べヴィブルーと鉄紺色
2区との境界にあるスーパーに近所のスーパーには売っていない商品があるらしいことを知ったので、そこに行ってみることにしました。
どこからか怒声や銃声が聞こえてきますが、いつも通りなのであまり気にしません。
鉄紺色の外套のフードを目深に被り直して目を隠し、目的地へと足を早めます。
道に迷うと面倒な事になるので、急ぎつつも慎重に進みます。
一度通れば忘れる事はないのですが、自分はどうやら方向音痴であるようなので、初めて歩く道はやはり緊張します。
あの時の二の舞を踏むのは御免ですから。
本当に御免ですから。
道に迷って延々と迷走し続けるなんて経験はあの時だけで十分です。
「泥棒!!」
突然右側から聞こえてきた声に思わずそちらを見ると、継ぎ接ぎの服を着た三十路の男性が走り去る姿と、顔を真っ赤にしてその男を追いかける女性がいました。
ご愁傷様です、でもただのコソ泥でよかったですね。
そんな他人事にもほどがある感想を抱いたところで左前側から強い衝撃がかかりました。
「!!?」
ろくに受身も取れずに私の体は地面に倒れました。
それと同時に目深にかぶっていた外套のフードが外れたのを感じました。
どうやら誰かに思い切りぶつかられたようです。
「うっ……痛……」
その誰かは私の上に覆いかぶさって呻いていました。
痛いのはこっちなんですけどね、あなたは私がクッションになったからそれほど痛くないでしょう。
そんな悪態を心の中だけでつきながら思わず瞑っていた目を開いて、まず視界に入ったのは美しい金色の髪でした。
淡く高級な金糸のようなその髪の主がガバリと起き上がります。
彼女の淡い青色の目が私の姿を捉えました。
「あっ……うわわわわ……ご……ごめんなさい!!」
そう言って勢いよく首を垂れた彼女の頭が私の胸に衝突しました。
結構な衝動が掛かって息が詰まりました。
彼女は混乱している様子で、奇妙な悲鳴を上げながら私から飛び退り、勢い余って仰向けに倒れ、後ろ頭を強かに打ったようです。
ゴン、という音とほぼ同時に彼女が短く悲鳴を上げました、結構いい音がしましたが、大丈夫でしょうか?
そんな風に後ろ頭を押さえて半泣きになっている彼女の事を私は知っていました。
面識は一切ありません、私が一方的に知っているだけです。
一方的によく知っているだけの。
彼女は私の事など知っていないでしょう。
2週間ほど前、私が五時間もの時間を掛けて歩き回った原因で、私の。
どうして彼女がここにいるのでしょうか、ここは2区にほど近い場所であるとはいえ、3区です。
彼女のような純血がうろついていれば奴隷狩りに駆られるのが落ち――
と考えた時に周囲を囲まれている事に気づきます。
……やれやれ、面倒な事になりましたね。
気が付いたら鉄格子の内側に私はいました。
怪しい雰囲気の人達に取り囲まれた後、彼らにもみくちゃにされた事は憶えているんですが、その先はさっぱり覚えていません。
多分気絶させられてここに運ばれたんでしょう。
そんな憶測を立てつつ周囲の様子を窺うと、鉄格子の内側には私と2区の天才、そして数人の女性がいる事が確認できました。
身体を起こして、じゃらりと言う音に目を下に向けると2m位の長さの太い鎖が見えました、喉に手を当てると案の定、鉄製の首輪が掛けられています。
どうして奴隷って首輪に鎖がデフォなんでしょうか、前売られた時もこんな感じでしたね。
次に自分の身体を確認します、首輪以外の拘束はありません、服は以前とは違い着替えられておらず、先程と変わりはありません。
外套のポケットを探ると何もありません、流石にそのままにはしてもらえなかったようです。
右袖に仕込んであったナイフも無くなっている辺り、抜かりがありませんね。
でも右手の腕輪はそのままでした、なんかナイフで削った様な傷ができていますが途中で諦めたのでしょう。
それもそうでしょう、外そうとしてもそう簡単に外せませんから、これ。
外せるものならとっくの昔に自分で外してますよ。
それにしてもここまで徹底して物を取り上げるならいっそ着替えさせればいいのにと思いましたが、まあ、あまり珍しい事ではないので。
いちいち奴隷用の服を用意するのも面倒だと言う話を聞いた事がありますしね。
そんな風に状況確認をしていると、先に目を覚ましていたらしいアリスが暗い表情で私に声をかけてきました。
「ごめんなさい……」
そんな彼女の首にもやはり私と同じ首輪が嵌められていました。
彼女の首輪には『077』の文字が刻まれていました、多分識別番号でしょう。
前の時もそうでしたし。
「……何故謝るんですか?」
謝られるような事、ありましたっけ?
