マスミ・ミューテーション
仁井暦 晴人
第一章 入学編
プロローグ
「ふあぁ」
寝起きの欠伸。その一声で、またあの夢か、と少しうんざりする。
女の子の声なのだ。たしかに僕の声は高めだけど、これほどではない。
声変わりしたはずなのに、喉仏は目立つほど出ていない。そのせいか、クラスの男子の中でも一、二を争うほどに声が高い。
クラスといっても中三の時の話だ。この春から高校生なのだが、まだ入学式を終えたばかりなのでクラスメイトの声なんてほとんど知らない。まあ、たとえ新しいクラスであろうと僕ほど声の高い……というか、はっきり言って女声の男子なんてそうそういないんじゃないかな。
別に、綺麗な声が嫌いなわけじゃない。でも、自分の声はもっとこう、野太い感じがいいんだ。外見のせいか、私服を着ているとかなりの確率で女の子と間違えられる。だからせめて声くらいは……と思ってしまうのだ。
「……」
毛布をめくった。
上体を起こすと、水が流れるように長い髪がこぼれ落ち、頬をくすぐって肩にかかる。シャンプーの香りがやけにリアルだ。本当に夢か? ……なんてね。
ちなみに、本物の僕は髪が短い。後頭部に至っては刈り上げだ。
そう、刈り上げ。たしかに世の中、刈り上げ女子もいるにはいる。でも、れっきとした男子の僕が、しっかりと刈り上げまでしているのに女の子に間違えられることがあるなんて、世の中歪んでいるよ!
……ああ、夢の中なのに興奮した。
それはさておき。
夢の中の僕は髪が長い。こうして現実との違いをはっきりと自覚しているのだ。夢だとわかったら目覚めるのが普通だと思う。
けれど……。
「まだ起きたくない」
うん。今目覚めたらきっと二度寝する。
だったら、このまま夢の中で『現在の自分』を演じてしまえ、と思う。なんだかいつもよりリアルな夢なんだもん。別に変身願望なんかなくったって、ちょっとは興味が沸くってものだよね。
本当に、変身願望なんてない。ましてや性転換願望なんて、微塵も。そう言っても、幼馴染みあたりには「だったらなんでこんな夢を見るんだ」と疑われそうだ。夢は願望を表すという説があるからな。いやいや、そんな願望ないったらない。僕は男だ。
さて。夢の中でも寝ているだけだなんて芸がない。ベッドから足を下ろす。
床を見下ろす。見慣れたものよりわずかに小さい、可愛らしい素足がパジャマの裾から覗いていた。
「ふぅ……んっ」
伸びをする。誰も聞いてないと思って、わざと女の子っぽい仕草を演じてみた。……うわぁ。人はこうして黒歴史を刻んで行くんだね。うん、もうやんない。
いやあ、しかしはっきりと感じるよ。パジャマを押し上げる、二つの膨らみを。
意外と重い……。というか、女の子の胸を見て、「きっと重いんだろうな」という思い込みがあって。それが夢に反映しているのに違いない。
ゆっくりと部屋を見回す。
僕の部屋だ。ポスターとかは貼ってないけど、背の高い本棚には参考書より少年漫画の方が数多く並べられている。身体は女の子になっていても、部屋は元のままだ。
しかし、本棚の天辺には背伸びしないと届かない。現実の身長より十センチは低くなっていそうだ。ほら、やっぱり願望とは違う。どちらかというと高い身長に憧れているのだから。
一方、腰の位置は高く、脚はすらりと長い。脚の長さ、現実の身体とほとんど同じだったりして。うらやまけしからん脚だ。いや、でも現実の身体、とくに短足だと感じたことはなかったはずなんだけどな。
まあいいや。夢の中の自分自身にコンプレックスを感じていても仕方がない。
気付くと、場面が変わっている。洗面所だ。
夢なんだから特に気にしない。
鏡に映る自分を見る。本来の自分の面影があるにはある。でも、目はぱっちりと大きめだし、顎がすっと細くて小顔という印象だ。
漆黒のさらさらな髪は肩にかかる長さ。見事なストレートだけど、寝癖ひとつついていないのは男の僕から見ても不自然だと思う。うん、そのあたりはさすがに夢だ。
ううむ、それにしても。元から女顔とか言われているけど、鏡の中のこの顔は疑いようもなく完全に女の子だ。
なんか幼い。小学生高学年……さすがにそこまで幼くはないかな。とは言っても、せいぜい中学生になりたてくらいか。この顔で十五歳だとか、きっと誰も信じない。
いや、しかし——。視線を下げてみて、首を傾げる。
胸元を押し上げる膨らみははっきりと存在を主張している。一頃流行ったグラビアアイドルなみの巨乳にはほど遠いけれど、決して小さくはない。そっと触れてみる。
ふにふに。触感までリアルだよ。さわる手の方はもちろん、さわられる胸の方までも。なんだか、これまでの夢とはひと味違うな。
一方、股間は……。慣れ親しんだ息子ちゃんは、いないね、やっぱり。
再び場面が変わった。道ばただ。
夢なんだから——以下略。
なんだか股がスースーする。足下を見ると……ああ、やっぱり。
ミニスカート穿いてるね。思わず膝を合わせてしまう。女装趣味はないんだけどなあ。それはそれとして、スースーする感覚まで再現されるなんて、徹底的にリアルを追求した夢だな。
僕……マジでこんな潜在願望持ってたのかな?
