第1話 高校初日

「行ってきまーす」

 玄関で家族に声をかける。返事はない。

 父さんは隣接する道場で朝の稽古中だ。昼間は柔道教室やってて生徒さんたちに教えている。初心者や体力作りが目的の人をメインターゲットにしてて、柔道大会への出場を目指す中級者以上の生徒さんは募集していない。

 夕方になると『御簾又みすまた流柔術』なるいかがわしい格闘術を教え込もうとする。僕を相手にね。一子相伝だなんて言っちゃって、父さんったら永遠の厨二病だよまったく。

 我が家の苗字を冠した格闘技。とは言っても勝手に名乗ってるだけであって、宣伝一つしていない。裏の世界の格闘術と言えばそれなりの雰囲気……なのかな? そんなことはないか。つまるところ、ゴッコ遊びの延長に過ぎない。それを言ったら父さんと喧嘩になっちゃうんだけどね。


 母さんはライター——多分、作家だと思うんだけど——をやってて、時期によっては僕が出かける時間にぐっすり寝ていたりする。

 母さん、はっきり言わないんだけど、多分BLとかそういう系統のお話を書く人だと思う。別に隠すことないのにと思うんだけど。なんだかんだ言ってもそこそこ売れてるらしく、僕だってうっすらと知っているんだ。

 母親がそういうお仕事をしているからって別に嫌だとは思わないんだけどな。まあ、母さんとしては息子に言いにくいんだろうね。その気持ちはなんとなくわかる気がする。


 そんなわけで、自分の弁当を含めて家族のごはんを作るのは僕の仕事。だから、今朝目覚めた六時という時間は僕にとってのデッドラインだったわけ。

「おう、倍巳ますみ、おはよう」

「おはよ」

 玄関を出たところで二人に挨拶された。どちらも幼馴染だ。

「おはよ、二人とも。さすがは高校だね。始業式当日からしっかり午後までだもんな」

「おう。今日のところはまだ授業じゃなくてオリエンテーションやら自己紹介やらで一日終わりそうだけどな」


 幼馴染たちは男と女。男は田中たなか哉太かなた。身長が僕より十センチは高い。同じような食生活、同じような遊び方をして過ごしてきたのにずるい奴だ。それはさておき。

 親友——という定義を理解しているわけじゃないけれど、一応はそういうポジションにあたるんじゃないかな、と勝手に思っている。

「哉太は弁当、用意した?」

「初日は学食か校内販売を試すに決まってんだろ。どっちも俺らの中学にはなかったんだから、興味津々だぜ」

 ちなみに哉太、黙っていればそこそこいい感じだと思う。美少年と言うには無理があるけど。

 だというのにあんまり悔しくないのは、中身が残念な食欲魔人だから。こいつがファッションやらデートコースやらに気を遣って女の子を楽しませるために頭を悩ます日が来るとは思えない。ふふふ、僕と一緒に彼女いない歴を更新し続けようじゃないか。


「ふふ、哉太ったら高校生になっても相変わらず食い気ばっかりね」

 もう一方の幼馴染は来栖くるす美沙みさ。髪の色は明るめの茶色だが、染めたり、わざと脱色したりしているわけじゃない。遺伝だか体質だか、詳しくは知らないけど一切不良っぽくない理由によるものだ。中学の時は髪の色のことで誤解を受ける場面もあったが、本人の素直かつ物怖じしない性格のおかげで大事に至ることなく過ごすことができた。

 幼馴染の贔屓目を考慮に入れても、彼女は美少女のカテゴリに属するはずだ。下世話な言い方になるかもしれないけれど、そのこともこれまで上手く立ち回ってこられた要因の一つだということは否定できないんじゃないかな、と思う。