「だって……私のせいで、貴女まで」
その通りと言ってしまえばその通りなのですけど、それを責めるのは酷だと思ったので、私は無言で首を振りました。
「……別にいいです、あなただって被害者ですから」
そもそも街中を歩いている最中に周囲の警戒を怠った私の自業自得ですから。
もう少し注意していれば、奴隷狩りに追われる彼女の巻き添えを喰らう事は無かったでしょうし。
何であんな当たり障りのない風景に目を奪われてしまったのか……
自分の注意怠慢に少しだけ凹みました。
「でも……でも……」
彼女は泣きそうな目で私を見ます、よく見るとその目は充血しており、頬にはうっすらと涙が流れたあとがありました。
私が目を覚ます前に泣いていたのでしょう。
「だから、いいんですってば……仕方ない事ですし」
そう言ってみるものの、それでも彼女の表情は変わりません、全く、さっさと気分を入れ替えてくださいよ。
まあ、つい最近まで地上に住んでいた彼女にとって、奴隷狩りに遭うなんて事は中々衝撃的な出来事なんでしょうけど。
そもそも彼女は元々空中島に住む純真無垢な少女でしたから、そこまで踏まえて考えると、むしろ今の彼女の様子はまだましなのかもしれませんね。
それでも、この程度の事でこんなにピーピー泣くなんて、私達があの頃にあっていた目に彼女があったら、どうなっていたんでしょうね?
にしても、彼女は本当にあの天才なのでしょうか?
実際に会ってみると、その……雰囲気が……ちょっとバ……
いえ、そんなはずはないのです。
『あなたは2区の兵団に所属しているアリスさんで間違いないですか?』
だから私は問いかけてみました。
あえてドイツ語で。
一応、英語とドイツ語とフランス語は日常会話レベルの会話なら普通にできます。
それは彼女も同じはず。
「え? 何で……」
『何も言わない下さい、正しければ頷いてください』
彼女は一度首肯、どうやらちゃんと理解している様子です。
『なら、貴方は多分助かるでしょう、彼らの行動が早く、このオークション会場に襲撃して来たら、私も便乗して逃げられる』
そこまで言ったところで鉄格子の向こう側から声が掛けられました。
「おい貴様、何を言っている」
おそらく見張りなのでしょう、スーツを着た小太りの男が鉄格子越しにそう声をかけてきました。
「少し彼女と話していただけですよ。まあ、彼女は私が何を言っているか分かっていないようですけど。彼女、混血みたいですからもしかしてドイツ語分かるかもしれないなと思いまして。でもまあ、ただ見た目がいいだけの人みたいですね。ちょっと残念です」
「ドイツ語? 何故お前はそんなものを」
「ああ、私は混血じゃないですよ、祖母がドイツ人だったので少し話せるだけですから」
大嘘をポンポンと吐きました。
混血である事よりも外人の血が混じっているだけ、と言う方が価値が若干低いので。
あんまり高く見られると後々面倒な事になるかも知れませんし。
まあ、誰が私を買おうとも、榊さんは購入者とその縁者を皆殺しにすると思いますけどね。
毎度毎度やりすぎだとは思いますが、禍根を残すのは本人的に気に喰わないようなので仕方ないでしょう。
それでも無駄な殺生は避けたいものです、人が目の前で殺されるのは、殺される人間がどんな外道であれ、良い気分ではありませんから。
だから誰かにお買い上げされる前に解放されたいのですが、そう簡単には行かないでしょう。
それでも多少の努力はしてみましょう、無駄だとは思いますけどね。
「そうだ見張りさん、私をここから出してくれませんか? 出してくれた方が身のためですよ? 私の雇い主は狂暴ですから」
これは本当、まあ、出してもらえるなんて思ってもいませんけど。
あの人の名前を出せば少しはビビってくれるかもしれませんけど、そこまでするつもりはありませんでした。
そもそもあの人が私を雇っている事を知っている人もそれほどいないですし、嘘だと取られ一笑されてお終いでしょう。
知ってるのは雇っている榊さん本人と、雇われている私、それから彼の雇い主である黒騎士こと叶人さん、そしてその護衛の希未さん……と、後誰かいましたっけ?
