巳に戻れない! ……戻るけど。
「違う違う、テレビの話だよ。言われたのも僕じゃないし」
「なあんだ、毒舌芸能人か」
「真面目な話、美意識に正解なんてないんだからさ。無理なダイエットして怪我や病気に悩むよりも、健康でいることの方が何万倍も幸せなんじゃないかなって。そう思うんだ」
「潤美ちゃん、時々年下と思えなくなるのよね」
うあ、しまった語りすぎたか。
「でも、良いこと言ったわね。言葉遣いも一緒よ。将来、会社勤めするとか、そうでなくても人前でお仕事する時になったらきちんと敬語が使えないと苦労するけれども、普段使う言葉には正解なんてないもの。猫かぶって不自然な話し方をするより、自然な話し方をした方が……」
そこで言葉を切ると、美沙は天井を見つめて少し思案に耽った。やがて考えをまとめたようで、僕を真っ直ぐに見つめて続きを言った。
「ありのままの自分をさらけ出しても、それを受け入れてくれる相手と一緒にいられるのなら、お互いに楽しい時間を共有できるんじゃないかしら」
「そう……か。そういうものなのかな」
これ、経験談かな。彼氏のいる女の子の意見は参考になるなあ。
「うふふ。まあ、一緒にいたい相手にもよるわよね」
な、なんだよ美沙。そのウインクの意味は。
「あと、シチュエーション? ちょっとかしこまった場所で食事したい、とか。相手に何かしてほしくておねだりする時、とか。丁寧とは言わないまでも、柔らかい言葉遣いの方がしっくりくる場面もあると思うの」
「美沙姉が、僕と誰を想像してそんなこと言うのか大体わかるけどさ。それはないから!」
僕が? おねだり? いやいや、ないない。
「あら、向こうはフリーよ。断言はできないでしょ」
「だってあいつ、中学生には手を出さないって——」
「うふ。心の中ではあいつ呼ばわりなのね。でも、やっぱり」
な、なんなんだ。なんで白状させられた格好になってるの。そして何を慌ててるんだ僕は。違う違う、盛大な勘違いだってば。
「まだ全然慌てなくていいわよ。向こうはまだまだお子ちゃまだから。それに、あたしに言わせりゃあんな奴に潤美ちゃんが取られるなんて勿体なさすぎてちょっと腹が立つくらいだもの。……えっと、哉太で合ってる、わよね?」
「ちが……」
反射的に否定しようとして、無駄だと気付いた。そして、首を縦に振ってしまった。
「潤美ちゃんはまだ中一になったばっかりじゃない。それなのにこんなにも魅力的なのよ。あいつだってすぐに考えを変えるわよ。とりあえず、今のところはのんびり行きましょ」
おかしい。これじゃまるで僕が哉太に惚れているみたいな流れじゃないか。なんだこの、勝手に外堀が埋まっていくかのような話の進み方は。
このままではいけない。流れを変えなきゃ。
「えっと、話を戻すね。僕はさ。僕が他人からどんな風に見られているのか、全く知らないとまでは言わないつもりだよ。でも、こんな話し方しかできないでいるとさ。中身を誤解されちゃうというか」
美沙はうなずき、僕の話を真剣に聞いてくれている。
「だから、受け身な態度でいるんじゃなくて、自分のことを他人にどう見せるかを考えた方がいいのかな、って。いや、猫をかぶるとか騙すとか言うんじゃなくて」
「わかるよ。自分をプロデュースするのよね」
理解が早い。
「うん。ほら、小学校低学年とか、性別なんてあってないようなもんでしょ。そんな年齢なら女言葉も男言葉も微笑ましいの一言で済ませられるけど。僕くらいの年齢になっちゃうと、たとえそんなつもりがなくても話し方一つで相手に不快感を与えちゃうというか。何というか、狙ってキャラづくりしてる、的な」
美沙はぽん、と手を打った。
「ああ、だから演劇なのね」
当たらずとも遠からず、というところだ。僕は首を縦に振った。
でも、それだけじゃないんだ。
「正直に言うよ」
もちろん、言えない部分は伏せるけど。僕にとって、女の子と言ったらその筆頭は美沙なんだ。少なくとも僕がこの身体でいるうちは——
「女の子の端くれとして、少しは美沙姉に近付きたい。美沙姉のようでありたい」
「…………」
あれ、黙っちゃった。まずいことを言っちゃった、のかな。
「もう、なんて可愛いの潤美ちゃんは!」
「え——」
両手を広げ、湯船から水飛沫を飛ばす。そして膝立ちした彼女にハグされ、頬をすりすりされてしまった。
「潤美ちゃん、大好き!」
「……僕もだよ、美沙姉」
佐美名先輩に嫉妬しちゃうくらいには、ね。
そろそろあがろうか。少しのぼせてきたよ。
脱衣所で髪を乾かしている時、唐突に思い出した。
「あ。哉太……兄から弁当箱回収し忘れた。明日、プールから帰ったら回収しに行かなきゃ」
「なになに? 弁当箱がどうしたの」
僕が哉太の弁当を作ったことを告げると、美沙は目を丸くした。満面に笑みをたたえて大きな声を出す。
「なんなのよこの娘はもうっ」
「えっ、なにが」
「言葉遣い云々なんて些細な問題じゃないっ。途轍もない女子力よ、それ。だってあたし、まともに料理なんてできないし。その歳で男の胃袋を掴むなんて尋常じゃないわよ!」
「…………」
えーと。困ったな。どう反応していいやら。とりあえず頬をかこう。ぽりぽり。
