もう一つの幽寂閑雅

 波の音が辺りに響く。押しては引いて、引いては押して、無限に続く。それはきっと俺達と似ている。毎日のように明日がくる。そして似たような毎日を過ごす。

静かに繰り返す、気付かぬうちにあやふやに、でも確実に──



──と思っていた時期が俺にもありました。

 彼─魚家 涼夜(うおいえ りょうや)はソファーに座りながら手を組み口元を覆いながら、チラリと隣りに座る青みがかった髪の少女を見る。白い肌に、淡い桜色の唇に、そこそこ残念な乳房。そして何よりも彼を魅了したのは少女の目だった。それは汚れの一切ない真水の様に透き通る青い瞳が、まるで彼を包むような錯覚を起こす程だった。

 さて、涼夜は何故こんな自体になったのだろうか、とふと思う。時は数時間前に遡る。



 秋と言っても昼でも若干の夏っぽさを秘めた空気に涼夜は目を覚ました。首を左右に曲げるとボキボキと音をならし、両肩をグルグルと回すとベッドを降りた。そして寝間着用にしている白のシャツと黒のズボンを脱ぎ捨て、青いシャツと灰色のズボンに着替え、部屋を出た。

 涼夜はリビングの扉を開けた瞬間、寒気がした。いや、冷気が漏れ出してきたのだ。

「寒っ……夜冷房入れたっけかな?」

 涼夜はリビングの扉を閉めると視界の端に漁られたかのように開かれた冷蔵庫があった。恐らくずっと開けっ放しだったのだろう。しかし、何故開けっ放しになっているのだろうか。

(まさか泥棒か?)

 涼夜は近くに掛けてあったハエ叩きを手に取り、何故かは分からないがゴーグルをすると、人影へとジリジリと距離を詰める。どうやら泥棒は台所の下で何かをしているようだ。

「悪霊退散☆泥棒成敗!」

 涼夜はそう叫びながら泥棒にへとハエ叩きを振るう。ベチーンと音と共に女の子の悲鳴が聞こえてきた。

「キャッ!」

(え? 女の子……?)

 涼夜はゴーグルを外し見てみるとそこには全裸の少女がいた。しかし、普通の少女とは少し違った。だが、その時の涼夜にはそんな事はどうでも良かった。

(誰だこの子……)