いなかったような気がします。
「はっ……何を馬鹿な事を言っている。その程度の脅しで出してもらえるとでも思ったか?」
見張りの男には結局鼻で笑われました、榊さんの名前を出しても大した変りは無かったかもしれませんね。
なら仕方ありません、大人しく赤の女王の兵隊の救助を待つとしましょう。
そう言ったきり、見張りの男は私達から顔を逸らしました、無駄口を叩く気はないといいたげな雰囲気が漂っています。
私も牢の外から視線を逸らし、適当に牢の外から死角になりそうなところを探して、そこに腰掛けました。
そして牢の中をもう一度見渡してみます、牢の中にいるのは、私とアリスと……その他に5人、年齢は10歳以下から20代後半あたりまで、全員女性で男性は一人もいません。
……と、なると、やはりここはそう言う系統の奴隷を取り扱っているようですね。
前の所は何でもありだったので、男女両方どころかキメラまで揃っていましたが、今回はどうやら性的な意味、それも女性のみを専門に取り扱っている場所みたいですね。
……そう考えると、売られても最悪性奴隷になるだけで命が取られる可能性は低い、と言うわけですか。
まあ、そんな楽観視は出来ないんですけどね、死体愛好家とかカニバリズムな人とかに買われたらそれだけでお終いですし。
カニバリズムの性癖を持った人には一度だけあった事がありますが……あれは酷かったですね……
姐さんが何とかしてくれなければ、私食べられてたかもしれませんし。
初対面の一言目が口から涎を垂れ流しながらの、君美味しそうだね、でしたから。
姐さんがそのセリフと共にあの人を殴り殺してくれなければ結構危なかったかもしれません。
それにしても、私は娼婦でもなんでもない、色気の欠片も無いただの従業員だったのに何でそんなセリフを言われたのでしょうか……今でも意味が分かりません。
当時も心の底から不思議だったので姐さんと美也子さんに聞いてみたのですが、二人とも答えてくれませんでした。
本当に何でだったのでしょうか、ちょうど暇なので理由を考察してみましょうか?
と思っていたら、隣に誰かが座りました。
誰か、と言うかアリスですが。
何処か緊張した面持ちで彼女は口を開きます。
「あ、あの……」
「何ですか?」
彼女の目を見詰めてそう問いかけると、彼女は一瞬びくりと震えて私から目を少しだけ逸らしました。
「随分、その、落ち着いていますね」
「そりゃまあ、売られるのはこれで二回目ですから」
慣れてるわけじゃありませんが、一回経験しているだけ落ち着いてるだけなんですよね。
そこまで大した事は無いでしょう、と言いかけた所でアリスが口をポカーンと開けて間抜け面を晒……いえ、何でもありません。
「え?」
それはいったいどういう事? と?マークを顔面に張り付けまくったような阿呆づ……いえ、不可解そうな表情を浮かべるアリスに私は淡々と言います。
「
前回私を買った人、ボスこと雅留さんは筋骨隆々とした大男を泣かせるのが大好きだった事以外は普通の人でしたからね。
姐さんじゃなくてボスって呼ぶと時々殴られるのが難点でしたが……
そんな風に性癖が特殊だった以外、私の雇い主の中では一番まともな人でした。
私の人生を軽く振り返ってみると、一番人間らしい生活をしていたのはきっとあの頃だったんだろうなと思います。
それ以前は言わずもがな、今は……微妙、ですね。
比較的まともではありますけど。
「ここってそんなに……?」
アリスが何故か涙目になりました、意味が分かりません。
「何を当たり前のことを言っているんですか?」
そんな甘い考えで今までここで生活できたっていうのも凄いですね。
まあ、2
「……あれ? でもさっき、雇い主は狂暴だって、脅して……」
涙目だったアリスがふと表情を変えてそんな事を聞いてきました。
「ああ、その事ですか? 今の雇い主と私を買った人は別人です。彼は二人目の雇い主なんですよ、彼が狂暴で凶悪の最低野郎だって事は本当ですが。助けにきやしませんよ、あの人は。だから本当に兵団を頼りにしているんです……」
今助けに来たりはしないでしょう、だって効率悪いですから、私が誰かしらに買われた後に購入者を殺した方が余程効率良いですから。
もしも、とある事を考えてみました、上手い事赤の女王率いる兵団が彼女を助けに来て、どさくさに紛れて逃げたら、その後どうしましょうか、と。
戻った方がいいのは分かっています、戻らなくてもどうせすぐに見つかるのだろう、とも。
戻らないとしても行き場もありませんし。
自由になったところで、私ひとりじゃ生きていけないでしょうからね。
そもそもそう言う風に一人で生きていける可能性があるのなら、とっくの昔に私はあの人を破滅させてたと思いますし。
それだけの復讐をしてもおかしくないくらい酷い事をされましたから。
でもまあ、今の私にはあのにっくき男から離れる手段は0なわけで。
だからこの後、どうなればいいのかと問われると、こんな事態があった事がばれないように今日中に帰れれば一番なんですけどね。
上手くいくといいのですけど、と思いますが、所詮は人任せで私に出来る事なんて今の所何にも無いのが現状でした。
「それと、もう一ついいですか……?」
「はい、何ですか?」
他に何か聞かれるようなことありましたっけ?
