ナッツクッキー
今日はいつぞや檸檬さんから悪魔の食物と罵倒されたナッツクッキーを作ることにしました。
娼館で二週に一回開催されていたお茶会でそれなりにリクエストがあったにもかかわらず反対意見によって封殺され、結局三、四回くらいしか作ったことがない例のアレです。
最初に作った時に大好評かつ大不評、というよくわからない評判をいただきました。
当時はわけがわかりませんでした、作り手の私に対して数々の罵倒や文句をぶつけつつクッキーを貪り喰う彼女達の気迫はとても恐ろしかった事を覚えています。
どうしてこんな事態になったのかその理由を皿の中身が空っぽになった際に美也子さんに翻訳してもらって、ようやく事態をのみこめました。
曰く、ナッツクッキーはとても美味しかった。
曰く、ごろごろとしたナッツの食感とザクザクのクッキーの食感が絶妙であり、食べるのが止まらなくなった。
曰く、しかし、このクッキーはどう考えても高カロリーである、確実に太る。
曰く、更に食べ続ければ顔に出来ものができる可能性が高い。
以上のことが原因で彼女達は暴言を吐きながらクッキーを貪り喰っていたのです。
つまり彼女達は自分の食欲と戦ったものの完敗し、その結果出てきたのが私への罵倒という形をした負け惜しみだった、というわけでした。
ちょっとひどいような気がします。
確かにあの頃はまだ私があの人達に馴染んでいませんでしたし、十五歳の少女の身で娼婦ではなく従業員の立場に甘んじつつ、趣味でお菓子まで作っていた私への反感が強かった為仕方ないといえば仕方なかったのでしょうけど。
仕方ないのかもしれませんが……あれはやっぱり……正直言って怖かったですね。
あんなヒステリックな罵倒が飛び交うお茶会、あとにもさきにもあれだけでした。
檸檬さんとか特にひどかった、一番文句言ったくせに一番食べてたの彼女でしたから。
私がまともな精神してたら半泣きで引きこもってたと思います。
まあ、まともじゃなかったから別に平気でしたけどね。
ただ怖かっただけで。
そんな思い出深い品を作ろうと思い立ったのは先日の事なので、材料はすでに用意済みです。
と言ってもナッツ類を買いたしただけで他はもう揃っていたのですが。
もう一度不備がない事を確認して、それでは調理開始。
「…………」
オーブンの中で焼けていくクッキーをぼんやりとみていました。
一週間分のおやつなので、七枚……だと並べる時にバランスが悪いので、八枚にしました。
そうしたら大体握りこぶしくらいの大きさになりました。
現在の時刻は二時二十分、焼き上がるのが二時半ほどになるので、そこから冷やして三時頃に食べる予定です。
それにしても、このクッキーを作るのは久しぶりですね。
他のクッキーなら何度か作ったのですが、どうして今までこれを作ろうと思わなかったのでしょうか。
ぶっちゃけ自分が作るクッキーの中でこれが一番気に入っているのですが……
まあ、単にタイミングが合わなかっただけでしょう。
それだけできっと深い理由なんてないはずです。
それから九分が経過。
オーブンの中のクッキーは狐色に焼けていました。
もうそろそろ取り出してもいい頃合い、だけど残り一分もないし、最後まで焼いちゃいましょう。
と、その時。
がちゃり、と小さな音が聞こえてきました。
な、何故……!?
そんな馬鹿な……今日はこんな早く帰ってくる予定ではなかったはず……
だから今日この日にクッキー作りを決行したと言うのに……
どうする? 今すぐオーブンからクッキーを取り出してどこかに隠す?
いえ、それは無駄な抵抗です、匂いでばれるのは明白です。
こうなったら榊さんがこちらに来ずに部屋に引きこもる事を祈るしか……
そうすればこっそりクッキーを部屋に持ち込んで隠せば何とかなります。
その後にここを換気しきって証拠隠滅をすれば万事解決です。
それくらいしか可能性はありません。
だから来ないで下さい榊さん、お願いですから。
耳を澄ませながら祈ります。
聞こえてきたのは足音……と、話し声?
はい?
思わずオーブンの前で息を潜めました。
誰?
よく聞いてみると、一つは若い男の声、もう一つは幼い少女の声、もう一つは榊さんの物でした。
榊さんの声が聞こえてくるので、盗賊に押し入られた、と言う事は無いと思いますが……ほか二人はいったい誰でしょうか?
榊さんが誰かをここに連れてくる、と言う事は今まで一度もなかったのですが……
話し声は未だに続いています、聞こえてくる声の雰囲気が悪い物でない事が救いですが。
こっちに来ないで下さいと言う祈りは続けていましたが、聞こえてくる声がどんどん大きくなってくるので、多分駄目ですこれ。
がちゃり、ととうとうリビングのドアが開かれる音が聞こえてきました。
息を潜めたまま、私はオーブンの前で蹲っています。
ここまで来たらもう望みはほぼゼロですが、何とかスルーしてくれないでしょうか、と未だに悪足掻きのような事を考えていました。
「何かいい匂いしません?」
「本当だ、何だろう?」
順に聞いた事の無い少女と青年の声が聞こえてきます。
あ、やっぱだめですこれ。
開口一番にそれを言われるとは思いませんでしたよ……
思わず額を押さえました。
額を押さえている間に、足音が聞こえてきました。
今後どうなるかの予想なんてとっくについているのに、何故か心臓が苦しいです。
足音はどんどん近づいてきます。
当たり前ですけどね。
それよりも無言なのが怖いです。
ホラー映画で幽霊から隠れている人の気持ちってこんな感じなのでしょうか、と思いました。
阿呆な事を考えていたら足音が止みました。
「……何をしている」
そして声が聞こえてきます。
そう言うあなたこそ、何で今ここにいるんですか、何やってんですかあなたは。
という疑問は飲み込んで、取り敢えず返答をしました。
「………クッキー焼いてます」
その瞬間、オーブンのタイマーが0になり、焼き上がりを知らせるピーと言う音が虚しくキッチンに響きました。
「へえ」
興味なさそうな声色ですが、その次に続けられる言葉は大体予測がつきます。
なので先手を切る事にしました。
「出来は悪いですけど、一枚いりますか?」
これにYesと答えてくれれば被害は最小限に食い止められます。
単純に8分の1の損失です。
しかしまあ、そううまく問屋が降りてくれるはずがないわけで……
「全部寄越せ」
………………………………
ですよねー。
「……ですから、人にお出しできるような品物ではないのです」
それから私はほとんど無駄な抵抗を続けていました。
いつものように全部持っていこうとする榊さんに、見目が悪いからの一点張りで渡すまいと抵抗を試みる私。
見目が悪い、と言う一点を誇張して、つらつらと不必要な言葉を付け加えつつ長々と説得を続けました。
そんな無駄な足掻きを続ける私を榊さんは不遜な目で見つめた後。
「どうでもいいから寄越せ」
と、無情な事を言ってきました 。
「一枚なら……」
「全部」
仕方ないのでこちらが少し妥協する事にします。
「……半分」
「全部だ」
もう嫌ですこの人。
私だって、全部持っていこうとしなければここまでの抵抗はしません、一、二枚なら別にいいとさえ思っています。
それなのに何故全部持っていこうとするんでしょうか、それも毎回毎回。
本当に止めて欲しいです、こっちは少ない食費を切り詰めて製菓用の資金を作っていると言うのに。
「……五枚で手を打ってくれませんか」
「ごちゃごちゃ煩い、いいから全部寄越せ」
だからそれは嫌なんですってば。
これ以上の損失は避けたいのですが……
それでも仕方ない、最終的に最後の一枚だけは死守しようと決意して、もう一度妥協案を言おうとした時、聞き慣れない声が突然聞こえてきて、身体が跳ねかけました。
「ちょっといい?」
聞こえてきたのは少女の声です、そう言えばいましたね……
クッキーを守る事に集中し過ぎたせいで忘れていました。
「……何だ」
ちょっとばつの悪そうな表情をした後に榊さんがリビングの方を振り返りました、私はうずくまったままそんな榊さんの様子をぼんやりとみていました。
なんかうまい事クッキーを持って逃げられないでしょうか無理ですね。
「さっきから言い争ってるけど、まさか、私達の事を忘れてんじゃないでしょうね?」
「忘れてねーよ。こいつの往生際が悪いだけだ」
無茶苦茶な事を言っているのはそっちでしょうが、とは思ったものの黙っていました。
「ふーん、それで? 誰と言い争ってるのよ?」
今更ですが、この方榊さん相手にタメ口使って大丈夫なんでしょうか?
撃ち殺されたりしないんですか、そんなことして。
「……少し前にハッカーを雇ったんだよ。そいつ」
「ハッカー? 何で? 他人を全く信用しないアンタがなんでわざわざ? それも留守を任せるくらい信用してるって事でしょう? どういう風の吹き回しよ?」
さ、榊さん相手に『アンタ』呼ばわり、いったい何者ですかこの女の子は。
しかも驚くべきことにそんな不敬な態度をとられている榊さんからは、特にその事を気にしている様子が感じられませんでした。
「別にお前には関係ないだろう」
「ええ、全く関係ないわ、それでも気になるんですもの。と言うかどんな奴よ? そのハッカーって」
そんな言葉と共にキッチンの入り口付近に立っていた榊さんを押しよせて、その声の主が入ってきました
「………」
思わずその人物を注視してしまいました。
なぜなら、その人物はとても小柄だったからです。
身長は目測で140cmほどしかないでしょう、歳の頃はおそらく十代前半でしょうか?
聞こえてきた声から若いと言うよりも幼い印象を受けていましたが、これほどまでに幼いとは。
本当に何者なんでしょうか、この方は。
「あら……随分見目のいい……本当にハッカー? 性欲処理用奴隷じゃなくて?」
少女は私の姿を見詰めて、きょとんとした表情で呟きました。
性欲処理用の奴隷ですか。
そう言う意味合いで奴隷として売られて買われた事はあるのでそれは間違いではないから何も言いませんが。
でもまあ、そんな物を買った、何て勘違いをされた榊さんは当然怒りました。
「は?」
榊さんが殺気を放ち始めます。
それで懐からナイフを取り出しました、殺る気満々でした。
ちょっと止めてくださいよ、こんな所で。
万が一ですが、巻き添え喰らって死ぬとか嫌なんですけど。
「何よ? その顔」
殺気を向けられた少女が振り返って榊さんと向き合います。
何で榊さんの殺気をまともに浴びて平然としているんですかこの少女は。
本当に何者ですか。
と言うか何なんですかこの状況は。
「はしたないよ、希未」
頭を抱えかけたその時、救いの声が聞こえてきました。
いえ、救いかどうかは分かりませんが。
むしろ事態がさらに悪化する可能性もあります。
「あっ……ごめんなさい……」
どこかしょぼんとした様子で少女はその青年の声がした方向に謝りました。
「すまないな榊、うちのが失礼をした。謝るからその刃を収めてくれないかい?」
その声は落ち着きと誠実さを感じる事が出来る声でした。
榊さんが小さく舌打ちをします。
あ、だめでしたか。
と、思ったものの、榊さんは何をする事も無くナイフを収めました。
本当に救いの声でした。
「んんー!! おいし―――!!」
と、私の向かいに座っている少女が叫びました、その両手にはナッツクッキーが握られています。
「……本当に美味しいね」
と、少女の隣の青年が感心したように呟きます、その手にもナッツクッキーが握られています。
……何でこんな事になったんでしょうね。
青年によって榊さんと少女が諌められたまでは良かったのです。
が、何故全員でテーブルを囲って、テーブルの上に私のクッキーが盛られた皿と紅茶の注がれたティーカップが並べられているんでしょうか。
唯一の救いは全員で食べることになったために私の分が一枚だけは確実に確保できたことでしょう。
「………」
榊さんは無言でクッキーを食べていました、すごい不機嫌そうでした。
空気が重いんだか軽いんだかわかりません、というかこの二人誰ですか。
タイミング逃したせいで聞けてないんですよね。
少女の名前がノゾミというらしいことしか現状ではわかっていません。
別に何者かわからなくても困りはしませんが、なんかモヤモヤします。
後で調べときましょうか?
