スター

 月日は過ぎて、季節はもうすぐ春本番を迎えようとしていた。

 空気は日ごとに肌に柔らかく感じられ、分厚い雲は少しずつ流れ去っていく。塚原の頭の怪我は抜糸も済み、その後の経過も問題なく、三月半ばを過ぎてようやく部活にも本格的に参加できるようになった。今日は終業式だ。

 久しぶりの晴れの日だった。三学期最後のホームルームが終わった後、塚原は風にたなびく教室のカーテンを開け放ち、淡い日の光を全身に浴びた。部活再開にぴったりの日和だった。クラスメイトたちはそれぞれ雑談したり、机を片付けて早々と教室を出て行ったり、バタバタと騒がしい。そんな中で塚原は大きく伸びをして深呼吸する。ついさっき渡された通知表の成績も悪くなかったこともあって、気分は晴れ晴れとしていた。


「塚原、」

 ふとかけられた声に振り向く。恩田だった。柔らかく笑っている。

 彼とはここ一ヶ月ほど挨拶と軽い雑談くらいは交わせるようになったものの、こんな風にはっきりと声をかけられたことはない。偶然顔を合わせたときの、間に合わせの会話しかしていなかった。

「……おう」

 戸惑いながらも返事をする。塚原は最近、彼の様子が少し変わったように感じていた。何が、と訊かれると上手く答えられないけれど……。今、まっすぐこちらを見つめる彼の目を迎えて、それはよりはっきりと感じられた。意図せず緊張してしまう。

「今日から走るのか」

「うん。病院の許可下りたから」

「……よかったな」

そう言って微笑む恩田の顔が眩しく見えて、塚原は目を細める。感情が波立つのには慣れたとはいえ、久しぶりに見る彼の柔らかい表情に胸が高鳴るのを止められなかった。慌てて目をそらす。

「うん。……俺、言ったっけ?」

「いや、そうやって思いっきり伸びしてるからさ」

 見られていたのか。少し恥ずかしくなった。

「……ずっと退屈だったんだよ」

「お前らしい」

 恩田の声も表情もまるでこだわりがなく、数ヶ月前に戻ったような雰囲気が二人のあいだにあふれているように塚原には思えた。心地良かったけれど、少し混乱する。


「あのさ」

 そのまま恩田は塚原の隣に並んで、窓の外を見ながら言う。

「今日部活終わったらさ、少し話できる?」

「……俺?」

驚いて訊き返すと、彼は振り向いてうなずく。淡い光を受けるその顔に惹きこまれて、塚原は少しのあいだ目が離せなかった。

「お前が、よければ、なんだけど」

つぶやくようにそう言って、恩田は目を伏せる。

「や、いいけど……何かあったの?」

「…………」

恩田は曖昧な表情で笑ってみせた。少し困ったような、はにかむような、甘くて苦い表情。見たこともない、にじみ出る感情の色にますます混乱する。

「えと、じゃあ終わったら連絡する」

「うん」

お願いします、と恩田は頭を下げた。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 手早く荷物をまとめて駆け出す。振り返らなくても、自分の背中を見送る恩田の視線がわかった。


 どうしたのだろう。胸が騒ぐ。最近恩田が寮で甲斐と一緒に行動していることが多くなったことを不思議に思っていた。あのきれいな恋人を見かけなくなった。二人に何かあったのだろうか。喧嘩したとか。

 胸に手を当てる。恩田と恋人に何かあったとして、それを塚原はどう処理すればいいのかわからなかった。

 まあ、俺にはまったく関係ない話なんだけどさ。

 恩田にはふられている。というより既に恋人がいるのがわかっていて好きになったのだ。だから処理することというのは、単に塚原が自分の心の中でどう消化するかということだけだ。軽く息をつく。

 グラウンドを大きく横切って部室へ向かう。松谷の後ろ姿が見えた。

 とにかく走ろう。今日は走る。



 辺りがすっかり暗くなって、最後のミーティングが終わった後、いつものように解散となった。塚原は松谷と用具の片付けを行い、先輩たちが着替え終わった後の部室に揃って入った。久しぶりに走ってほてった身体に冷たい空気が心地いい。いつも走ってきつい思いをしているあいだは恩田のことでさえも忘れていられるのだ。