「さっきオークション会場、って言ってましたけど、オークション、って? どういう……?」
ああ、何だそんな事ですか。
そりゃそうですよね、こんな施設があるのは3区くらいなものですからね。
最近地上から堕ちてきてずっと2区で生活してきたアリスがその事を知らなくて当然ですもんね。
「そのままですよ、ここは奴隷を売り捌くオークション会場です」
そんな会話が終わってから少し時間がたった後、オークションが始まったらしく、牢屋から次々と捕まった人が連れ去られていきました。
私はそれを黙って見ていました。
5人の女性が連れ去られた後、次に鎖を掴まれたのは私でした。
トリははやり彼女なのでしょう。
引かれていく私に涙目で追い縋ろうとする彼女に無言で首を横に振って、私はおとなしく従いました。
最後から2番目に牢の中から連れ出され、首輪の鎖を引かれます。
最初に売りに出された時も確か最後から二番目でした、あの時のトリはたしか地上から堕ちてきたばかりの純血の青年だったはずです。
1回目よりも粗末な会場のステージに立たされました。
強い照明の光が客席の人々に私の姿をくっきりと浮き上がらせているようですが、光を浴びているこちらからは眩しくて客席の方はあんまり見えませんでした、なんとなく座っている人の顔の判別がつくくらい見えにくいですね。
司会の男が私についての説明をします。
目が青い事、ドイツ語を話せることがセールスポイントであるものの、それ以外は何も無いらしいです。
まあ、それ以外は大したこと知られてませんもんね。
ドイツ語を話せと命じられたので、素直に話しておきましょうか。
『逃げた方が身のためですよ? 赤の女王の率いる兵団に殺されたくなかったら……私の次、トリは女王のお気に入りのアリスですから』
理解できた人はいないだろうなと思っていたのですが、列の中央に座っていた恰幅のいい男性が真っ青な顔で何かを言っているのが見えました。
理解できたのでしょうか? 出来たとしても信用されるとは思っちゃいなかったんですけどね。
何を言っているのか耳を傾けてみたものの、少し離れているのと会場内が騒がしいせいでその恰幅のいい男性が何を言っているのかは全然聞こえませんでした。
「では、45万から!」
司会の男が会場の客に向かってそう叫びます。
前回よりも開始金額が少しだけ落ちていました。
前回は確か50万丁度だったはずです、あの時の私はまだ14歳でしたし、ちょっと変わった経歴を持っていましたから、それに今よりもうちょっと可愛げのある顔立ちをしていたので、値が落ちたのは妥当でしょう。
50! 60! と私の値段を上げる声が聞こえてきます。
前回は75万で落札されたのですが、今回はどうでしょう?
誰かが65、と値を釣り上げます、60と叫んだ声と同じ声が直後に70と声を上げます。
80! と前回お買い上げされた値段よりも高い値が出されたその瞬間、爆発音が響きました。
爆発音の後、一瞬間をおいて会場内が大パニックに陥りました。
阿鼻叫喚、というのはこういう状況を言うのではないでしょうか?
私も流石にビビりましたが、客やオークションの開催者達よりは幾分冷静でした。
騒音から一番離れていたのもありますが、何よりも状況を俯瞰的に見る事が出来たので、状況の把握がしやすかったからでしょう。
それにこの程度の狂騒、あの時やあの時に比べると、些細なものですから。
ただし人数だけはあの時よりもあの時よりもずっとずっと多いので、それなりに酷い惨状になりそうだ、という事は嫌でも分かりました。
確実に死人が出るでしょう、私以外の人が何人死のうが構いませんけど。
私が生きてここから脱出できればそれ以外には何も望みませんよ。
そんな事を思いながら会場内を見渡していたら、会場に無数の人影が入り込んできたのが見えました。
少しだけ目を凝らすと、白髪の少年を発見しました。
他にも見覚えのある風貌がちらほらと見えます。
まず間違えなく、赤の女王の兵隊でした。
なら、まあ何とかなるでしょう。
助かった、と思っても構わないとは思いますが、ところでで今何時でしょうか。
早めに帰らないと夕食の支度が間に合いません。
ステージの上で放置されていた私は、2区の兵隊の方たちの活躍を眺めていました。
首輪の鎖の先を左手で握り、何かあった時にはすぐに逃げられるように構えていましたが、多分そんな必要はないでしょう。
会場内は大パニックでしたが、一段高い観客から離れていたステージの上までその狂騒はまだ届いてきませんでした。
そろそろ逃げた方がいいかとも思いつつ、もう少し様子見をする余裕もあるだろうとじっとしていました。
下手に動いたらかえって被害うけそうですし。
と、大分楽観視していた私の目にあるものが映ります。
「え?」
なんかさっきの見張りの男がこっちに向かって走ってくるんですけど、今更私をどうこうしようと無駄なのでは……?
