飴玉
目を閉じると、あのときの感触がすぐにでも思い出せる。彼の腕にきつく抱きしめられて、彼のにおいに包まれながら、耳元で響く彼の声。長いあいだ心と身体が渇望していたことが一瞬で叶って、本当に目がくらんだのだ。
――離せよ。
言ったのは口だけ。貪欲な心は、彼を抱き返したくてたまらず、塚原の身体を震わせた。
やめてくれ。
もっとして。
正反対の二つの気持ちがせめぎあって、これ以上ないほど胸が痛かった。もう夢の中で何度も塚原はあの昼休みの時間を繰り返し、その度に思うまま恩田の身体を抱きしめた。
夢の中の恩田の反応は様々だ。うれしそうに笑ってくれたり、頬に唇を寄せてくれたり、やめろと引きはがされたり、何すんだと殴られたりする。目が覚めて一番悲しかったのは、抱きしめたと思った瞬間、恩田の姿が消えてしまったときだった。
あの数分の恩田の感触だけで、一ヶ月くらいはやっていけるかも。
そんな女々しいことを考えて塚原は心の中で苦笑する。そうでもしないと、あのときの彼の言葉に飲み込まれてしまいそうな自分がいた。
――お前がたいしたことなくても、俺が嫌なんだよ……。
――頼むから、俺のいないところで痛いとか辛いとか苦しいとかそんな目に遭うなよ! そういうときは俺に言えよ!
――塚原には笑っていてほしいんだ。何も言わないから、俺のために笑って。
自分勝手な言葉だった。塚原がいくら困ったことがあったからといって、恩田に助けを求められるわけがない。それに恋人がいる恩田が、ふった塚原に対して自分のために笑ってほしいなんて、非常識もいいところだ。他人事だったなら塚原は怒ってその場で恩田を殴ったろう。けれどあの恩田が……大人びていて自分の感情をきちんとコントロールしているはずの恩田が、勝手な言葉で剥き出しの感情をぶつけてきたことが、塚原にとってはたまらなくうれしかったのだ。それが例え気が動転したためのうわごとでも。
ほんと俺、もうビョーキだよな。きっと恩田なら何だっていいんだろう。
馬鹿馬鹿しいと思うけれど、それは塚原の本当の気持ちである。まさか自分がこんなに一人の人間を好きになると思わなかった。しかも、叶ってもいないのに相手に何をされようが、今のところ気持ちが消える気配もない。打たれ強くなったという、これもある意味でひとつの強さなのだろうか。
……もしかして恩田は自分のことが気になり始めたのか、というあまりにも都合が良すぎる考えは、さすがに心のうちでも広げる気にはならなかった。あり得ない。それにかなり危険だ。見なかったことにし、くしゃくしゃに丸めて頭から追い出した。
朝目覚まし時計が鳴って、起きる。朝ごはんを食べて学校へ行き、授業が終われば部活をする。心静かに、できるだけいつもの日常をいつも通りにこなす。夜はどうしても恩田のことを思い出してしまうけれど、それすらもう当たり前のこととなっていて、特にどうということもない。そういえば今までも、好きな子ができたときは同じだったのだ。叶わないとわかった後まで思い続けることはなかったけれど。
例の商店街での件は、学校だけでなく、警察への報告も終わった。学校を休んで、事情聴取を受けたのだ。停学中の三人の生徒については所在も判明し、ほどなく任意同行を求める予定なのだという。塚原としては早く忘れて日常に戻りたいという気持ちが強かったので、それ以上のことはもう聞かなかった。「人違い」「運が悪かった」というだけで片付けるには代償が大き過ぎ、灼然としない気持ちも確かにあったけれど、これ以上そういう負の感情が渦巻く出来事に関わり続ける方が嫌だったのだ。誰にも明かしていないけれど、夜道を一人で歩くのは未だ抵抗がある。学校の敷地内や寮内などはいくらか平気ではあるけれど。
そんな中で、寮長とあの甲斐の恋人である三年生は、寮内でも学校内でも顔を合わせれば塚原の心配をして声をかけてくれた。特に甲斐の恋人は、庇護すべき小動物に接するように塚原を気遣う。
「傷の具合はどうだ? 抜糸はいつなんだ」
「着替えは、風呂はどうしてる。何だったらあいつに言え」
あいつとは、甲斐のことである。他にも、
「頭痛むだろ、ココア飲むか」
「部活とか体育とか、今は絶対無茶すんなよ」
「食いもんはゆっくり噛めな。口の傷にさわる」
そして毎回最後には同じ台詞で眉を下げるのだ。結局それは最後まで変わらなかった。卒業式の日、塚原が甲斐について三年生の教室まで挨拶に行くと、