 けれど、今日はそういうわけにはいかなかった。怪我からの復帰初日であったためあまりスピードを出すこともできなかったし、部長に言われて走る距離も他の部員の半分以下だ。物思いを忘れるほどの疲労とはいえず、塚原は落ち着かない気持ちを抱えていた。とりあえず鞄から携帯電話を取り出し、恩田へメールを送る。すぐに今から校舎の昇降口に向かうところだ、と返信が返ってきた。

 ずっと教室にいたのか。

 塚原は少し意外に思った。とっくに寮に帰っているものと思っていたのに。教室にいたって大してやることもないだろう。


「松谷、俺今日――」

「ああ、鍵よろしく」

 塚原がすべて言う前に、松谷は部室の鍵を寄越してきた。校舎へ向かうならついでに部室の鍵を返却しようと思って声をかけたのだけれど……まるで松谷は塚原の約束を知っているような察しの良さだった。

 隣の顔を盗み見る。松谷はすでに着替え始めていた。変わった様子はない。まあ、何でもお見通しなのは今に始まったことでもなかったので、塚原も着替えに移った。部室を締めた後、グラウンドを出て松谷と別れ、昇降口へと向かった。



「恩田」

 恩田は下駄箱の隅、すのこの端に座っていた。外からの照明一つが彼を頼りなく照らしている。塚原に気づくと、彼はふわりと笑った。他の部活もほとんど終わったこの時間、昇降口はひともなくがらんとしている。

「ごめんな急に」

「いや、いいけど……お前寮に帰ったのかと思ってた」

塚原が近づくと、恩田は立ち上がった。またあの曖昧な苦笑いを浮かべ、彼はふるふると頭を振った。小さく、塚原の胸に痛みが走った。久しぶりに彼と言葉を交わしている実感が今更ながらわいてきて、どうしても切なく心が震えた。


 彼の表情が、立ち姿が、その身振りが、青く暗い視界の中で浮かび上がっている。肩に斜めにかけた鞄のベルトを直す振りをして、塚原は胸を押さえた。

 やっぱ、きついな。

 自分のスニーカーを見つめる。

 恩田と目を合わせて話せるうれしさと、叶わない気持ちを抱える苦しさが天秤のように揺れている。今は、苦しさの方が大きかった。……息が詰まるほど。

「風入ってくるな。中入るか」

少し外をのぞいて顔をしかめた恩田が、塚原を促して下駄箱の方へ歩く。けれど、塚原は動けなかった。その気配を感じて恩田が振り返る。

「……話って、なに」

それだけを言った。

 何を言われるのだろう。これ以上、一体彼と自分とのあいだにどういう変化が起こるというのか。その変化にまた心を慣れさせなければいけないのか。無事にそれが成せるかどうか、塚原には自信がなかった。ようやく最近になって心が静まり始めたというのに。


 恩田は一度大きく息をつき、静かに言った。

「別れたんだ、先輩と」

「……え」

 顔を上げる。照明に照らされた恩田の顔半分が、苦い表情を浮かべていた。

「先輩って、」

「うん」

「クリスマスに付き合った」

「そう」

「そ、んな……ついこないだ、」

「正確に言うと二ヶ月。別れたの、先月だから」

「……どうして」

最近恩田があのきれいな人と一緒にいなかったのは、そういうわけだったのか。胸が締めつけられるような心地がする。

 だって、あんなにうれしそうに笑ってたのに。思いに心を痛めてたのに。

 自分には関係ないことだとわかっているけれど、平静ではいられなかった。皮肉なことに、今では自分が叶わない思いを抱えていることで、恩田の苦い表情の裏がわかるような気がするのだ。

「……つらいな」

それ以上の言葉が見つからなくて、塚原は目を伏せる。うん、と恩田は言い、一歩塚原に近づいた。

「つらいっていうか、自己嫌悪」

「自己嫌悪?」

「俺から言ったから。別れてほしいって」

「は?」

驚いて恩田の顔を見返した塚原がさらに口を開く前に、恩田は言葉を継いだ。


「……お前のことが好きだから」


 まっすぐ塚原を見る彼の瞳が、きらきらと躍るような光をたたえていた。甘くて苦い笑顔。心臓が止まりそうなほど驚く。咄嗟に言われた言葉の意味がわからなかった。胸がざわめき始める。

