第2話 クラスメイト
「昼休みまで半端な時間しか余ってないから、持ち時間は一人一分以内で簡潔に。質問なんかは休み時間にお願いします。どうぞ、個別に親睦を深めてくださいね。はい、次の人」と、
白衣に身を包んだ、おそらく五十代半ばの男性だ。先生の青白い顔とひょろ長い体躯は僕の思い描く研究者のイメージにぴったりだ。どことなく、冷たく突き放すような話し方も研究者然としているというか。案の定、物理の教科担任とのこと。でもこれって偏見だよね。先生ごめんなさい。
肝心のクラスメイトたちの自己紹介については、上手に話をする人がそれなりにいたので感心してしまう。
でもさ。初日から何十人もの顔と名前を覚えられる人って、いったいどのくらいいるんだろうね。そんな記憶力の限界に挑戦する意欲なんて、僕にはない。
ごめんね、みんな。
奇を衒った自己紹介を披露してくれるクラスメイトたちに笑わされてはいるけれど、心の中ではこんな風に謝ってばかりの僕なのだった。
我がクラス三十五人のうち、哉太と美沙、それに僕自身を除けば残りは三十二人。そのうち七人は中学で同じクラスになったことのある人たちだ。あと、美沙が最近付き合い始めた洋介——おっと、佐美名くんだな——もいるから、ゼロから覚えなきゃならないのは二十四人か。
教室内を見回したところ、明らかに不良という感じの人はいないから、その点だけは安心できそうだ。
個性的な人はそれなりにいる。そんな中、僕の印象に残った人としては——。
絵に描いたインテリ男子っぽく、なんだか小難しい言葉で自己紹介していた瓶底眼鏡くん。
スカート丈が極端に短く、やたら笑顔を振りまくツインテールさん。
まあ、名前はおいおい覚えていけばいいや。目立つ人の名前は、こちらからアクションを起こさなくても学校生活の色んな場面で耳に飛び込んでくるものだし。
自己紹介は、窓側の先頭から席順に一人ずつ、その場で立ち上がって話すやり方だ。
黒板に近い席の女子なんかだと、後ろの席に座る男子から「こっち向いて喋って」などと声がかかる。
話すのが苦手な人もいるけれど、そんな人は「ごめんなさい。口下手なので、名前と出身中学だけで勘弁してください」との一言を添える。そういう言葉が出るだけでも口下手なんかじゃないのに、と僕なんかは思ってしまう。そしてそれを良いテンプレートとして、その後の順番において、話すのが苦手な人はみんなその言い方を真似るようになった。
それでもやはり、自分の名前と「よろしくお願いします」の挨拶だけを小さな声で呟くだけの無口くんもいるわけで。彼の名前は
ちょっと待ってくれ。誰だ、今「御簾又くんの次に可愛い」とか言った女子は。
気を取り直して、と。
皮肉なもので、今日初めて顔を見た人たちの中、そんなシンプルな自己紹介をした彼の名前だけが僕の記憶に残る。
もちろん、そんな暗い彼が目立つ存在であるわけがない。
「ちょっと可愛くない? 女の子っぽいし」
「えぇ、あたし興味ない。どっちかっていうと暗くてキモい」
女子によるひそひそ声の呟きが耳に入った。
僕はとても気になる。なぜなら、彼の様子はちょうど三年前の僕自身と、よく似ているから。
僕自身は女の子と間違えられることには慣れている。というか、慣れてしまった。
だけど、ろくに声変わりしないこの声は、あまり好きになれない。
僕は一時期、ほとんど誰とも喋らずに過ごしたことがある。
そう。その時期というのが、ちょうど三年前のこの時期なのだ。
「御簾又倍巳です」
「なんだあ、その声。名前もマスミちゃんだし女の子だよね。女子の制服、入学までに間に合わなかったのお?」
中学一年、入学式の翌日。僕は男子の一人から冷やかされた。無口キャラとしての僕が確立した瞬間だった。
容姿、名前、声。どれか一つだけなら、そんな冷やかしは受けなかっただろう。よしんば受けたとして、余裕の笑みで流すことができたことだろう。
今ならわかる。冷やかした当人としても、特に悪意などはなく、単に場を和ますために発した言葉だったのだと。
だけど、その時の僕にとっては言葉の刃に等しいものだったんだ。
小学生の間、哉太と学校の外で遊んでいると、面識のない大人からはよく「微笑ましいカップル」認定を受けたものだ。
美沙と遊んでいる時もよく「お嬢ちゃんたち」と声をかけられた。多くの場合「可愛い」という形容詞が冠されていたけれど、それは美沙に向けてのものだ。僕に向けてのものではない、断じて違う。
ちなみに、僕らの小学生当時はまだ、知らない大人が子供に声をかける程度のことで目くじらを立てるような社会的風潮はなかった。今それをすると、「声かけ事案」などといってPTAの連絡メール網に流れてしまう。それはさておき。
そんなわけで、容姿について女の子みたいだと言われることについては免疫ができている。だけど、声までからかわれたのはその時が初めてだった。
——声もか。僕は声まで、女の子なのか。
当時の僕は融通が利かなかった。短絡的に、「それなら誰とも話さなければいい」という無意味な鎧を着込んでしまった。
その結果、中学生活最初の四か月を無口な根暗キャラとして過ごすことになってしまったのだ。
つまんないことだけど。いや、つまんないことであるからこそ、それって誰も得をしないし、せっかく経験できたはずの楽しい時間が無味乾燥なものになってしまう。いじめを受けているわけでもないのに学校生活の場が苦痛になるなんて、本当に勿体ないことだよね。