私以外に誰もステージに駆け寄る男に気付いていない、というか気に留めていないようでした。
男はステージ脇の階段からステージに上り、私に向かって一直線に走ってきます。
これは少しまずい、のでは?
待ってください、でもなんで私?
逃げなければ、と男が昇って来た階段とは逆方向に向かって走ろうとしたところで。
「動くなぁ!!」
それは一瞬大騒ぎだった会場内がしんと静まるほどの、会場の隅まで響き渡っていたのではないか、と言うほどの大声でした、流石に一瞬体が竦みます。
その間に男は懐から何かを取り出し、私に向けました。
その黒光りする何かは、拳銃でした。
真っ黒な銃口がこちらに向かって開いています。
「全員動くな!! 動いたらこいつを打つ!! 貴様らが探している青い目の女、ってのはこいつだろう!? 殺されたくなかったら全員動くな!!」
何か男がまた叫んでますが、何て言っているのかよく分かりませんでした。
あ、これは本格的にまずい、そうわかっているのに体が動きません。
じりじりと男がこちらに向かってゆっくりと歩いてきます、早く逃げなければ、何度そう思っても身体は全く動きません。
男と私の距離が3mになったところで、じゃらりと音をたてて私の左手から鎖が零れ落ちます。
どうしてでしょう、別に銃を向けられる事なんて大したことは無いのに、別に恐くなんて無いのに。
どうして私の身体は動かないのでしょうか。
私はどうして、まるで死に恐怖する普通の人間みたいに棒立ちしているのでしょうか。
死なんて見慣れ切っているのに。
切り刻まれながら死ぬ子を見ました。
硫酸に溶かされ、泣き叫びながら壊れていく子を見ました。
裏返された子を、解剖された子を、首を切断された子を、顔のパーツを一つずつ抉られていった子を。
私を突き飛ばして、私の代わりに銃弾に撃ち抜かれた緑色の目の少女を見ました。
あれ? そう言えばこんな事が前にもあった気がしませんか?
銃を向けられて、棒立ちになって、それで。
こんな光景を以前何処かで見た事があった気がしませんか?
ああ、わかりました。
そう、あの時、姐さん達が殺された時……
全部を失い、何故かあの日私を殺そうとしたあの人。
それはきっと、親切心だったのでしょう、生きているよりも死んでいる方がましだと。
生きていればきっと酷い目にあわされるだろうから、と。
もしかするとそんな親切心だけではなかったのかもしれません、私に対する復讐の意も含まれていたのでしょう。
あんな状況に陥ったのは、半分以上私のせいでしたから。
それでも私は。
約束を守るためだけに、生きるのだと――
「だから全員、動――」
男が再度何かを叫んだところで。
乾いた銃声が聞こえました。
銃弾は頭を貫いて、あの時と同じように真っ赤な血の花が咲きました。
あの時と同じように、あの人と同じように。
私の目の前で。
――ごめんね、こんな事しか出来なくてごめんね、助けられなくてごめんなさい。
そう言って私を殺そうとした、彼女の頭がはじけた瞬間が、脳裏に鮮やかに浮かび上がりました。
――生きて。
胸に穴を開けられた直後、そう呟いて緑色の目を濁らせた親友の声が脳裏に響きました。
ほぼ同時に浮かび上がり、響いた過去の風景は現実と混ざり合って、悪夢よりも酷い何かになって、私は多分、発狂しました。
あとどれくらい生きればいいって言うんですか。
生きていたって、何にもないのに。
死んでるみたいに、流されるままに生き続けている意味はあるのでしょうか。
男の頭からは血が流れています、その赤色をただ見ている事しか出来ませんでした。
あの時とその光景が重なって自分が一体今どこにいるのかが分かりません。
ここは何処で、今は何時で、どうして同じ事が繰り返されるんでしょうか?
「おい」
聞き覚えのある声が聞こえてきた気がしましたけど、きっと幻聴です。
だってその声はあの時呆然としていた私が聞いた声と全く同じで、きっと繰り返された光景を認識した私の脳が勝手に作り出したものなんでしょう。
答える必要のない声を無視して私は思います。
どうして私は生きていて、どうして彼女達は殺されて、どうして彼女は死んでしまったのでしょうか?