「……な」

「塚原のことが好きだ」

「え……、俺?」

 恩田がうなずく。

「お前、付き合ってる人が……」

「うん。だから別れた」

「そんな」

塚原は首を振って後ずさる。心臓が痛い。息が苦しくて、喉が詰まる。

 意味がわからない。信じられない。何を言ってるんだ恩田は。

 だって俺は。

「だって俺……ふられた」

「ごめん」

「付き合ってる人がいるって、だから、ふられたんだ」

「あのときはそう言った。本当にそうだったから。けど……吹っ切れなかったのは俺の方だ。いつまで経ってもお前のこと気になってて、ほっとけなくって」


 恩田がまた一歩近づく。塚原はさらに後ずさった。痛む心臓を思わず押さえる。そんなことあるはずがない。安易に都合良く言葉を解釈してはいけない。

「嘘だ」

「嘘じゃない」

さらに後ずさると、背中が入口のガラス戸に接した。恩田はさらに一歩歩み寄って来て、ついに塚原の目の前に立った。

「……信じられないよな、いきなりこんなこと言われても」

恩田が目を伏せる。

「いつからかわからない。お前のことが頭から消えないんだ。甲斐にもずっと言われてた。先輩と付き合ってるんだから塚原に構うなって。勝手だって自分でもわかってたけど、お前に何かあっても、何もなくても、しらじらしくクラスメイトの距離で適当な話するなんてできなくて……」

絞り出すように言って片手で顔を覆う。その仕草が自分の感情を持て余しているように見えて、塚原は信じられない思いで見つめていた。

「好きなのは先輩で、付き合ってるのは先輩だって自分に言い聞かせて、お前と距離を取ろうと思っても上手くいかなかった。こないだお前が襲われたとき、それが本当にわかった。骨身に沁みてわかった。もうあんなの二度とごめんだ」

 恩田が手を伸ばして、塚原の両手を取った。いとおしむように優しく包む。

「……お、」

「先輩だって、確かに好きだった。けど、今はお前のことしか考えられない」

「…………」

「……それを伝えたかった」

 言い終えると、恩田は大きく肩で息をした。高ぶる感情を沈めているようにも見える。塚原はそんな恩田を見ながら固まってしまった。

 それ、今言ったこと、まるで……

 恩田が俺のこと、本当に好きみたいな。

 心臓が激しく鳴っておさまらない。苦しくて、塚原は首を振った。


「……塚原は、」

恩田が静かに声を出す。

「塚原は……もう違うのかな」

「……っ」

「塚原の気持ちは……」

 窺うような目と出会って、嗚咽のように喉までせり上がった感情が塚原の声を震わせた。

「……俺はっ」

どうにか唾を飲み下して言葉を継ぐ。

「俺は最初から恩田が好きで、好きだってわかったときには恩田の気持ちも知ってて……ふられたんだ」

恩田の手を振りほどき、手の甲で熱くなっていく目許を押さえる。肩で息をしていた。

「でもやっぱり恩田が好きで、お前を見かけるたび、話すたび、苦しくて苦しくて、」

ふわりと心地よい匂いが鼻先に触れる。恩田の手が塚原の肩を掴む。彼がこちらの顔をのぞき込もうとかがむので、どうにか顔をそらそうとした。

 ――彼の匂い。

「……痛いよ」

 胸の奥に無理矢理押し込めていた思いがあふれだす。その勢いは激しくてかきむしりたくなるほど痛い。

「恩田が好きで、きつい。痛い。もういやだ……」

 恩田の腕が回って、とうとう抱きしめられた。強い力で背中を掴み、彼の深い吐息が耳に触れた。

「……塚原、好きだ。俺と付き合って」

「付き合っても何も、俺は恩田が好きなんだよっ」

感情の激流に飲み込まれて、色々なことが考えられない。恩田への思いで苦しんできた心と身体が勝手に叫んでいるようだった。

「わかってたよ、叶わないってことも無謀だってことも! 俺はあの先輩みたいにきれいな顔してないしむさい男だし! でもどうしようもないじゃん好きになっちゃったんだから! 好きになった瞬間にふられるって覚悟してたよ!」