「何かあったら俺でもこいつでもいいから言えよ」
あごをしゃくって甲斐を示した。
「はい、あ、いえ」
かえって塚原は恐縮しながら何度も頭を下げた。
「って偉そうに言ってもまあ、俺卒業すんだけど」
「いえそんな! そう言ってもらえるだけで充分です!」
塚原が何度目になるかわからない礼を言うと、甲斐に言いにくいことだったらいけないからと連絡先まで渡してくれた。甲斐はそれを見ておかしそうに笑う。
「ね! 塚原っていい子でしょ!」
「うん。お前の言う通りだった」
声を立てて笑い合う二人。甲斐に出会って日が浅い頃に感じた、世の中の不思議のようなものを、またしても塚原は味わうことになった。
この彼とこの甲斐……確かに、恩田が彼らを庇ったのも少しわかる気がする。二人は卒業式という彼らにとって大きなターニングポイントであろう日に、悲しさや淋しさを一片も見せることはなかった。心からお互いを信頼し合っているからなのだろうか。一体どういう経緯で恋人となったのかいつか甲斐に訊いてみたいな、と塚原は思った。
それから数日経ったある日、塚原は部活を終え、いつものように松谷と連れ立って寮に帰っていた。頭の傷は来週には抜糸の予定で、それが完治するまで激しい運動は控えているため、参加できるのはラダートレーニングとストレッチくらいだ。それ以外は用具の準備やタイム測定、部室の掃除などを一人で行っている。
日は既に沈み、辺りは夜の暗さだ。隣から視線を感じる。塚原が無言で目をやると、松谷は微笑ともいえない曖昧な表情を見せた。
「思ったより、しっかりしてんじゃん」
何のことか、あえて言わないようだった。
「まあ、それなりには」
塚原もそう答えるだけにとどめた。少し前、限界まで浮き沈みを繰り返していた感情は、緩やかになってきていた。単純に月日が過ぎたということもあるけれど、怪我の痛みやそれに伴う不便さで、日々気を取られているということもある。
「松谷、」
塚原は足を止めた。ちょうど寮の門が道の先に見えてきた頃だった。小さな照明に照らされて表札が浮かび上がっている。松谷は遅れて立ち止まり、塚原を振り返る。
「うん?」
「ごめん。付き合うって話、やっぱなしで」
「……へえ」
かなり思い切ってそう言った塚原だったけれど、対する松谷は驚いた様子もなく応じた。
「その、お互い好きでもないのに付き合うのも変だし、お前を利用するみたいで嫌だしさ」
松谷のようにさりげなく話そうとしても、やっぱり声が上ずってしまう。彼に対して愛だの恋だのという話をするのは、どうも恥ずかしさが先に来る。
「……何つーか、お前のこと、えっと、まあ好きだから、そういうのは嫌だ」
「そうか」
松谷は肩をすくめ、微かに苦笑した。
「まあ、最近のお前見てたらそう言うんじゃないかって思ってた。なんかちょっと吹っ切れた感じだし」
そう言われて、今度は塚原が苦笑した。
「吹っ切れたっていうより諦めたっていうか、悟ったっていうか」
「恩田のことを諦めた?」
いや、と塚原はすっかり暗くなった夜空を見上げた。
「恩田のことはとっくに諦めてるよ。そういうことじゃなくて、恩田のことは好きだから、そういう自分の気持ちを諦めたってこと」
塚原は恩田のことが好きだ。けれど恩田は別の人が好きで、その人と付き合っている。そういうことをひっくるめて胸のうちにしまうことができたように思う。感情の浮き沈みももちろんあるけれど、以前よりは落ち着いている。
それはやっぱり、あのときの恩田の言動があったからだと塚原は思う。抱きしめられて、彼の激情に接して……何か一つ、恩田から与えられたような気がするのだ。よくわからないけれど、飴玉のように甘く、口淋しいときに舌で転がすようなもの。今の塚原にはそれだけで充分だった。
「ふーん」
「どう言ったらいいかわかんないけど」
塚原が頬をかく。松谷は寮へ向かって歩き始めた。
「りょーかい」
「あ、」
塚原は慌てて追いかけた。「けど、今まで通り、」そこで松谷の声が重なった。
「今まで通りお前と部活も行くし、メシも食うよ。わかってる」
松谷は皮肉っぽい笑みを見せた。
「なんでこの程度のことでお前とどうこうしなきゃいけないんだよ。恩田じゃあるまいし、めんどくさい。今まで通りだ、今まで通り」
「……おう」
奇妙に安心して、塚原は松谷と肩を並べて寮の門をくぐった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます