新しい朝

 寮の玄関でスリッパに履き替え廊下に出たところで、二人は足を止めた。夕飯の時間で、廊下を行き交う寮生がちらほら見受けられ、食堂の方からは騒がしい声が響いている。

「えと、じゃあ、また」

ぎこちなく恩田に向き直り、塚原が声を出した。まだ少し赤みが残る頬をかき、拙く言葉を発するその様子がかわいらしく思えて、恩田の心がわき立つ。


 とりあえず今日のところは、いつも通りそれぞれ松谷と甲斐と過ごす方がいいのかなと恩田は考えた。塚原は大いなる驚きから覚めたばかりだったし、恩田も恩田で、頭の中の九十九パーセントが浮かれ騒いでいる状態だ。浮かれまくって突拍子もない言動をしそうな気がする。とにかく想いは叶ったのだから、一度ひと呼吸入れる方がいいかもしれない。

「うん、じゃあまた」

 笑ってうなずいてみせる。塚原も照れくさそうに笑って手を挙げた。そのまま、踵を返して廊下を歩いていく。数秒、その後ろ姿を眺めていた恩田だったけれど、不意に何かこらえきれない衝動に駆られた。


 …………。

 いや。

 じゃあまた、なんてやっぱり物足りない。


「塚原」

 呼び止める。振り向いた彼に無言で手招きすると、小動物よろしくぱたぱたと駆け寄ってきた。いつかの寝姿が思い出されて、また恩田の心がわき立つ。

「なに?」

ついさっきの照れ笑いの余韻が残る顔で首を傾げる。恩田は小さな声でそっとささやいた。

「今日さ、あとでそっち行っていい?」

「俺の部屋?」

うなずくと、彼はにっこり笑って了承した。その笑顔は温かくて、まさに彼らしい、日だまりのような表情だった。恩田は目を細めて見つめた。

 本当に、俺は恵まれている。

 感謝しなければいけない。塚原に、甲斐に、松谷に、そして佐野に。



 佐野と別れてから、恩田は放課後のグラウンドを眺めることが日課になっていた。窓際の席に座って、日が沈むまでずっと一人の姿を目で追い続ける。

 塚原。

 彼の姿を見ながら、色々なことを考える。彼を思う。自分を思う。今までのことと、この先のこと。今日のことと、明日のこと。日に日に柔らかくなっていく風と、明るくなっていく日の光を感じながら。

 塚原が好きだ。

 何度考えても、心のうちにある気持ちは一つだった。どうしてだろう。最初に隣で目覚めたときには何かが芽生えていたのだろうか。わからないけれど、今自分が彼を思う気持ちは存在している。



「えーっと、何」

 終業式の前日、昼休み。恩田が三組の教室で松谷を呼び出すと、廊下に面した窓が開いて、ひどくつまらなさそうな彼の顔が現れた。その表情に恩田は少し怯む。以前話をしたときの後ろめたさは簡単に消えるものではない。

「ちょっと、話したいことあるんだけど」

「はあ」

そう答えたものの、松谷はその場から動こうとしない。場所を変えようと思っていた恩田だったけれど、なんだか急に面倒になって、窓越しに松谷の耳元へ口を寄せた。昼休みという時間帯で、周りの生徒が騒がしく話をしていたりふざけ合ったりして二人のことなど誰も気に留めていなかったこともある。