何度も銃を向けられたのに、どうして私は死なずに代わりに誰かが死んでしまうのでしょうか?
生きている意味のない私がどうして、生きる希望を持っていた彼らや彼女がなんで。
私はもっと前に死んだ方がよかったのかもしれないと思います、誰かを身代りにせずに。
死にたいとは思いません、私は生き続けて彼女との約束を守らなければならないのですから。
私の代わりに死んでしまった彼女の為にも、死にたいだなんて口が裂けても言うわけにはいかないのです。
それでも、それ以外に私が生きている意味なんてありません。
ずっとずっと。
あの時、彼女が私の代わりに生きていてくれればよかったと――
じゃらり、と大きな音が聞こえたと思ったら体が横に傾きました、首に大きな負荷が掛って息が詰まりました。
何が起きたか理解できませんでしたが、数秒後に首輪の鎖を思い切り引かれたのだという事に気付きます。
いったい何が、誰がそんな事をしたのでしょうか?
答えは私が認識する前に提示されました。
「おい雑用、助けに来てやった俺を無視するとか、いい度胸してやがんな?」
聞こえてきた榊さんの声はなんだかとっても怒っているようでした。
思考が真っ白になっていた間に金色の目が私を睨み付けていました。
彼の手には私の首輪の鎖が握られています。
その事をぼんやりと認識しました。
「なんで……」
どうして榊さんがここにいるのでしょうか?
わざわざ私を取り戻すためだけにこの場に乗り込んできたのでしょうか?
そんな効率の悪い事を彼がわざわざする必要はないはずなのですが。
「6時過ぎても帰ってこないから、発信器の位置を探ってみれば少し前に潰せと依頼されたオークション会場を示してたから、潰すついでに迎えに来てやったんだよ」
感謝しやがれと頬を抓られました、痛いです。
ああ、そうか、腕輪の発信器……
ばれないように早く帰りたい、とは考えていましたが、位置情報が筒抜けだったからどっちにしろばれていた、と言う事に今更思い当たりました。
「……そう、ですか」
私がアリスさんと衝突したのが大体10時半頃だったはず、気を失っている間に思っていたよりも時間が経っていたようです。
どんなに遅くても3時くらいだと思っていました。
「で? お前はこんな所で何をやっているんだよ?」
再び首輪の鎖を引っ張られ、首が締まりました。
ぐえっという気持ちの悪い声音が私の喉から洩れます。
「……2区のアリスさんに……巻き込まれ、ました……ごめんなさい」
かろうじてそれだけ言って謝ると、榊さんは舌打ちをし、首輪の鎖から手を離しました。
咳き込みながら鎖を掴み、手繰り寄せて鎖の端を掴みました。
また首輪の鎖を引かれたらたまったものじゃありません、もう首を絞められるのは嫌です。
榊さんは私をじっと見ていましたが不意に視線をそらしました。
そらした先にあるのは2区の兵隊の方達が暴れまくっている会場でした。
「……この状況なら俺が何をしなくてもじきに終わる、な」
「……ですね」
独り言のような呟きにそう答えると、榊さんはもう一度こちらを見て、何故か溜息をつきました。
やることがない、と言う事なので、取られた荷物を探したい、と提案すると舌打ちと共に手を引かれました。
榊さんがまず向かったのは舞台裏、私達が閉じ込められていた牢屋のすぐ隣。
そこに様々なものが並べられていました。
「あれは……」
荷物です。
おそらく捕まった人達が持っていた所有物です、と言う事は……
数秒後、見覚えのある藍色の財布を発見しました。
「荷物……ありました」
私物は所持者ごとにまとめられていました、財布有、スタンガン有、ナイフ×2有、全部揃いました。
ふと視界の隅で何かが光ったような気がしてそちらを見ます。
そこにあったのはテーブルでした。
今まで荷物に気を取られていて気付きませんでしたが、荷物が置かれていたテーブルの横のテーブルに銀色に光る金属が並べられている事に気づきました。
「あ、鍵……」
首輪の鍵らしきものを発見しました、鍵にはそれぞれ番号が振られています。
そう言えば、アリスの首輪にも番号が刻まれていたはずです、彼女の番号は確か077でしたが……
「榊さん、私の首輪の番号って何番ですか?」
「078」
そっけなく答えてくれた榊さんに、ありがとうございますと礼を言ってから、私は鍵を探します。
078……078……ありました。
078の鍵を掴みます、これで良し、です。
さっさと首輪を外してしまおう、と鍵穴に鍵を差し込もうとしましたが、上手くいきません。
鏡でもあればすぐに外せたんだろうなと苦戦していたところで、榊さんが私の手から鍵をひょいっと奪い取りました。
外してくれるのでしょうか、と思ったのですが、榊さんはその鍵をポケットの中に仕舞い込んでしまいました。
「え……? あの、榊さん……鍵を」
「……お前、しばらくそのままでいろ」
返して下さい、と中途半端に伸ばした私の手をパシリと叩いて、榊さんは少し不機嫌そうな口調でそう言いました。
「え?」
そのままとは、ずっと首輪付きでいろって事ですか?
