心二つ

 どうかしている。何が? 自分が。

 恩田が平静を取り戻したときには、彼は教室の席に座って午後の授業を受けていた。弱々しい日差しが窓から入ってくるけれど、温かみはない。教壇では女性の先生が、なにやら英語の構文の説明をくどくど繰り返している。そこから少し視線を動かせば、塚原の頭……白い包帯が巻かれた頭が見える。

 頭は三針縫うほどの怪我だったという。さらに地面に転がされ、腹へも背中へも蹴りを食らったという。教室へ入ってから聞かされたその内容にめまいがしそうだった。こめかみから頬にかけての傷はアスファルトの地面にこすれてできたもので、ガーゼの上にテープが貼られていた。彼は明るく笑って説明した後、いて、とやや眉を下げてまた笑った。


 塚原が怪我をしたことは、三時間目の三木先生の授業で初めて耳にした。きっと隠してもいずれ生徒には広まってしまうことが先生にはわかっていたのだろう、名前は言わなかったけれど、停学中の生徒から暴行を受けたためだと事情を明かした。「病院に行った後、午後から授業に出るとのことなので、いたわってあげてくださいね」と、小学生に語りかけるようないつもの口調で言った。

 驚いた。一瞬で背筋が凍った。ここ一ヶ月、恩田は佐野と時間を合わせて行動していたため、以前よりも早く寮を出ていた。意識して塚原と顔を合わせないように考えていたせいでもあるけれど……こんなことが起こるなんて。

 昼休みに甲斐のところへ駆け込んで、ご飯もそこそこに詳しい話を聞いた。消灯後に寮を出て、商店街の暗い路地で複数の男から暴行を受けたこと。隙を見て走って逃げ帰ったこと。黒い光が頭を貫いて、息が苦しくなった。居ても立ってもいられず、教室に戻ったところで……塚原を見つけたのだ。


 どうしてそんな目に遭わなきゃいけないんだ。塚原が、どうして。

 神様とかいうものが存在するのなら、思いきり首を締めてやりたいと思った。それができない代わりに、強い口調で塚原に詰め寄ってしまった。

 そして、いかにも平気というように彼が笑っているのが許せなくて……


 ――頼むから、俺のいないところで痛いとか辛いとか苦しいとか、そんな目に遭うなよ! そういうときは俺に言えよ!

 ――塚原には笑っていてほしいんだ。何も言わないから、俺のために笑って。


 どう考えても、恩田の言動はおかしかった。あり得なかった。

 それに気づいたのは、午後の授業が始まってからだった。

 だって、塚原がそんな目に遭うから。

 頭の中で、恩田は必死に自分へ言い訳をする。

 だって、何も悪いことをしていない塚原が、見ず知らずのやつらから暴行を受けるなんておかしいじゃないか。人違い? ふざけるな。よりによってどうして塚原なんだ。善良で、素直で、誰よりも正直に生活している彼にはまったく関係ない話じゃないか。理不尽にも程がある。だから俺はそれが許せなくて、なのに当の本人は大丈夫とか言って笑っている。それがまた上手く笑えていない。これを黙って見ていられるかよ。

 頭の中でこれ以上ないほど大きく叫んだ後、恩田は口ごもる。

 それだけではない。自分自身への怒りもあったのだ。

 塚原が酷い目に遭っているとき、のん気に佐野とメールのやりとりをしていた自分。時間を追って考えれば、塚原が寮へ逃げ帰ったとき恩田はまだ起きていたのだ。ベッドに入って天井を見上げていた。少し耳をすませば、ラウンジの物音や彼の声に気づけたのではないか。そこへ捨てたはずの不純な気持ちがまたむくむくとわき起こってくる。

 塚原だって、俺のところへ助けを求めてくればよかったじゃないか。変なやつに囲まれたときすぐに俺に電話してくれれば、飛んで行ったのに。絶対に塚原に手出しさせなかったのに。

 机の上に突っ伏して目を閉じた。唇を噛む。

 ――何を考えてんだ、俺は。

 塚原がそんなことを思いつくはずがなかった。例え思いついたとしても絶対に実行するはずがなかった。わかっている。また、自分の悪い癖だ。

 そんな気持ちがまだ心に残っているから、あんなことを言ってしまったのだろう。自分勝手な気持ちから彼の無事を確かめたくて、抱きしめてしまったのだろう。塚原の方が冷静に恩田をなだめていた。感情に流され、立場をわきまえていなかったのは恩田の方だった。今回も、また。