 そんな彼女、長く伸ばした茶髪を今日はポニーテールにしている。

「似合ってるね」

「ありがと、倍巳。やっぱり哉太とは違うね! そういうところをきちんと褒めてくれるの、ポイント高いよっ」

「ふん。ガサツな食欲魔人の哉太さまにそんな繊細さを求めるんじゃねえ。俺がそういうことを言ったら歯が浮いちまうぜ。この歳で総入れ歯になったら洒落に——」

「美沙はその髪型でずっと過ごすの?」

「おーいっ」

 ブツブツとつぶやき出した哉太のことはあっさりと無視。僕は美沙に聞いてみた。

「初日だからね。ちょっと気合入れてみたの。周りの様子とか、その日の気分とかでね、色々変えていこうかなと」

「そっか。女の子は大変だね」

 刈り上げた後頭部を撫でつつそう返す。それに対する美沙の反応は微妙なものだった。

「んー。なんか変な感じ」

「何が?」

「女友達に『女は大変』とか言われたからに決まってんだろ。な、美沙」

 哉太のやつが会話に割り込んできやがった。

「やかましいよ哉太。もし学食や購買に飽きる日が来ても、弁当なんて作ってやらないぞ」

「ああっ、倍巳さまっ! この悪い口にチャックをしますからお許しをっ!」

「貸し一つね。僕の苦手な教科の家庭教師で許してあげるよ」

「オーケー、苦手な教科ね。数学、化学、古典、世界史……ほとんど全てじゃねえかっ」

 美沙が楽しそうに笑い出した。

「まるで夫婦ね、あなたたち。あたし、お邪魔だったかしら」

「勘弁してよ美沙。いつの間に腐女子デビューしたのさ。……ってか僕らをそっちのカテゴリに押し込むのはマジやめて」

 母さんの仕事を貶しているわけじゃないよ、念のため。


 ところで、この哉太と美沙、決して付き合っているわけじゃないし、この先もその予定はないだろう。美沙には洋介ようすけ——ええと、佐美名さみな洋介だったかな——という恋人がいるのだ。

 美沙からはことあるごとに「洋介」の名前を聞かされるものだから、僕や哉太は面識のない彼氏さんのことをすっかり下の名前で認識してしまっている。

 どうやらその彼氏さん、これから通うことになる同じクラスにいるようなのだ。

 だから僕らとしては気を遣い、美沙と登校時間をずらすことを提案したのだけれど、彼女は首を横に振った。

「あたしに幼馴染がいることは言ってあるし、そんな細かいこと気にする人じゃないわよ」

 そう言って笑い飛ばしたものだ。むしろ、素性の不確かな男に言い寄られる可能性が低くなるので歓迎だ、というのが彼氏さんの本音だという。

 悪いけど、僕らにボディーガードの役割を押し付けようとしたって期待に応えられるとは思えない。

 御簾又流柔術? あんなの盆踊りにも劣ると思う。父さんには悪いけどね。

「わかってるわよ、そんなこと」

 美沙はけらけらとおかしそうに笑った。彼氏さんの考えとしては、男と一緒に歩いている女の子に向かって果敢に告白する奴は滅多にいないはずだから、その意味で安心ということだった。


 そろそろ学校に着く。

 美沙のことだから、きっと彼氏さんを僕らに紹介することだろう。

 そのとき、うっかり「洋介」なんて呼ばないように気をつけよう。


【エリアサーチ。ワームを検索中……検出。痕跡微弱、脅威度F。アルガーよりマスターへ。ミューテーション完了まで残り四十七時間。安全マージンを考慮し、本日および明日は学食に近付かないことを推奨します】


「…………」

 登校してまで幻聴とか勘弁してほしい。

 ぐっすり寝たつもりなんだけどな。変な夢を見たのは眠りが浅かったからか。

 あ、あれだ。安眠グッズ。今晩からはしっかり寝られるよう、ちょっと母さんに相談してみよう。

 早く洋介に会いたいのか、こちらを振り向きもせず上靴に履き替える美沙。

 そんな幼馴染に背を向けて、食欲魔人が声をかけてきた。

「どうした、倍巳。早く教室入ろうぜ。そして早く昼休みを迎えようぜ! 弁当の生徒だって学食使えるらしいからな。学食、学食」

「どんな高校生だよ哉太。……今行くよ」

 なんにせよ、いよいよ高校生活が始まる。

 僕も哉太も彼女いない歴イコール年齢だけど、新しい生活はやっぱり楽しみだ。

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