魔女のもう一つの話

玖田蘭

魔女のもう一つの話

 王宮に閉じ込められた魔女がいた。

 夜闇の冷たさを髪と瞳に閉じ込めた魔女は何百年の長きを生き、何度も王の膝元に鎖を付けられた。彼女がいれば国は栄える。戦争に負けない。

 歴戦の軍師ですら顔を青ざめさせる彼女の軍略や知識に、大国の皇帝もまた目をつけ、そして彼女を属国から簒奪したのだった。


「貴女が魔女姫殿、我が帝国にとこしえの繁栄をもたらす、宵闇の魔女殿」


 彼女の名前を知るものはみんな死んでしまった。

 破天荒な瑠璃色の騎士も、静謐であった白銀の神官も、峻烈な紅い皇帝も、皆今では揃って土の下だ。


「早速だが魔女姫殿、私の、否この帝国の為に策を講じていただきたい」


 眼の前に立つ赤金の瞳の皇帝は、何処か記憶の中の彼女の主によく似ていた。聡明そうな顔立ちはどちらかと言えば文官のようだったが、いつものように彼女は膝を折り頭を垂れ皇帝の影に一つキスを落とすと、懐から煌びやかに光る宝石を取り出した。

 ローブからこぼれた彼女の長い髪が、床に落ちる。


「畏まりました、皇帝陛下。時代錯誤の魔導でよければ、私は貴方の力になりましょう」


 笑っているわけでも、怒っているわけでもない。

 凪いだ海の様に、或いは表情の変わらない仮面のように、そしてまるで一本調子な声でもって彼女はそれを受諾した。宝石は、誓いの証だ。


「貴女が私の杖となってくれるならば、心強い。歴戦の猛者も、貴女の魔導にはかないますまい」

「いいえ、陛下」


 若い皇帝の自信と憧憬に満ちた声を一度さえぎって、彼女は一度首を振った。宰相や軍の長官が見ている前であったが、彼らは皆動きを止められたように魔女を見詰めている。見れば、影が地面に縫い止められているようだった。


「私の魔導は、すでに過去の遺物なのです。私に出来ることは、陛下が心憂うことなく国を治める、その手助けでございます。私は貴方の父君も、そのまた父君も知っておりますが……」

「戦で国を追いやった、馬鹿な男です。私はそのようにならない。私はこの戦争を一刻も早く終わらせて、民を癒さねばなりません」


 抜き身の刀のようだった瞳が、少しだけ和らいだ。

 影を縫い止めていたのは正解だっただろうか。今にも抜刀しそうな軍人たちを横目に、魔女は少しだけ息を吐いた。

 戦争が嫌いなのは、魔女も一緒だ。誰もかれもが、彼女の力で人を殺そうとするから。


「頼む魔女姫殿、我が父祖を支えたその御力で、再び我が国に平穏をもたらしてくれ」


 領土を得るための戦いではなく、平穏を取り戻すための戦いがしたい。

 自らの危険を顧みずにそう言ってのけた若い皇帝に、魔女はその日初めて微笑みを見せた。

 どこか昔を懐かしんでいるような、そして決して未来を見てはいない笑い方だった。



 皇帝たっての希望で、魔女はある部屋に呼び出された。国の主だけが私室とすることが出来る、紅い部屋。魔女の力と皇帝の権限において渋る侍従たちを外にほっぽり出してから、静かな会談は始まった。


「祖父は、南の肥沃な大地を欲しがりました」


 おおらかな気性の南の国に無理難題をひっかけて、そして挙句侵攻略奪を繰り返す。祖父帝は帝国に、南の植民地を授けた。武勇をもって知られた祖父帝は今でも一部の軍人に髪のように崇め奉られている。


「父は、鉱山がある北の大地を欲しがりました」


 金銀宝石、発掘されれば国の富になる。

 祖父帝の威光を笠に着た父帝は、それこそ湯水のように金を使い鉱山を手に入れた。逆らうものは「落盤事故」の犠牲になったし、あまりに非道なやり方に他の国々も北の小国を幾つも生贄にした。だから帝国は、今でも諸国で一番の金持ちだ。


「けれど戦争が続けば、肥沃な大地とて枯れ果てます。鉱山だって掘りつくせばただの石の山になる」


 彼が皇子から皇帝になった時、民は疲弊し国は荒れ果てていた。権力を持つのは軍人ばかりで、国内の内乱も日に日に大きくなっている。

 どんな手段を使っても、彼は国を元通りにしたかった。お伽噺で読んだ、自らの父祖が治めた夢の国にしたかった。


「魔女姫殿、私は隣国へ休戦の調停に行きたいのだ。だが誰も彼もが私を見張っている。玉座についていない皇帝は最早ただの餓鬼と同じなんだ。ここを離れれば、きっと誰かが私を殺す」


 自分の命に関わることだというのに、皇帝は何も気に留めない風にそう言った。

 自分の代わりは幾らでもいるという。年若い皇帝に子供はいなかったが、彼に連なる親族ならば掃いて捨てるほどいた。


「私の命をもってしても、恐らく傷ついた民は癒せない。きっと私たちが戦争の傲慢と禍根、そして傷跡から立ち上がるには、もっと時間がかかるだろう」


 それでもここで、誰かが止めなくてはいけない。

 壊れたままの時計が部品から腐食していくように、国が壊れないようにするには何処かで歯車を取り換えなければならないのだ。


「私は、陛下をお守りすればいいのですね? 道すがら、万が一にも玉体に傷がつかぬ様」

「いや、自分の身くらいは自分で守れる。貴女は何もしなくていい、この帝国に魔女姫がいるという、抑止としてその事実だけあればいいんだ。私についてきてくれれば、その身も私が守る。仮にもこの国は騎士の国だ。女性の手を汚すような真似はさせない」