「先輩と別れた。塚原に告白しようと思う」

 顔を離すと、心底不快そうな松谷の表情があった。

「……なんで今更?」

今更。松谷の言葉は効果的に恩田の心に突き刺さる。

「……あいつのことが好きだってわかったから」

「付き合ってた先輩より?」

彼の口調はあくまで意地悪い。恩田は顔をしかめてうなずくにとどめた。甲斐にも言ったことだけれど、何を言われても反論できない。

「あの先輩もとんだとばっちりだな。つーかよく別れ話なんてできたもんだよ。たぶんあの人うちの学校で一番人気ある人じゃん」

「…………」

「そっちの方が後悔するんじゃないの」

目を細めて恩田を見る。軽蔑するような色があった。松谷の態度は当然のものだ。逆の立場なら恩田だって同じ思いを抱くだろう。そう言われることはわかっていた。

 けれど。

「後悔はしない」

恩田は拳を握りしめた。まっすぐ松谷の目を見つめる。

「そのことも、前にお前に言われたことも、何度も考えた。今までの俺の態度がどれだけ最低だったかってのもわかってる。けど……だから、これからは同じことは絶対に繰り返さない。自分勝手な行動も、不誠実な態度も。

 ……塚原を傷つけるようなことも」

「…………」


 騒がしい教室と廊下のあいだで、ぽっかりと穴が空いたような沈黙が二人のあいだに下りた。松谷は鋭い目つきで恩田を見、お互いの視線がぶつかる。

 先に目をそらせたのは、松谷だった。

「まあ、口では何とでも言えるけどな」

「だからこれから、行動でも嘘はつかない。ふらつかない」

松谷の肩を掴んでこちらを向かせ、恩田はそう宣言した。一瞬、松谷は目を瞬かせ、けれど次には大きく息をついた。

「……わかったよ。言うのは勝手だ」

 邪険に恩田の手を払い、肩をすくめる。目の前の彼に気づかれないところで、恩田はそっと息をついていた。

「けど、塚原はもう別のやつと付き合ってるかもしれないぜ」

「えっ」血の気が引いた。

「例えば、俺とか」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべて松谷が自分を指差す。

 何だって!

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。一瞬にして目の前が揺らぐ。腹の底から抑えがたい強烈な怒りと後悔が、恩田の身体を突き上げた。

 無意識に振り上げた恩田の右手を、素早く松谷が掴んで止めた。

「おっと」

「お前っ……!」

「ジョーダンだって」

「はあ!?」

 力抜け、と言われて右手を押し戻され、ようやく恩田は手を下ろした。とんでもないことをぬかした相手を睨みつける。

「冗談、冗談」

「ふざけんな!」

対する松谷はおかしそうに笑い声を立てた。わざとらしく両手を広げて恩田を抑えるような素振りを見せる。

「いやーお前ほんと腹立つからさ。一回おちょくってみたかったんだよねー」

「な……」

言いかけて唇を噛み反論をこらえた恩田を見据えて、松谷は涼しい顔で続ける。

「明日からあいつ走るぜ」

「…………」

「告白するならちょうどいいんじゃない」

 完全に遊ばれた形になった恩田は、「あーどうも!」と捨て台詞を吐いて大股でその場を立ち去った。



 そうして翌日塚原に想いを伝えて、彼の気持ちも聞くことができた。

 ――恩田が好きで、きつい。痛い。もう嫌だ……。

 思いつめた瞳で胸を抑え、苦しげに言うその声に、脳がしびれるようだった。もし思いが叶っても、これまで男が恋愛対象ではなかった彼に対しては、すぐに触れてはいけないと考えていたのに、そんなものは一瞬で頭から吹き飛んでしまった。ほとばしる感情のまま彼の身体をかき抱いた。身体に直接響く、彼の浅い呼吸と、微かに感じる心臓の音。喚く彼の声の一つ一つが恩田のすべてをかき立てる。

 塚原が好きだ。

 好きだ。好きだ。好きだ――

 抑えきれない思いが溢れ出して胸が熱い。苦しい。自分が思っているよりもずっとずっと強く、自分が塚原のことを求めていたのだとそのときわかった。彼がたまりかねて喚く声がいとおしい。感情にあふれた彼の瞳がこの上なくうれしい。嘘だと繰り返し言う彼に、自分の心を取り出して見せてやれたらと切実に思った。できない代わりに、思いのまま彼をかき抱いた。