 その日の夕食のとき、佐野もどこか沈んだ声で話した。

「停学中のやつらに襲われた子がいたって」

「……はい、俺のクラスのやつで」

佐野の前でも取り繕うことができず、恩田の声は低く小さかった。それ以上のことも話す気になれない。

「塚原って、友達の」

「はい。……人違いで、あいつはなんにも関係ないんです」

「らしいな。前からあいつらには色々噂があったけど、全部本当だったってことか」佐野は停学中の三人組の名前を口にした。恋人である佐野の声であっても、その名前を聞くことは不快だった。


「どうも、フード付きのパーカーを着てたってのも一因だったって聞いた」

「え……」

「三年の先輩に聞いただけだけど。絡まれてたやつ、たかはら? だっけ。いつもフードかぶってたってさ。三人組と一緒にいるとき、それでよく目立ってたって」

 それを聞いてふと脳裏にひらめく記憶があった。少し前、佐野の部屋に泊まった夜。部屋に向かう途中でフードをかぶった男とぶつからなかったか。それで嫌な予感を感じ、塚原の部屋を訪れたのだ。

 まさかあの男が……あの男と塚原は間違われたのか。

 恩田は冷たい感覚が背筋を這うのを感じた。焦った様子で走り去った後ろ姿……あれは三人組から逃げていたところだったのだろうか。わからない。けれどそれが本当で、それをあのときわかっていたからといって恩田にできることは何もなかったことには変わりない。


 目の前にいる佐野のまっすぐな視線を感じても、恩田はしかめた顔を引っ込めることができなかった。

「…………」

 佐野はそれ以上は何も言わず、夕食を食べ終えると席を立った。座ったままの恩田の肩を軽く叩いて歩き去っていく。一瞬、声をかけなければいけないと思ったけれど、口は重く開かなかった。ため息をついて残りの食事を片付けた。


「よっ」

 その後席を立とうとしたところで、声をかけられた。見覚えのある長身の男。

「恩田だろ」

「お前……松谷、か」

 驚いて男を見上げる。塚原と同じ長距離陸上部に所属する男だった。部活帰りなのか、学校名が入ったウインドブレーカーを着ていた。唇だけで笑みの形を作っている。

「うんそう」

「…………」

「あ、塚原ならいねえよ。もう部屋行った」

無意識に食堂内を見回していたことを言い当てられ、むっとした。そんな恩田の様子に構わず、松谷はどっこらしょ、と恩田の向かいの席に横向きに座る。

「……何か用」

意図せず声が低くなる。

「まあ、用ってか……一言言いに?」

 松谷がテーブルに頬杖をついて恩田を見やる。軽い口調とは反対に、目は鋭く強い光を放っていた。その目を見ただけで、彼が何を言おうとしているのか、恩田には半分わかったような気がした。そしてそのせいで、さらにいらだちが募り始める。


「あいつのこと、見てらんないだろ」

「…………」

「まあ、その気持ちはわかるよ。俺だってそうだもん」

恩田の目を見ながら、松谷は脚を組み替えて座り直した。

「今日に限ったことじゃない。あいつ何かこう、何かしてやろうかなって思っちゃうんだよな。素直だけど、意地っ張りだし。でもちょっと鈍いとこもあってさ。構い甲斐があるって言ったらいいんかね」

 彼の言葉を聞きながらだんだんと自分の顔が険しくなっていくのが、恩田にはわかった。塚原のことをわかったような言い方で話す口調も、型に嵌めて分析するような言葉も、どちらも不快だった。松谷はそんな恩田の顔を見ながら、口許の笑みを深くした。

「……で?」

「だからさ、あんたがふらふらしてるのが気になるんだよな」

次に言葉を続ける松谷の顔は、笑っていなかった。

「今までのあんたと塚原のことはだいたい聞いてるよ。塚原から。俺は部外者だからどうしようと二人の勝手なんだけど、今日のことは黙って見てられなくってさ」

思わず恩田が視線をそらす。松谷は小さくため息をついた。


「塚原のことを心配してたみたいだったけど、あんた全然あいつのこと見えてないじゃん。肩掴んだときあいつが痛がってたのわかんなかった? 肩も怪我してたんだぜ。そんでよくもまあ抱きしめてあんな言葉吐けたもんだよ。塚原は否定するけど、俺はあんたのこと、なんて残酷なやつだろうって思った。