「おめでとう、潤美ちゃん。あたしが心配することなんてなにもないってことがわかったわ。あなたはそのままでいいの。うん、あたしが保証する」
いや、あのさ。弁当を作るくらい、倍巳のときからやってたことなんだけどなぁ。
あれ? それが異常なの? どうしよう、よくわかんないや。
一旦落ち着こう。
「待って、美沙姉。今の話だと、まるで僕が哉太兄のために言葉遣いを矯正したいみたいな流れになってるんだけど」
「そうでしょ。……え、違うの?」
「違う違う。一番は父さんのためで、次は世間一般に向けてというか、そんな感じ」
そこははっきりさせておかないとね、うん。
【そうですね。マスミ様にとっての落としどころは必要ですからね】
アルガーうっさい。
「明日は楽しみましょ。洋介と、あと哉太も呼んであるから」
——え。
パジャマに袖を通そうとして、はたと止まる。
美沙の言葉の内容を頭の中でくり返してみて——
「えええええええ!?」
「潤美、うるさいわよ!」
母さんに怒られた。
美沙とは同じ部屋で寝ることになった。でも、僕の部屋にはシングルベッドが一つだけ。
床に布団を敷き、どちらがベッドで寝るかで押し問答になった。
「この部屋の主は潤美ちゃんだよ。あたしは下でいいから」
冗談じゃない。お客様を下でなんか寝かせられるものか。
結局、シングルベッドで二人、くっついて寝ることになるのだった。
これはさすがに興奮して寝られないかと思いきや、着せ替え人形の疲れが出たようで、美沙よりもずっと早く寝てしまったようである。
* * * * *
目が覚めた。
なんというか。久々に夢も見ない熟睡だったような気がする。
いやまあ、見た夢を覚えていないだけなんだろうけれども。
寝返りを打とうとして——あれ。動けない。
あ、お腹に腕が巻き付いてる。
かわいらしい寝息。
あ、美沙か。思い出した。
起こさないように腕を外して、と。
さて。覚悟は決まった。
考えてみればなんてことはない。
倍巳がビキニを着るのではなく、潤美がビキニを着るのだ。何もおかしなところは——
あかん。顔が火照る。
でもさ。母さんと美沙が僕のためにお膳立てしてくれたんだし。女の子として憧れの美沙と遊べるんだし。だから。
お弁当四人分。はりきって作りますか。
一階に降りると、母さんがいた。
「あれ、早いね。おはよ」
「おはよう、潤美。母さんね、お弁当作ろうと思って」
「寝ててよかったのに。締め切り、近いんじゃなかったの?」
「ななななんで潤美が知ってるのっ」
「驚かれるようなことかなぁ。僕はただ、母さんがライターやってるってことを知ってるだけで。何を書いてるか、とかは知らないよ。締め切りってのは当てずっぽうだけどね」
あからさまに胸をなで下ろす母さん。心配しないで、BL物書いてることも知ってるけど、胸の中にしまっておくからさ。
「昨日、簡単にサンドイッチ作れるように買い物しておいたでしょ。母さんはコーヒーでも飲んでゆっくりしてて」
「ごめんねえ。あ、でも温水プールまでは車で連れてってあげるからね」
サンドイッチの用意が完了し、朝ごはんの支度をしていると、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
「おはようございます、おばさま。おはよう、潤美ちゃん」
「美沙姉おはよう。今ちょうどごはんできたよ」
「きゃあ、ごめんねえ! 泊めてもらった身なのにお手伝いもできなくて」
心底慌てた声を出す美沙に、母さんは柔らかい笑顔を向けた。
「お客様なんだからゆっくりしていなさいな」
「そういう母さんもゆっくりしていたけどな」
作務衣姿の父さんが居間に現れた。
「おじさま、おはようございます」
賑やかな朝ってなんかいいな。倍巳のときって、割と三人別々に食べてたもんな。ごはんの用意だけして、勝手に出かけて。
「潤美ちゃん?」
「あはは、なんでもないよ美沙姉。父さんの昼ごはん、用意するの忘れてたなーと思って」
「大丈夫よ潤美。母さん、あなたたちをプールに送ったら戻ってくるんだから」
そういや、母さんってごはんの支度できる人だったんだな。
たしか、幼い僕に家事をさせるわけにはいかないってことで再婚したんじゃなかったか、父さん。
でも結局、小一のときからずっと、当たり前のように僕がごはんの支度を続けてきたような気がする。もちろん、嫌じゃなかったけどね。
もしかして。
母さん、実の子供が欲しかったんじゃないのかな。それも、できれば娘が。
だとしたら、現在の御簾又家って、母さんにとって「こうだったらよかった」という一つの形なのかな。
——僕が倍巳に戻るってことは、母さんからこの幸せを奪うってことなのでは。
首を左右に振った僕の目の前に、母さんが歩み寄ってきた。
僕の額に手を当て、心配そうに覗き込んでくる。
「体調は大丈夫? プールは逃げないから、別の日にしてもいいのよ」
「ああごめん、週明けに小テストがあることを思い出して嫌な気分になってただけ。今は考えないようにしておく」
「そう。それならいいけど」
「いいのか」
「いいんです」
ああもう、美沙も家族でいいや。普段から心の中でも美沙姉と呼ばせてもらおうっと。
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