 淡い青みがかった髪を揺らし少女は立ち上がると潤む瞳を向けて頬を膨らまして涼夜を見る。

「突然何するんですか! 酷いじゃないですか!」

「いや、お前誰だよ…って!」

 涼夜はふと思い出し、顔が真っ青になった。

「リオネ!」

 そう叫ぶと涼夜は少女の横をすり抜け、冷蔵庫を除き込む。そこには壊れた小さな水槽があった。

「あ…あぁ……!!」

 彼は冷蔵庫でクリオネを飼っていたのだ。それは死んでしまった父親の数少ない自分へのプレゼントだった。

「ウソだろ……」

 膝をつき、頬には涙が伝った。その時、彼を除き込むように少女が顔を出す。

「リョーさん何で泣いてんのさ?」

「リオネが……俺の家族が……」

「リオネならここにいるよ」

「はあ? 何処にだよ!」

「ほらほら、ここここ」

 そう言って少女は自分を指差しながら笑う。

「ここにリオネいるでしょ?」

「はぁ? お前…何言って…」

 涼夜は少女の体をよく見てみると、胸の辺りはクリオネのように赤い部分がある。そして腕にはヒレのようなものもついている。どうして今まで気が付かなかったのだろう。

「リオネなのか?」

「リオネだよ」

「そうか、リオネか」

 しかし、「はい、そうですか」とはならず。

「何で女体化してんだよ!? そうか、これは夢なんだな……疲れてるしなぁ、俺」

 そう言って一人で頷くとリオネと名乗る少女は涼夜に背中を向け、深刻そうな表情をする。

「リョーさんが受け入れられないのはリオネの責任だ、だがリオネは謝らない」

そう言うとリオネはドヤ顔をキメる。

バチコーン、と音を立て涼夜はハエ叩きで少女の頭を叩く。

「いや、謝れよ」

「だがリオネは謝らない」

再びリオネはドヤ顔をキメる。涼夜はハエ叩きで少女を叩く。

「仕方ない……これが現実かどうか試すか……」

そう言うと涼夜はポケットから携帯を取り出し、電話を掛けた。

トゥルルルルという音がしばらく鳴った後、男の声が聞こえてきた。

「モスィモスィ」

「おいジョージ! お前さ、目の前に女の子が居たら信じるか!?」

 涼夜はヘラヘラしやがら親戚の家を貸している友人─穣治に問いかける。

すると彼は不機嫌そうに答えた。

「声でけぇよ…人は寝てんのよ? ってか、女の子ぐらい星の数だけいるだろ…?」

 シメタ! 涼夜はこう答えるのをわかってたかのように言う。

「でも君と言う月は一人しかいない……ってそうじゃなくてさ、目の前に全裸の女の子がだな──」

 涼夜はキメ顔をしながら話を続けようとすると、穣治が遮った。

「遂に酔っ払った女の子をお持ち帰りしたのかー…まあ、お前はいい奴だったよ。じゃあ─」

 穣治は本当に寝起きらしく、かなり機嫌が悪い。しかし、あともう一押しが欲しかった。

「俺達親友だろ! なっ? なっ?」

「その言葉ってホント心無いよな」

 一段落した所で涼夜は本題に入る。

「それはそうと置いといてだな、俺がクリオネ飼ってるのは知ってるだろ?」

「ん……あぁ、飼ってたな」

 涼夜は獣医であった母親から聞いたことがあった。犬や猫などの動物が人間に進化してしまう突然変異が極々希にあると言う事を。もし、今回のそれなそうならば…きっとそれは「人化」という突然変異しかない。だから涼夜はこう言った。

「それが人化したんだよ!」

 きっと穣治なら適当に流すだろう、そう思っていたが─

「人化だと!? お、お前もか!?」

 穣治の反応に涼夜も大声を出す。

「お前もって事は……お前の羊もか!?」

「ナンテコッタイ」

「パンナコッタイ」

 穣治と話したい事は沢山あった。だが今は落ち着くべきだ。そう判断し、涼夜は明々後日に会う約束を提案した。穣治は直ぐに承諾した。

 涼夜は電話を切ると少女を見つめた。

「とりあえず、服着せるか」

「?」


 涼夜は自室の引き出しを適当に漁ると、母親が昔間違えて買ってきた女の子向けのピンクの袖なしTシャツと、クリーム色の胸元にある雪の結晶のバッジが目立つ半袖カーディガンを見つけた。そしてその隣にあった黒の短パンを渡した。

「これ、来てみろよ」

そう言うと、リオネは今更ながら頬を赤らめる。

「こっち、ゼーッタイ見ないでよね!」

「今更かよ」と思いながらも涼夜は返事をすると、リオネに背中を向ける。

しばらくすると、リオネが自ら声をかけてきた。

「出来たよー」

 涼夜は振り返ると、思った以上に似合っていた為か言葉が出てこなかった。

「……」

「へん…かな?」

「いや、いいんじゃないかな」

「あっ、でも…」

「…なに?」

「ちょっと下がチクチクっていうか…その…ね」

 涼夜は「はて?」と思考を巡らせ、すぐに理解した。

「今、ノーパn」

涼夜は満面の笑みで答えを口にすると、リオネはリビングから持ってきたのかハエ叩きで涼夜の頭を思いっきりひっぱ叩いた。



 そして今に至る訳だ。テレビを見て笑うリオネの隣りで静かに瞼を閉じ思った。生き物には無限の可能性が秘められた存在なんだと。

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