 信じられないと思うけど……いつでも、どんな方法でも信じられるまで気持ちを試してくれていい。もう揺らがないから。お前のことが好きだって何度でも言うから。

 小さくうなずいた彼の頭を撫でる。短くて柔らかい髪に触れるのはいつ以来だろう。思い出せない。けれどそんなことはこれからいくらでも答え合わせができる。

 塚原と。


 想いを告げた後は、謝らなくてはならなかった。心の正直なところを話すことはいたたまれなかったけれど、それが自分の未熟さなのだ。松谷にも宣言したように、塚原に対しては何より誠実でありたかった。少なくとも、これからは。

 ――俺……は、うれしかったよ。恩田に心配してもらって、どんな形でも俺のこと考えてもらって。優しすぎ、って思うくらい。

 塚原は良いように解釈したのかそう言ったけれど、それは優しさなどではない。恩田が自分で一番よくわかっていた。優しさではなく、欲から来た行動だったのだ。

 彼に構いたい。役に立って感謝されたい。頼られたい。守りたい。甘やかしたい。どれも恩田の欲だ。自分のことを考えてほしい、寄りかかってほしい。それだけのことだ。けれどそこまでは口にできなかった。


 ラウンジでのことは、塚原もさすがに驚いたようだった。思いつくままに事情をまくしたてた後に、真っ赤になった彼の顔に気づいて少し後悔した。けれどそれも嘘ではないのだ。

 格好悪くて、ださい、情けない自分。それでも塚原にはそのままの自分を見せるべきなのだ。彼への想いゆえの言動だったとは言えなくても。そもそも、どう言い繕っても格好がつくものではないのだから。



 夕食と風呂を済ませ、部屋で甲斐に塚原のところへ向かうことを告げると、彼はうれしそうに表情を輝かせた。

「告白、オッケーだったんだ」

「……うん」

これまでの経緯もあり、少し気恥ずかしい。くせっ毛の頭をかき混ぜながら恩田はうなずいた。「あーよかったあー」と甲斐はにこにこ笑ってベッドへ転がった。

「もうずっと気になってたからさー」

「悪かったな……色々」

「まあいいよ。俺としては塚原が幸せになったんならそれが一番なんだから」

片目をつぶってみせる甲斐に、恩田は真剣にうなずいた。

「うん。幸せにする」

「なんか結婚するみたいだねえ」

「……結婚ってなんだよ」

「お前の言い方がそうなんだって」


 それにしても、と甲斐は大きく伸びをした。

「先輩も無事第一志望合格したし。塚原の恋は成就したし。三学期終わって何かぜーんぶいいことだらけだよ、俺たち」

「先輩、受かったのか!」

「うん。昼に連絡来た。電話したらさ、鼻声で……」

そう言って笑う甲斐の目もやや潤んでいる。恩田は彼の肩を軽く叩いた。

「よかったじゃん」

「うん」

「……同じとこ目指すんだろ」

「もちろん。どこまでも追いかけるつもりだから、俺」

二人で笑い、うなずき合う。


 ドアへ向かう恩田の背中に、甲斐はさらに声をかけた。

「わかってると思うけど、塚原はお前が初めてなんだからね」

「……わかってるよ」

肩越しに振り向く。塚原にとって初めてのこと……男と付き合うということだ。恩田の表情を見てとったのか、甲斐はにやりと笑った。

「衝動に任せて手ぇ出しちゃダメだよ」

「しねえよ」今まで何回彼のベッドで彼と眠ったと思っているのか。……とはいえ、しっかりと釘を刺された形になったのは確かである。

「そもそも恩田なら、こんな風に心配することないと思ってたけど。こないだの件でお前、前科作っちゃったからなあ」

「……だからわかってるって」

「ならよし」

いってらっしゃい、と甲斐は笑顔で送り出してくれた。



 一○○号室のドアをノックすると、すぐに塚原が顔を見せた。目を合わせてにっこりと笑う。

「おう、恩田」

「うん」

そのまま部屋へ招かれる。奥のクローゼットが半分開いていた。恩田をベッドへ座らせておいて、塚原はクローゼットからTシャツを取り出す。

「明日の服、用意するとこだった」

「……お前って、そもそも真面目だよな」

その背中を見ながら、今更ながらにそんな思いを抱く。彼と一つのベッドで眠った夜は数えきれないほどあったけれど、いつも彼が寝ているところへ潜り込むだけだった。その度目にした明日の着替えの準備。当然塚原自身がそこへ用意していたものなのだ。