 ……そんな顔するけど、やってることはそうだろう。ひとりよがりの心配ってやつ。はっきり言うけど、あんたさ、あいつにずっと好かれてたいって思ってんじゃないの。自分は恋人いるくせに」

 ――こいつ。

「んなわけないだろ。何言ってんだ」

 恩田はテーブルを叩いて立ち上がっていた。忌々しい目の前の男を睨みつける。……それでも、それ以上の反論の言葉が出てこなかった。それがさらに腹立たしい。松谷は平然としてその視線を受け止め、肩をすくめて立ち上がった。一度こちらに背を向けたけれど、肩越しに低い声を出した。

「図星だろ」

「……っ」

「ふらふらすんなよ。迷惑だから」

そう言うと、恩田の反応も見ずに松谷は立ち去った。



 腹の底が熱くなるような、激しく渦巻く怒りに駆られた。自分でも自覚している痛いところを松谷に突かれて、腹立たしい。

 ――あんたさ、あいつにずっと好かれてたいって思ってんじゃないの。自分は恋人いるくせに。

 そう言われて、反論ができなかった。そんなわけないだろうと言ったけれどそれ以上は声が出なかった。

 自覚していた自分勝手な気持ち。

 塚原に黙っていること。

 初めて話す相手に暴かれたことが、屈辱だった。

 わかったような顔で塚原のこと話しやがって。


 自分の部屋へ向かう。ドアの前に立って、ため息をついた。たぶん甲斐は部屋にいるだろう。彼が何を言うか、聞くまでもなかった。けれど部屋に入らないわけにもいかない。

 呼吸を整えてからドアを開けると、甲斐と目が合った。彼はベッドに背を預けて携帯電話を手にしていた。昨日の今日だ。恋人の先輩とメールで塚原の件をやりとりでもしていたのだろう。

「……おかえり」

「うん」

そのままクローゼットへ向かい、着替えを取り出しながらどんな言葉が飛んでくるかと身構えたけれど、甲斐は何も言わなかった。

「風呂行く?」

「行く」

 恩田の返事を聞き、甲斐も着替えを用意し始める。お互いクローゼットを前に背中合わせになったところで、静かな声がした。

「……反省も弁解も聞かないから」

「……ごめん」

「謝罪も聞かない。松谷と話したんだろ」

「うん」

「松谷、あのとき拳握って震わせてたんだよ」

「…………」

 あのとき、というのは昼休みのことだろう。塚原を抱きしめてしまった後、甲斐はそれらを冗談に紛らわせてくれた。

 腹の底で燃えていた怒りが急速におさまっていき、代わりに苦い味が口に広がるような心地があった。恩田が自分の感情に任せて塚原を抱きしめてしまったとき、松谷は塚原の気持ちを思って怒りに身を震わせていたのだ。


「……俺がお前に言いたいのはさ、」

着替えを取り出す手を止め、少し声の調子を変えて甲斐が言う。

「好きだから恋人にしたいと思う。それは誰だって当たり前のことだ。けどその逆、恋人だから好きだって思うわけじゃないだろ」背を向けたまま続ける。「俺にはわかんないよ。クラスメイトだから好きじゃないとか、相手の恋愛対象が違うから好きじゃないとか……好きっていう気持ちってそうやって決めるもんなの? そうやって決めた後に心と身体を従わせるの?」

 思わず振り返って甲斐を見てしまう。今、自分がひどく情けない顔をしていることが自分でもわかった。

「それがお前の気持ちのあり方ならそれでいい。佐野先輩のことちゃんと好きなのかとか訊く気もないよ。けどお前……佐野先輩のことも塚原のことも、まだはっきり自分の気持ち決まってないんじゃない。頭で決めたつもりでも、気持ちがふらついてる」

 今更塚原のこと何とも思ってないとか言うなよ、と甲斐はため息混じりに言う。その言葉の意味するところがまた、恩田に重くのしかかる。


 中学の頃から好きだった佐野に告白した。朝が弱いという塚原の世話をしてやった。どちらも恩田の中では偽りのない気持ちから行ったことだ。けれどその後はどうだろう。

「身も蓋もない言い方だけどさ。お前、佐野先輩のことも塚原のこともどっちも好きだろ」

「……なっ」

「別によくあることじゃん。責める気はないよ。ただ、それを認めないなら振った塚原に対して今日みたいに接するのはフェアじゃない」

「…………」

「中学のときから佐野先輩が好きだったってことも、塚原の世話をしたことも関係ない。今、お前は誰の傍にいたいの? 誰を望んでるの? 考えるのはそこだと思うけど」

 恩田はうつむいたまま黙っていた。これまで考えないようにしていたことをはっきりと突きつけられて、言葉が出なかった。



 二人で風呂場へ向かい、甲斐に一言断って先に一人で湯船につかる。他にも生徒が何人もいて、足を伸ばせばそれ以上は身動きが取りにくい。壁に背中を預けて恩田は浴室内を眺めた。熱い湯から、シャワーからいたるところで湯気が立ちこめていて、視界はやや霞んでいる。湯船の縁を見て、無意識に一人の後ろ姿を思い描いたことに気づいて、恩田は頭を振ってそれをかき消した。


 ――恩田、ばか、ダメだって。

 泣き出す寸前でそれをこらえる塚原の浅い呼吸が、恩田にはひどくもどかしかった。勝手な言い分であることを承知で言えば、彼をかき抱いて、自分の腕の中で泣いてほしかったのだ。年が明けてからずっと、自分に対して感情を見せまいとぎこちない態度を取る塚原を見るたび、もどかしくて。前まであんなに朗らかだった、彼の感情をどうしても目にしたくて。

 佐野が同じ目に遭っても、同じ気持ちになるのだろうか。

「……違うだろう」

 自分で考えを巡らせておいて、それを否定する。そもそも比べようもないのだ。恩田自身の感情が違うのだから。我を忘れて相手の身を心配し、犯人に凄まじい怒りを覚えるのはきっと同じだろう。けれどあの場でもどかしかったこと、悔しかったこととは何か。

 塚原を助けることができなかった自分。それが一つ。

 もう一つは、恩田が立場もわきまえず塚原に感情をぶつけてしまったのに対し、彼が正しい一線を引いて接したことだった。

 当たり前のことだ。塚原は彼自身と恩田と佐野のために正しく線を引いたのだ。わかっている。彼が間違ってもその線を踏み越えてくることは絶対にない。それでいい。それでいいのに。

 説明がつかない感情のうねりが恩田の胸のうちで繰り返し渦巻いて、子供のような駄々をこねるのだ。どうして線を引くんだ。どうして感情を隠すんだ。どうして俺に身を委ねて辛かったと泣いてくれないんだ。どうして、どうして……。


 たぶん、俺はきっと、塚原が好きなんだ。


 気持ちのたどり着く先を、恩田はもう随分前から自覚していたような気がした。自分がどれだけ勝手で浅ましいか思い知らされて、自己嫌悪に吐き気がする。二年間想い続けてようやく恋人になった佐野がいるのに、どうして他の男を好きになれるのか。百歩譲って心の中で惹かれるのを止められなかったとして、だったらどうして行動を常識的に抑えられなかったのか。塚原に言うべきことを言わず、勝手な思いをかけて、思うままに接したのか。


 塚原に惹かれていないと言うのであれば、彼とのことが噂になった時点ですっかり交流を断てばよかったのだ。佐野の誤解は解け、彼は恩田の告白を受け入れてくれた。塚原の告白は断った。それがすべて。それでよかったのだ。

 それに不満があるというなら、それは恩田の気持ちなのだ。

 そもそも、恩田は佐野のことが好きだったわけで、そこに塚原の存在が入り込むこと自体が、初めから佐野より塚原を見ていたことの表れだったのではないのか。それを認めるのが後ろめたかっただけで。――誰に対して?

 自己嫌悪を感じるくらいだったら、始めからしなければいい。

 俺は本当に馬鹿だ。

 湯へ頭を突っ込んで、そうつぶやいた。以前、全身を湯の中へ沈めてうずくまっていた塚原の姿を思い出す。どこか拗ねたような表情で話をしていた彼。あのときは、自分のことをどう思っていたのだろうか。

 息が続かなくなって、顔を上げる。周りの生徒から驚いた視線を向けられた。気づかない振りをして湯から上がり、洗い場へ向かう。


 ――中学のときから佐野先輩が好きだったってことも、塚原の世話をしたことも関係ない。今、お前は誰の傍にいたいの? 誰を望んでるの? 考えるのはそこだと思うけど。


 どうするのか。

 どうもしないでおくのか。

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