だから、似たような立場の人を見ると、つい手を差し伸べたくなってしまう。
質藍くんの自己紹介については、三年前の僕のようにあからさまに冷やかされることはなかった。当たり前だ、高校生にもなって小学生の悪ガキのように落ち着きのない奴なんてそうそういないだろう。
それはいいのだけれど。
静かに着席する彼を見て、僕は放っておけなくなった。
もちろん、実際に話してみないとわからない。
単に人見知りなだけで、本当はおしゃべりな人かもしれない。あるいはその逆に、実は質藍くん自身が周囲を見下していて、相手にしようとしない俺様タイプなのかもしれない。後者だというのなら、以後関わり合いにならなければいいだけのことだ。
昼休みに話しかけよう。
* * * * *
「倍巳、俺は食堂までダッシュするぜっ! お前は弁当だからゆっくり来てもいいけど、できれば席をとっといてくれ!」
うん、予想はしてた。そんなに興奮しなくても食堂は逃げないだろうに、割と大声でまくしたてる哉太に邪魔をされ、気付くと質藍くんを見失ってしまっていた。
まったく、せっかちな食欲魔人だよ。周囲を見ると、割と教室で食べる人が多そうな感じ。この分なら食堂が人で埋まることはないんじゃないかな。
やれやれ。まあ、まだ初日なんだし、質藍くんのことも焦る必要はないよね。
そう思いつつ、僕も食堂へ。
やっぱり。
食券を買っている哉太の肩ごしに食堂を見渡すと、そこそこ空席が目立つ。
あ、質藍くん発見。ありゃりゃ、隅っこで一人で食べてるよ。
僕は哉太の脇を軽く小突き、「席、とっておくね」と言い残して質藍くんのそばへ。
「質藍くん。ここ、空いてる?」
「あ、ま……、御簾又くん?」
おや、今、下の名前で呼びかけたのかな。覚えててくれたんだ。
「倍巳でいいよ。僕も敦くんと呼ぶから」
「……いらない」
「うん?」
「敬称、いらない」
なるほど。言葉数は少ないけど、全くの無口ってわけじゃないんだ。やっぱり、会話に飢えていそう。
「敦。よかったら明日も昼飯いっしょに食べよう」
「喜んで。実は僕、倍巳に聞いて欲しいことがあるんだ」
へ? いきなり? すんでのところで変な声を出さずに飲みこみ、なんとか笑顔を作って続きを促す。その時——
【警告。ワーム反応、接近中。わずかに活性化の兆しあり。脅威度E。この場を立ち去ることを推奨します】
「やあ新入生たち、歓迎するぜ。君たちはこれから多くのことを知らなければならない」
男の声に振り向くと、「うぁ」と思わず声が出た。
金髪染めに両耳ピアス、ネクタイを緩めて胸元を露出させ、歩きにくそうな腰パンといういかにもな格好の男子生徒がそこにいた。口調そのものは丁寧っぽく喋っているものの、斜めにふんぞりかえり、顎を突き出してこちらを睨んでいる、とても頭の悪そうなお兄さんだ。
「まずは俺の名前だ。
「すみませんでした、矢井田先輩。以後、気を付けます」
「おら、先輩が名乗ってんだ」
「あ、僕は御簾又倍巳と言います」
上靴の色を見たところ、二年生だ。逆らうべきではない。というか、テレビ以外で初めて見たな、絵に描いたような不良さん。怖いけど、今のところそんなに理不尽なことを言われているわけじゃない。
「
びっくりして不良さんに背を向けた。声を張り上げたのは敦だ。立ち上がっている。
「なんだ。誰かと思えば敦かよ。女がいっちょまえに男の格好してるもんだから気付かなかったぜ。するとこっちの新入りもそういう人種か。ていうか、こいつ本物の女じゃねえのか」
ゆっくりと近付いてくる。どうしよう。逃げたら追いかけられるかな。
ふと気付くと、こちらを遠巻きに見ているのは一年生ばかり。上靴の色で上級生とわかる人たちは、こちらに視線を向けることなくさりげなく一年生たちをこちらから遠ざけるように誘導している。
やだなあ。そういう立ち位置の人に絡まれてるのか、僕たちは。
「先輩、俺の連れがどうかしましたか。話なら俺が聞きますよ」
あちゃ。空気読めよ。事を荒立てるつもりか、哉太め。
「ああっ!?」
怖い怖い怖い。……あれ?
なんだろう、矢井田先輩の肩。紫色の——人魂? どこかで見たような。
「先輩、矢井田先輩」
「ああっ!?」
それ先輩の返事のデフォルトですか。
「先輩の肩、何か乗ってるみたいですけど」
「ぴゃっ!?」
先輩が硬直した。僕も硬直した。
「どうしました。何かあったんですか」
僕たちの担任、桑原先生の声。
先生が近付いてくるまで、僕たちは硬直したままだった。
「何でもねえよ。ちょっと新入りと親睦を深めていただけだ。お前ら、明日の昼もこの場所に来い。なに、ちょっといいこと教えてやるだけだ。——いいな」
それを捨て台詞に、矢井田先輩は食堂を去って行った。
あれ、ご飯食べなくてよかったのかな。
【脅威度Fに下降。しかし、明日も安全でいられるとは限りません。くれぐれもご注意を】
なんか、こちらが無視していることについて諦めたかのような雰囲気の忠告が。いや、だから時々聞こえてくるこれは幻聴なんだから。気のせい、気のせい。
「倍巳、質藍。よくわからんけど、ぴゃっ先輩は行っちゃったし、飯食おうぜ、飯」
マイペースだね、哉太。
テーブルの上にハンバーグ定食と思しき盆をのせ、僕たちを促す。
「そうだね。食べよう、敦」
苦笑気味に言葉を返し、僕たちはテーブルを囲んだ。
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