「え」

「そうやってちゃんと明日の服用意したり、部活も真面目にやってるし、授業だってきちんと聞いてるだろ。テスト勉強も疎かにしないし」

畳まれたウインドブレーカーや靴下などの一式を手に、塚原は首を傾げる。

「え? 別に、みんな大体そうじゃん」

「いや、そうじゃなくて。なんか……」

恩田の視線に気づいて、塚原は着替えをもったまま肩をすくめた。

「こういう準備は、その、俺、すぐ寝坊するからさ」

ベッドの隣に着替えを並べる。そうか、と恩田はその姿を眺める。


 きっと塚原は元々優等生タイプなのだろう。勉強も学校活動も部活動も真面目に取り組むようなタイプ。以前中学校では成績もトップクラスだと聞いていた。それが高校に入った途端レベルが上がって、ついていくのが大変になったと。遅刻という一事だけ見ると、それはひどく不真面目で、やる気のない、だらしない人物と思いがちだけれど、塚原の場合は別だ。それをクラスメイトや先生たち、寮母さんが理解していればいいのだけれど。


「お前が前に言ってくれた、よく眠る努力、ってやつも一応気をつけてんだ。ちょっと前からだけど」

 こちらを見、少し得意そうに言って、塚原が指折り数える。「寝る時間を一時間早めるだろ、ケータイとパソコンは夜十時以降使わないだろ、寝る前のストレッチだろ……」

 気がつくと、恩田は彼に手を伸ばしていた。

 何と言ったらいいんだろう。

 その頭を優しく撫でる。

 胸のうちでわきあがる温かい感情がくすぐったくて。むずがゆくて。

「……おんだ?」塚原が怪訝そうにこちらを見つめる。

「お前、ほんと……」

「なに」

「いや」


 一度照れ隠しか視線を外した塚原だったけれど、すぐに恩田の隣に腰掛けた。その頭を撫でて、髪を梳き、首筋から肩を優しく撫でる。心地良さそうに目を細める塚原を見ながら、恩田は心の中で甲斐に感謝した。手ぇ出しちゃダメだよ、というその一言がきちんと脳内に留まっている。……あの会話がなければ、色々なものが抑えられなかったかもしれない。

「俺、お前のことほんとに好きだ」

「あ、うん、ありがとう。俺も」

唐突な恩田の言葉にやや戸惑いながらも、塚原は言葉を返す。お返しのつもりか、彼の手が伸びてよしよし、と恩田のくせっ毛の頭を撫でる。日だまりのような笑顔。頭を撫で合う、傍から見れば少し奇妙な図である。


 やがて恩田は撫でるのをやめ、そっと目の前の身体を抱きしめた。衝動を抑えて抑えて、相手を驚かせないようにできるだけゆっくり。けれど力の加減は上手くいかない。彼の匂いと温かい体温がたまらなくいとおしいのだ。お、と塚原が声をもらした。

「恩田?」

今度は塚原は少し笑って、背中をさすってくれる。声と一緒に吐息が耳に触れて、またいつかの記憶がよみがえる。とんとん、とあやすように手が置かれた。そんなふれあいがうれしくて、じれったい。思わず恩田は声を出していた。