 皇帝は決意した表情でそういったが、魔女は薄く笑って首を横に振った。

 かつて、魔女は軍人だった。主の傍で、有り余る魔導の才を尽くした軍人だった。


「いいえ、陛下。私は約束しております。私は皇帝陛下の杖、守るものは数多あれど、決して守られてはならないのです」

「……それは、我が父祖と交わした契約ですか」

「えぇ。契約などという大それたものではないけれど、約束したんです。私の……私たちの皇帝陛下と、自分の師匠に」


 国一つをも容易に滅ぼせるというあの魔女姫の、師匠。

 そんな話は、皇帝も知らなかった。契約を交わした父祖がどの代であるかもわからないが、そもそも彼女に師がいたという話は聞いたこともない。


「もう長いこと会っていないし、何処にいるのかもわからない師匠です。けれど、世界で一番愛している人でもあります」

「生きて、いるのか? その師匠というのは」

「さあ、本当に長いこと会っていないのですが……そうですね、彼は何度死んでも笑って私の前に現れてくれたから。多分、生きてるんじゃないかな」


 少し困ったように笑う魔女の表情に、皇帝は僅かに目を見開いた。

 誰よりも思慮深く誰よりも賢いと言われている彼女の表情が、その時だけは十七、八の娘のようなものに見えたからだ。


「でも、陛下がそう言ってくださると心強いです。実を言うとここ百年くらい、実戦で魔導を使ったことがないので」

「貴女は……ずっと共和国の「鳥籠」にいたはずでは?」

「はい。でも、私に対抗できる方が誰もいなかったので。たとえ私が暴走して止められないから、名前だけ借りて閉じ込めていたんです」


 そう言うと、皇帝は少しだけ動きを止めた。

 恐らくこの魔女に対抗できるのは、この帝国の大将軍でも不可能だろう。もし、魔女が自分にその力を向けたら。――いや、その覚悟がなければわざわざ彼女を奪ったりなどはしない。


「私が間違えたら、貴女が止めてくれ。間違いを犯さずに国を治められる君主になれるとは思っていないが、国と民をこれ以上傷つけるような真似はしたくない」


 皇帝としての彼を表だって止められるものは誰もいない。毒殺なりなんなり、気に食わない皇帝の首を挿げ替える事なら軍閥の人間が幾らでもやりそうだが、面と向かってその首を頂戴するとは未だに誰も言えないのだ。


 ただ、この魔女ならば。

 道を違えた皇帝は、偶像になってはならない。暗君としていきたならば相応に惨めたらしく死ぬべきだと、彼はそう考えていた。それくらいでないと、国家君主は務まらない。


「もし、私がかの国との交渉に失敗し、それが私の命でしか贖えない場合は……この首を銀の盆にのせてくれ。ここに私の味方は存在しない。こんなことを頼めるのは、貴女だけだ」


 挿げ替えられた首が彼のものであるか適当な罪人の者であるかを決めるのは、宰相たちの仕事だ。

 ただこの魔女さえいれば、自分は祖父帝にも父帝にも劣る暗愚な皇帝のままで死ねる。そう意味を込めた言葉に、魔女はまたしても首を横に振った。


「いいえ、死なせはしません。先ほどの陛下との契約を持って、私は持てるすべての力で陛下の命をお助けします。交渉も、陛下がそうと望まれるのならば全力で補佐いたします」


 きっぱりと魔女は言い張り、皇帝の手を取った。

 最凶最悪の魔女とは思えない、優しくて温かい手だった。


「きっと私の師匠ならそうすると思うんです。だから私も、陛下もこの国も、欲張りに全部守ってみせます。あの時はできなかったけど、今の私にはそのための力があるから」


 喋ってみれば、宵闇の魔女はなんてことはない、一人の少女のようだった。そこら辺に転がっていそうな、まったく普通の女性。

 けれどその微笑みは決して皇帝その人を見ることはなく、常に過去に向けられていた。

 ――或いはこれが、永劫を生きる業なのか。

 頼もしげに胸を張る仕草を見せた一人ぼっちの魔女の手を上からさらに包み込んで、皇帝も微笑んだ。自分もまた、一人ぼっち。


「では、貴女には私の隣を守って頂きたい。願わくば、対等に歩みを進めんことを」


 それが今、力を持たない彼に出来る唯一の誓いだった。

 敵地へ赴いて交渉することも、自らの陣営の目を欺いて玉座を開けることも、全て覚悟はできている。次にこの国に戻ってきた時、彼ことゼルフォード・リ・ハイドランジアが当代皇帝であるという保証は、何処にもない。

 それでも、握った手は温かい。それでよかった。



 皇帝は一振りの刀と旅支度。擦り切れた鞄に呪具を突っ込んだ魔女の耳には、紫色の耳飾りを付けて。

 夜が明ける少しだけ前に、一台の馬車が王宮を発った。そこから先二人がどんな世界を見たのかは、この世のどのような文献にも残されてはいない。

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魔女のもう一つの話 玖田蘭 @kuda_lan

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