え、不便極まりないじゃないですか、これ目茶苦茶邪魔なんですよ?
上手いこと言って外してもらおうと画策しようとしたところで、鍵を外す為に手放していた首輪の鎖を強く引っ張られました。
「俺に余計な働きをさせた罰だ。とっとと帰るぞ」
「ちょ……まっ……」
半分引き摺られるような形で榊さんの後を追います。
「待って!」
首が締まらないくらい榊さんと距離を縮めた時に、真横から声を掛けられました。
ちらりとわき目で見ると、金髪の少女がこちらに走り寄ってくるところでした、その背後に白髪の少年が慌てたような表情で続きます、おそらく彼が2区の兵隊の一人である白兎でしょう。
実物と写真って結構違って見えるものなんですね、写真だともっと生気と覇気が無くて人形みたいな雰囲気だったのですが、実物を見るとただの普通の人間でした。
金髪の少女、おそらく白兎に助けられたのでしょうアリスは榊さんの正面に回って立ちふさがります。
榊さんが面倒臭そうに舌打ちするのが聞こえてきました。
「何だ?」
「その人を離してください」
「……あ?」
とても不機嫌そうな声でした、こちらからは見えませんが、榊さんはきっと彼女を睨み付けているのでしょう。
「だから、その人を放してください。彼女は奴隷じゃない、捕まった人たちは皆解放するべきなんです。貴方が何なのか知りませんが、どさくさに紛れて彼女を連れ去ろうなんて……」
アリスは一瞬だけ蛇に睨まれた蛙のような表情を浮かべていましたが、すぐに眦を釣り上げて噛み付くような表情で言います。
成程、そう言う風に誤解されたのかと私は思いました、まあ、無理はないでしょう。
と言うか、それ以外の何に見えるのか、と問われるとちょっと思いつきません。
榊さんが酷く殺気立っているので、私は早々に誤解を解く事にしました。
このまま榊さんが彼女を殺したら、彼女の後ろにいる彼との殺し合いが勃発するのは目に見えていますし、それに巻き込まれるのは御免ですから。
そんな事になったら私、高確率で死にますから。
「アリスさん、この人、私の雇い主ですよ」
「え……?」
吊り上っていた彼女の眦が下がった事を確認しつつ、私は冷静に彼女に告げます。
「なので問題はありません」
「問題ないって……でも!! 何で首輪を外さないんですか!? 鍵は!? そこにありますよ!? 気付かなかったんですか!?」
そう言う彼女の首輪はまだ外れていませんでした、多分荷物か鍵を探しに来たところで鉢合わせたのでしょう。
「鍵はすぐに見つかりましたよ」
「なら何で!!?」
それは当然の疑問でしょう。
少し考えて、私は答えました。
「ペナルティです」
多分、そう言う事であっているはず、です。
「は!?」
「奴隷商人に捕まって迷惑を掛けた罰です。それだけです、なのであなたが心配しているような事は何一つありません、ご安心を」
大仰な叫び声を上げたアリスに冷静に返しました。
「そんな……ひどい……」
「そうでもないですよ」
泣きそうな表情でそう言われました、別に大したことないのに。
首輪付きのまま放置されるだけなら、それほど酷い罰ではないと私は思いますけどね。
状況的に死なない程度に首を絞められる状態が数時間続く、と言う罰が課されたとしてもおかしくはない気がしますし。
だから大分軽いペナルティだと思いますけどね、今回の罰は。
「そう言うわけなので、私は大丈夫です。ご心配をおかけしてすみませんでした」
と、一礼します、あわあわと慌てたような声が聞こえてきましたが気にする事は無いでしょう。
「いちいち頭を下げる必要はないだろう」
「誤解させたのはこちらですから」
頭を上げた直後に榊さんに酷く不満げな顔でそんな事を言われましたが、誤解させたのはこっちの落ち度なので一応謝っておいた方がいいと思っただけですよ。
「ところで柊、お前さっきアリスに巻き込まれたとか何とか言っていたが、どういう事だ?」
榊さんが一瞬何かを思い出した様な表情をしたと思ったら、そんな事を問い詰められました。
そう言えば、その説明はしていませんでしたね、詳しく話せば長く……なりませんね。
むしろ長く説明する方が難しいです。
「向かいの道で起こっていたひったくりに目をとられていた時に、奴隷狩りに追いかけ回されているアリスさんと正面衝突して、アリスさんのついでで捕まりました」