なんというか、すらりと細くて可愛らしい脚。素足にミュールが似合っている。すね毛もないし、客観的に見て綺麗だな。
普段の僕なら「眼福」とか言ってにやけるところなんだけど。夢とは言え自分の脚という認識のせいなのか、少なくともこの夢の世界の中では全然そんな気分にならない。
——エラーコード:5030XX02。エリアIHCIAに予期せぬエラー。フラグメンテーションの発生を確認しました。
『原因を特定せよ』
「え、なに?」
僕のではない中性的な声。それに応えたと思しき声も、やはり中性的。
こちらを無視して頭ごしに会話が交わされている雰囲気なんだけど、何を言っているのかさっぱりわからない。まあ、夢なんだからしょうがないよね。
——バリッ。
道路に亀裂が走った。
ミュールを履いた足のすぐそばまで、アスファルトがめくれあがってきた。
「わわっ」
夢だ。怖がる必要はない。でも。
あとじさる。道路に背を向け、走り出す。スカートがめくれたら恥ずかしい。なんて言ってる場合か。夢なんだから気にすることはない。全速力だ。
そんなことより道路の亀裂。こういう夢のお約束の展開と言えば、地割れがおきて、地底に落っこちるバッドエンドでしょ。
最近はほとんど見なくなったけど、小さい頃はよく見たんだ。……高いところから落ちる夢。
夢とは言っても、落ちないで済むならそれに越したことはない。だから逃げる。
【セキュリティプログラムのバグ。ワームと見られるマルウェアによるアタックを検出。活動履歴を検索……特定。対策コマンド:EXYを申請します】
『申請を承認』
まただ。なんなんだ?
「ねえ、これ僕の夢なんでしょ。なら僕にわかる言葉で話してくれてもいいじゃん」
相手がいるわけでもあるまいに、つい文句を口走る。
訳がわからない夢なんだから目覚めてしまえばいいんだけど、なんとなく続きが気になるんだよね。
【除去プログラム適合個体の検索……発見。適合率九十八・八%。相違点:Sコード】
『他に適合個体は?』
【第二候補……発見。適合率七十五・一%。相違点:Aコード、Tコード】
【第三候補……発見。適合率七十四・九%。相違点:Aコード、Wコード、Sコード】
『第一候補で構わん。ミューテーションコマンドを実行せよ』
【管理者権限を確認。第一候補へのミューテーションコマンドを実行します】
今度はなんかたくさん喋ったな。
「僕の夢なんだから、僕に話しかけてよね」
『了解した、第一候補』
あれ。第一候補って僕のことかな。本当に僕に話しかけてきた? ……まさかね。だいたい、第一候補って何の候補? 生徒会選挙に立候補なんかしてないよ。
『君にはワーム退治に必要な能力を与える。世界の歪みを抑えてもらいたい』
世界の歪みとか厨二病かよ。僕、そこまでオタクじゃないつもりなんだけどなあ。
『当方は暫くエリアEIMでのデバッグ作業に専念させてもらう。ついては管理者権限の一部を委譲する』
【管理者権限レベル1の委譲を受理、承認しました】
『以後の呼び出しはレベル2以上の案件に限定。では第一候補、後は任せた。アルガー、しっかりサポートしてやってくれ』
【了解。管理者権限レベル1により、第一候補へのミューテーションコマンドを実行します】
もう、何言ってるのかわかんないってば。
——バリバリバリッ。
わわっ、道路の亀裂がたくさん! ってか、なんだこれ。道路の両側の家とか、空にまで亀裂が!?
おまけに変な光が飛び交ってる。なんなんだ、この紫色の光の群れは。
人魂みたいで気味悪いし。
女体化する夢は何度か見たけど、こんなパニック映画ちっくなのは初めてだよ。
「ふぇ!?」
脚を踏み外した。落ちる!?
空を掻く手が紫色の光に触れた。
「まぶしっ」
人魂の一つが白く輝いて弾けた。周囲の人魂も連鎖的に白い光に呑み込まれていき——静かになる。
おや?
あれだけ走りまくっていた道路や家の壁や空の亀裂が、きれいさっぱりなくなっていた。
【マルウェアに起因するワーム一体、除去に成功しました。ミッション完了まで、残り十一体です】
だから、訳わかんないってば。
うーん。寝る前、何か変なネット番組でもつけっぱなしにしてたんだろうか。
* * * * *
目覚ましを止めた。
髪は——短い。
胸は——平坦。
息子ちゃんは——健在。おお、立派にテントを……ごほん。
大丈夫、僕だ。
【覚醒時は先ほどの力を行使できません。ミューテーション完了まで、およそ四十八時間お待ちください】
何だ、この声? やっぱ夕べパソコンつけっぱにして寝落ちしたんだっけ——いや、ちゃんと消してあるぞ。
おっと、時間は——うええ!?
「遅刻ギリじゃん! 急いで歯ぁ磨かないとっ!」
始業式から遅刻とか洒落になんない。
僕は毛布を跳ね除けて飛び起きた。
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