 身体が言うことを聞かず、小さく震える。

「痛いよ恩田……痛い」ようやく目許を押さえていた手を下ろす。目の前には誰よりも何よりも望む彼がいる。

「恩田……好き」

声が小さくなったのは、もう少しで涙が出そうだったからだ。目の前の男も泣き笑いのような表情を浮かべ、またきつく抱きしめてくる。塚原も腕を伸ばして彼の首にしがみつく。

「塚原が好きだ」

「うそだ……」

「嘘じゃない」

恩田が塚原の身体をかき抱く。

「嘘じゃないよ。信じられないと思うけど……いつでも、どんな方法でも信じられるまで気持ちを試してくれていい。もう揺らがないから。お前のことが好きだって何度でも言うから」

「…………」

「塚原」

「……ほんとか」

「本当に、お前のことが好きだ」

耳に直接そう吹き込まれて、ついに塚原は小さくうなずいた。



 お互いの呼吸が落ち着いたところで、恩田がゆっくりと身体を離した。離れた胸や腹が冷たい空気に触れたけれど、それが気にならないくらい塚原の顔は熱かった。顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかる。それでも恩田は手を離さなかった。

「わ、」

 そのまま恩田が顔を寄せてきて、額が触れ合う。深く深く、彼はため息をついた。

「……自分の気持ちもわからないで、お前のことずっと振り回して、本当にごめん」

「……なに」

「お前がちゃんと一歩引いて接してくれたのに……俺はそれが許せなくて。お前に干渉したり、夜中に部屋に駆け込んだり、馬鹿みたいに喚いて抱きしめたり……本当、馬鹿だよな」

 苦い笑顔だった。ついさっき彼が見せた笑顔、その苦い部分と同じ色をたたえている。自己嫌悪の色。塚原は首を振った。ためらいがちに、声を出す。

「……俺……は、うれしかったよ」

塚原も手を伸ばして恩田の背中に腕を回す。「恩田に心配してもらって、どんな形でも俺のこと考えてもらって。優しすぎ、って思うくらい」

恩田が息をついて目を閉じる。

「いや、優しさってより……」

「うん?」

「……いや、何でもない」

背中を優しく叩いて、ありがとう、と恩田は言った。


「それにもうひとつ、お前に謝らなきゃ」

「……謝る?」

また大きくため息をつく恩田の顔を、塚原は不思議に思いながらのぞき込んだ。目が合うと、彼は目を泳がせた。

「ラウンジで会ったとき、友達のところに行くって言ってたけど……あれ、本当は違ったんだ」

「へ?」

「あの登山部のやつのとこに避難するって言ってたけど、」

「あ、違ったのか」

「……本当はどこに行くつもりもなかった。甲斐と恋人の先輩は、三学期からは会うのをやめてたんだ。だから、夜中に来ることもなくなってた」

恩田の声はひどくか細かったけれど、塚原には聞き取れた。

「……え、そうなの」

恩田がうなずく。そのままうつむいてしまった。塚原の胸元に顔を埋める。

「えと、じゃあ、あの日は自分の部屋で寝たってこと?」

さらにうなずく。

「なんでそんなこと、つーかじゃあなんでラウンジまで……」

「お前に、会えたらなって。それでお前に、ラウンジで寝るなとか、なんかそういうの言われたくて」

「…………」

「馬鹿だろ、俺」

「いや……ちょっと、なにそれ。恩田が言ってることとは思えん」

 ……心配、されたかった?