元々大した話じゃありませんが、それでも出来るだけシンプルにまとめて理由を話しました。
「へえ……?」
またダサいと思われているんだろうなと思いました、今回も否定できません。
「なんか……その、すみません……」
取り敢えず謝っておきましょう、何も言わないよりはましでしょう。
「つまり、お前が捕まったのはそこの馬鹿のせい、って事か」
確かにその認識は間違っていないのですが、反論したい点が一つだけ。
彼女は馬鹿ではないんですよ、断じて馬鹿なんかじゃありません、ちょっと雰囲気が馬鹿っぽいと言うか頭緩そうですが彼女は天才のはずなのです。
「いえ、これは巻き込まれた私が全面的に悪いと思います。もう少し周囲を見ていれば何事もありませんでしたから」
「と言うか、どうしてその女が3区にいたんだ? お前、巻き込まれた時何処にいた?」
そこまでは調べていなかったのでしょう、一瞬うまい事誤魔化そうかとも思いましたが、特に誤魔化す必要性も無いことに気付いたので素直に離す事にしました。
「2区と3区の境界近くにいました。あの辺りにあるスーパーにしか売ってない香辛料が欲しくて……」
姐さんの所に居た時に使っていた香辛料だったのですが、探してもなかなか見つからず、そのスーパーで購入できる事を知ったのが昨日だったのです。
調味料は厨房にあった物を使わせてもらっていたので、何処で購入していたのかは知らなかったんですよね。
あの時の味を再び……とか思って意気揚々と出かけてこのザマです、浮かれすぎていたのかもしれません。
もうとっくに閉店しちゃってますよね、また明日いけるといいのですが……
「……今回は道に迷わなかったのか」
「迷ってません」
今回は大丈夫でした、そう、アリスとぶつかるまでは……
それまでは順調だったのです、この前の迷走っぷりが嘘みたいに。
順調すぎて怖いくらい順調でした。
「ふーん」
何故か疑いのこもった目で見られました、何でですか。
「本当に迷ってませんよ? 今回は完璧に」
「もういい分かった、黙れ」
黙れと言われたのなら黙りましょうか。
「あの……それじゃ、本当に本当に大丈夫、って事でいいの?」
そんな声に視線を向けると、不安そうな顔をしたアリスがこちらを見ていました。
その後ろで何故か白兎が酷く驚愕したような目でこちらを見ているのですが、何なんでしょうかね?
「ええ、大丈夫ですよ。何の問題もありません」
そう断言すると、アリスは不安そうな表情を若干緩ませました。
不意に首が閉まりました。
「ぐえっ」
「時間の無駄だ、帰るぞ」
そのまま榊さんはすたすたと歩き始めてしまいました。
私の首はしまったまでした。
慌てて追いかけますが、中々追いつけません。
「ちょ……!! 待ってください!!」
背後でアリスが何かを叫んでいましたが、そんな声を無視して榊さんはその場を立ち去りました。
「ま、待ってください……」
首……首がやばいです……
止まってくれるなんて一片たりとも期待していませんでしたが、予想に反して榊さんはその歩みをとめました。
その間にようやく彼に追いつきます、首が楽になりました。
追いついた直後、榊さんは再び歩き出します。
そう言えば帰るって言ってもどこから帰る気なんでしょうか、会場の方は聞こえてくる騒音から察するに、まだてんやわんやの大騒ぎが続いてるらしいので、そちら側の出入り口はとても使えないと思うのですが。
と思っていたのですが、普通に別の出入り口を使えばいいのでは。
榊さんが向かっている方向も会場がある方ではないですし。
とはいっても、そちらの出口が無事に使えるかどうかも分かりませんけどね。
まあ、榊さんがいるから平気だろうな、と思ったところで唐突に名前を呼ばれました。
「おい、柊」
「はい、何ですか」
「……覚悟しておけ、帰ったらいつもの倍以上働かせるぞ」
鎖を引きながらそう言う榊さんの声からは、何故か奇妙な事に、ほとんど怒りや苛立ちの感情を感じませんでした。
逆に怖いのですが、私、何をさせられるんでしょう?
……まあ、なんとかなるでしょう。
死ねとでも命令されない限り、何を命令されようが別にどうでもいいですから。
<imitation genius > is the end.
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