「それで、彼女の事を紹介してくれないかな? 榊」
クッキーを食べ終わった青年が皿に手を伸ばしながら榊さんに向かってそう言いました。
「別に必要ないだろう」
青年の手をパシリとはたいて榊さんはテーブルの中央に置かれていた皿を自分の手元に引き寄せました。
「意地汚いなあ……」
思わず言ってしまった、というような調子で青年は目を丸くしました。
「黙れ、もともとこれは俺のだ」
いえ、私のです。
という反論をすると殴られそうな気がしたので黙っておくことにしました。
榊さんに見つかって自分の分が確保できたことなんてこれが初めてですからね。
「独占欲強いなあ……それにしても、本当にどういう風の吹き回しだい? お前が人を雇うなんて」
「どうでもいいだろうそんな事」
「いやだって気になるし……」
「優秀で無力で生き汚いだけの奴だから雇っただけだ」
随分と簡単にまとめましたね……
まあ、本当にそれだけしかないんでしょうけど……
「それだけ? 本当にそれだけの理由で彼女を?」
「それだけだ」
「……それだけって言うなら余計気になるんだけど」
と、青年は私をじーっと見つめます。
……そんな見つめられても私は何も答えられませんよ。
私だって未だに榊さんがたったそれだけの理由で私を雇った事を……未だに雇い続けている事を不思議だと思ってるんですから。
「……ねえ」
「しつこい」
私から視線を逸らして、更に何かを問いかけようとした青年を榊さんが睨み付けます。
「……分かった、これ以上は無粋だしね」
まだ何か気になる、と言った顔をしていましたが、青年はこれ以上の追及を止める事にしたようです。
そして、再び私と視線を合わせてニッコリと人当たりの良い笑みを浮かべました。
「改めまして自己紹介を。僕は叶人、それでこっちは希未、これからよろしくね」
「はい、よろしくお願いします。私は……名前は無いので雑用とお呼び下さい。叶人さん、って、もしかして……」
叶人って、この区の支配者である黒騎士と同じ名前………
で、希未はそのボディーガード兼恋人、ではありませんでしたか?
って、事はこの人、榊さんの雇い主の……
「ああ、うん。その叶人」
「どうして黒騎士……さんがここに?」
「暇だったからね。遊びに来たのさ」
黒騎士って榊さんとそんな理由で気軽にホイホイ遊びに来るような仲だったんですか?
え……意外過ぎて反応に困るのですが……
「……仲がいいのですね」
取り敢えずそう一言当たり障りのない事を言っておきました。
「うん、俺等仲良しなんだ」
「阿呆みたいな嘘を吐くな。お前、やること大量にあるだろうが。毎回毎回サボりの口実に俺を使うな」
榊さんは相変わらず不機嫌そうですが、本当に機嫌が悪いのならこの二人をもう追い出しているでしょうし、そもそも連れてくる事も無かったはずなので、そこまで腹の虫は悪くないのではないかと思います。
「別にいいじゃないか」
「良くない。それと、誰が仲良しだ、頭湧いてんのか」
「酷いなあ……お前を雇ってここまで成長させてやったのは俺だっていうのに……いわば俺は、お前の恩人だ」
「随分と押し付けがましい恩人だな」
「そりゃそうだ」
そんな言い合いを聞きながら、上手い事榊さんが引き寄せた皿に載っているクッキーを取れないものかと画策しましたが、どう考えても不可能であるので考えるのを止めました。
ああ、今日はなんてついていないんでしょうか。
イン アンダーランド ~imitation Genius~ 朝霧 @asagiri
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