「あのさ、」

「うん?」

「……キスしていい?」

 身体を少し離して静かにそう言うと、塚原は何度もまばたきをした後「あ、えっと、うん。いいよ」と小刻みにうなずいた。少し頬が赤らむ。

「そういうことに抵抗あるならいいんだ。無理しなくて」

恩田の瞳が真剣な色を帯びているのに気づいたのか、塚原はいつもの口調で言う。

「別に、抵抗ねえよ。その……したいとも……思うし」

「……ほんとか?」

「お前が俺のこと好きって言ってくれたのも、俺がお前を好きって思うのも、まあそういう意味だってわかってるし」恋愛感情、と塚原がつぶやく。

「そっか」

恩田は少し微笑んだ。というより、頬が緩んでしまった。


 高鳴る心臓と増幅する欲望をなんとかなだめながら手を伸ばし、右手で塚原の頬をとらえる。彼は応じるように目を閉じた。わずかにあごを上げる。少し緊張しているようであっても、その仕草に躊躇いはまったく感じられない。完全に閉じたまぶたと、素直に差し出されたその唇が、恩田の感情に拍車をかけた。

 ――う、わ……

 望めばいとも簡単に差し出される唇。

 彼にそんな意図はないとわかっているのに、恩田のすべての欲望にさえ、従順に応じてくれるのではないかとの錯覚に陥りそうだ。

 いけない。

「……ちょっと待って」

 思わず手を離し強く握りしめ、塚原の肩に顔を伏せて寄りかかる。ぴくりとその身体が動いて恩田の両肩を支えた。

「恩田?」

「待って、一回深呼吸する」

 むくむくと頭をもたげる欲望に、息が乱れる。彼の身体の感触と体温と匂いを敏感に感じ取り、甲斐の忠告の言葉が遠くなっていきそうだ。目を強く閉じた。ともすれば彼の身体……股間の辺りから目が離せなくなりそうなのだ。しばらくそのまま、呼吸を整える。


「……あの、恩田の方こそ」

恩田の身体を支えたまま、遠慮がちな塚原の声がする。

「俺が好きだって言ったからって、無理することねえよ。そりゃ、いつかはしたいと思ってるけど、お前だって色々気持ちの問題とかあるだろ」

 まったく見当違いの言葉に、恩田は苦笑してしまった。なんて馬鹿なことを言っているのだろう。このかわいい恋人は。

 顔を上げる。少々戸惑った顔をした塚原と目が合う。

「馬鹿。何言ってんだよ」

「いや、だって」

「そんなわけないだろ。逆だよ」

 息をつく。ようやく身体の中で荒れ狂うものをいくらかなだめることに成功した。それもかろうじて、これからのキスとの引き換えによって、である。


 もう一度塚原の頬をとらえる。今度は彼が目を閉じるのをあまり見ないで済むようすぐに顔を近づけた。

 そっと唇を重ねる。かさついていて、けれど柔らかい感触。ついばむようにしてその感触を味わっていると、塚原の手が恩田の肩に置かれる。身体がじわりと熱くなる。感情と衝動と、何かよくわからないものが激しく胸のうちでわきたって、身体中を駆け巡る。

 唐突に、恩田の頭の隅で記憶がよみがえる。冬の初め、この唇に初めて触れてみたこと。柔らかい感触。こうして、こんな気持ちで口づけるなんて想像していなかったときのこと。


 恩田が顔を離した途端、うわー、と塚原が間延びした声を上げたので驚いた。

「嘘みたい。俺今恩田とキスした」

真っ赤な顔でそのままベッドに転がる。どきりとした。握りしめていた拳をほどく。

「あ、やだったか」

ほんの少しだけ触れるつもりが、つい夢中になってしまった。

「いや、めっちゃうれしい」

うわー、とまた声を上げながら全身で思いきり伸びをして、次に勢いよく起き上がった。恩田を見て人差し指を立てる。

「えっと、もう一回」

「……あ、うん」

 今度は恩田の方が目を瞬かせる。今の今まで目を閉じて恩田にすべてを委ねるような魅惑的な雰囲気をまとっていたのに、それは一瞬で消え、初めて知った楽しい遊びを繰り返す幼い子供のようなはしゃぎ方に変わっている。思いがけず毒気を抜かれてしまった。