 さすがに塚原も何と言ったらいいかわからず、口を開けたまま固まってしまった。開いた口がふさがらないとはこういうことだろう。またしても頬が熱くなってくる。

 それ、マジなやつじゃん。

「三学期に入ってからすぐ、甲斐に言われたんだ。先輩の受験が終わるまで会わないことにしたって。その前にあいつに話をつけてたのは本当。でも結局それから先輩が夜中に来ることはなくなったんだ」

「そっ……か」

ようやく恩田が顔を上げた。悪いことをして首根っこを掴まれた幼い子供のような表情だった。

「ふったのは俺の方で、俺の事情でお前の部屋に行けなくなったのに、お前とのこと……どうしても割り切れなくて」

「…………」

「お前がちゃんと俺と距離を取ろうとしてて、それが何かすごく嫌で……。自分勝手にそんなこと思ってた。本当にごめん」

 何とも言えず、塚原は頬をかいた。恩田が謝りたいと言って話す内容は塚原にとって大いに唐突であり大いに驚くべきことで、そこから導き出される恩田の気持ちは、塚原へのあからさまな執着を示すものでしかなかったから、ますます顔を赤くするしかなかった。

「えと、……別に俺、なんか迷惑かかったわけでもないし。謝んなくていいよ」

恩田の顔を見ていられない。そんな塚原の様子を見て、恩田も少し自分の言葉を思い返したようだった。

「そう……だよな、唐突にこんな言われてもわけわかんないよな」

同じく顔を赤くして、くせっ毛の頭をかき混ぜる。また大きく息をついた。

「つまりその……それだけお前のこと、ずっと考えてちゃってたっていうか」

「……そっか、」

 おずおずと目を合わせて答えた塚原だったけれど、またすぐに身体を引き寄せられて恩田に抱きしめられた。

「だから、結局、お前が好きってこと!」

「……わ、わかった」

むずがゆい思いに胸を震わせながら、塚原はかろうじてそう答えた。


 塚原の頬を恩田が優しく撫でる。その指が塚原のあごにかかって、目が合う。恩田の静かな瞳に吸い寄せられるような思いがした。

「……俺と、付き合ってください」

「……えと、はい」


 ようやく今までのやり取りがきちんと実感できた気がする。

 恩田が、俺のことを好きだって言ってくれた。俺が恩田を好きだって思うのと同じように。

 冷えた身体を熱い湯にひたしたときのように、胸の奥から熱い感情の波が押し寄せて、全身を巡った。心からうれしい。嘘みたいだけれど、恩田は本当だと言ってくれた。抱きしめてくれた。

「ありがとう」

 そう言った恩田の笑顔が、何よりも眩しくていとおしい。にじみ出る彼の感情が、塚原にもしみわたるように伝わった。

「俺も、ありがとう」

答えた自分の顔が、きっとへらへらと情けなく笑っているのだろうと思ったけれど、仕方ないことだった。この期に及んで、塚原が恩田のように、あのきれいな先輩のように、整った顔で美しい笑顔なんてできるはずがない。


 今までにも感じたことのある感情が、今までにないくらい強く、塚原を飲み込む。胸が苦しいくらい、胸が痛いくらいうれしい。

 恩田も同じように感じてくれているなら、これ以上のことはない。


 部室の鍵を返して、昇降口から揃って外へ出る。部活を終えた生徒だろう、遠く校門をくぐる人影がいくつかまばらに見える。校舎は一階の職員室をのぞけばすべて電気が消えている。おそらく、自分たちが最後の下校者だろう。夜空には小さくいくつもの星が瞬いているのが見えた。こんなにすっきりと晴れている夜空を見るのはいつぶりだろう。冬の雲はもう流れ去ってどこにも見えない。


 熱くなっていた顔に冷たい風が吹き付けて、思わず塚原は唸った。

「さむー……」

 隣を歩く恩田がそっと塚原の手を取る。指を絡めてそのまま彼の上着のポケットへ二つの手を滑り込ませた。塚原が見やると照れくさそうに、けれど少し得意そうに笑う。その笑顔から塚原は目が離せなかった。

「すげえ。なにそれ。恋人みたい」

「……恋人だろ」

「……そっか」

 頬がまた熱くなる。冷たい風なんて一瞬で感じなくなってしまうほどだ。恩田の手は少し冷たくて、かさついていた。そういえば部活の後まともに手を洗ってなかったことに気づいて塚原が手を離そうとしたけれど、思ったよりも強い力で引き戻された。どきりとする。

「……恩田」

「うん?」

「俺、手砂だらけだわ」

「うん」

恩田は明るい声でうなずいた。そのまま寮の門をくぐるまで、彼は手を離さなかった。

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