 目を閉じると、ふっと気配がして、塚原の唇が重なった。さっきと同じようについばむように吸われ、もうじっとしていられなくなった。目の前の身体に腕を回して抱きしめる。

「わ、」

 驚きでもれた小さな声を飲み込む。離れないように後頭部を押さえ、唇を丁寧に舐めてやると、恩田の背中に回っていた塚原の手が微かに震えた。それだけで胸がしびれるようだ。

 ようやく身体を離すと、塚原の真っ赤な顔はぼうっと熱に浮かされたような表情になっていた。思わず笑ってしまう。

「……うわあ」

「なんだよ」笑い混じりで声の調子がおかしくなる。

「ちょっと衝撃的過ぎて消化に時間かかる」

「消化って」

「だって恩田だもん」

大きく深呼吸をを繰り返して「消化」をしているらしい塚原を見るとどうしようもなくかわいらしく思えて、またその身体を抱きしめた。額に唇を寄せると「おいわざとか!」と抗議の声が上がる。抱きしめ合ったまま二人でベッドに転がって、布団に潜り込んだ。

 布団の中で塚原がもう一度唇を寄せてきた。長いキスになった。



 薄明るい部屋の中で恩田は目を覚ました。傍らには男が眠っている。塚原だ。

首を巡らせて机の上の時計を見ると、まだ六時半だった。目覚ましが鳴る時間より随分早い。

 意外と眠れたといえばいいのか、案外眠れなかったというべきか。

 仰向けた塚原の顔を眺めながら思い返す。

 昨日塚原に好きだと告白して、その日に抱きしめてキスをして……。一つのベッドで眠ることに躊躇しなかったわけではない。もちろん、彼と何かをしようという気はなかったけれど、自分の衝動、欲望を抑えられるか不安はあった。けれど、何ヶ月かの習慣を身体は覚えていて、塚原のあの平和な寝顔を見ながらでも、幸か不幸か一時間もすれば睡魔がやってきた。それでも途切れ途切れ、塚原の寝返りをうつ音を聞いて三回くらいは目が覚めた。


 塚原は元々ノーマルなやつだからな。

 そう思うとさすがに衝動のまま行動するのに抵抗がある。いくら身体は反応してしまうとしても。甲斐からも釘を刺されているし、ただ塚原が欲しいのではない。もう彼を傷つけるようなことをしないと、松谷にも宣言したのだ。

 それに昨日の夜、キスを交わしたときの塚原の屈託のない笑顔に、気配すら漂っていなかったこともあった。ほとんどじゃれ合いのような感じだ。少々残念な気持ちにすらなるほどに。


 いずれにしてもキスくらいはいいだろうと頬に口づけた。……物足りない。もう一度。次は目許にも。額にも。耳にも。鼻の頭にも。唇にも。そしてこちらに寝返りをうつ身体を抱き寄せる。彼の首元に顔を埋め、目を閉じる。温かい、久しぶりに感じる体温、匂い、感触。


 目覚ましが鳴ったら、いつかのように塚原を起こそう。布団をはがして、腕を引っ張って。洗面所に連れてって、寝癖を整えてやって、ネクタイを直してやる。食堂へ行く頃には目が覚めてるだろうから、これからは俺が毎朝起こしてやるって言うんだ。

 塚原は笑顔でうなずくかな。それとも、ありがとうと言いながら首を横に振るかもしれない。生真面目に『だって前、朝自分で起きられるように頑張るってお前に言ったから』とか言って。それならそれでいい。塚原が自分で起きるところを見守ってやる。


 何でもいい。塚原なら、何でも。


 心の底から満ち足りた心地がする。ラウンジで寒さに震えていたあの日、初めてこのベッドに潜り込んだときとは違う、比べものにならないくらいとても柔らかくて温かい心地。頬が緩んで、笑みがこぼれてしまうのを抑えられない。うれしい。うれしい。塚原のことが、大好きだ。

 そのうち抱きしめる身体と自分の身体の呼吸が少しずつ重なって、恩田はまた眠りについた。


(終)

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