空の無い世界
死ぬまでこき使ってやる、そう言って彼は私に契約を持ちかけてきました。
命令には絶対服従である事。
裏切らない事。
彼の情報を漏らさない事。
そして、嘘を吐かない事。
これは今から約二年前の、あの日に私が彼の道具になった時に交わした契約。
その契約を破らないかぎり、私の生命は保障される。
ただそれだけの、何処にでもある契約でした。
私はこの街で最も高い場所から下を見下ろしていました。
この街での最上、つまりもっとも地上に近い場所から。
地上に住む人にとって、最上が最も地上に近いという事は受け入れにくい事なんでしょうけど、生まれも育ちも地下街である私にとって、それはただの一般常識でした。
地上には青く、時には赤くなったり黒くなったりして星や月と言う物が光り輝く空と言う物があるらしいですけど、ここにはそんなものはありません。
上を見上げて目に入るのは照明が取り付けられた天井のみです。
見てみたいと思った事は何度かありました、隣に立つ私の親友も、いつか自由になったら空を見に行きたい、とよく言っていますし。
それでも、たとえ私達があの男から解放されて自由になったとしても、きっと一生この地下から出られる事は無いのでしょう。
そんな分かり切った事を理解しながら、私は無邪気な親友にそうなるといいですねと肯定するのです。
親友は笑っていました、笑えない私の分だけ、笑えない私達の代わりに。
それがどれだけ救いだったか。
きっと親友は知らなかったのでしょうけど。
親友がこちらに向かって手を伸ばします、その手に私も自分の手を伸ばして――
不意に親友の姿が掻き消えました、そして親友がいた場所に代わりにあの男が立っていました。
私達をこの場所まで連れ去り、閉じ込めている男でした、その男の長い手が私まで伸びてきて、長い指が喉に絡み付いて、締め付けました。
何故、そう思った瞬間に私は目を覚まし、これがただの在り来たりの無い夢である事に気付いたのでした。
息苦しさに目を開きました、喉に絡み付いた何かを取り除こうと体が反射的にもがこうとしたその時に、鋭い金色の眼光が自分に突き刺さっている事に気付き、身体が弛緩しました。
私が目を覚ました事に気付いたのか、喉を締める右手の力が緩められます。
軽く咳き込んだ後、私は彼の名を呼びました。
「……榊、さん」
「いつまで寝てるつもりだ雑用」
予想通り、どうやらまた寝過ごしてしまったようです。
仕方ないじゃないですか、目覚まし時計も無いのに時間通りに起きろって言われても無理があります。
「……すみません」
それでも私は謝罪しました、下手に反論して未だ掴まれたままの右手に力を籠められたらたまったものじゃありませんから。
彼に雇われてからもうすでに2年以上経ちますが、何度か殺されかけた事があるので。
出会い頭でも殺されかかってるんですけどね、何で生かされた上に雇われているのかたまに理由が分からなくなります。
まあ、使い勝手がいいっていう点だけで生かしてるんでしょうけどね。
榊さんが私の喉から手を離します、3回ほど深呼吸をして息を整えた後、私は起き上がりました。
雇われた当時からほとんど変わらない殺風景で狭い室内が目にうつりました。
増えた物と言えば私が眠っていた長座布団と毛布くらいなものでしょう、机の中身とクローゼットの中身は増えているのですが、目につくようなものではありませんし。
そう言えば、1年半前くらいに突然室内に長座布団と毛布が投げ込まれる前までは床で寝ていたのだったなと思い出しました。
長座布団と薄い毛布だけで寝るのにも慣れ切ってしまいました、ここに来る前も似た様なものでしたが、あの頃はまだちゃんとした布団で寝ていましたから。
生活水準もあの頃よりも劣化していると言ってよいでしょう。
生活水準だけは年月と共に劣化していますが、それ以外はどうでしょうと考えた所で、最低でも最高でもないと言うのが答えでした。
「で?」
食パンにベーコンエッグを挟んだだけの質素な朝食を食べながら、榊さんがこちらを見ました。
そう言えば昨日は結局深夜まで彼が帰ってこなかったから、報告していないのでした。
夜中にたたき起こさなかったのは多少気を使われたのか、ただ単にそこまでして聞くほどの物ではなかったからか。
多分後者でしょう。
彼にとっては大した情報じゃありませんから。
私にとってはある意味大問題でしたが。
「はい、榊さんが2区で見た白兎の連れの少女、素性が分かりました」
依頼されていた、と言うか命令されていた仕事は最近2区の白兎が連れていたと言う、純血らしきアリスと言う名の少女の素性調査でした。
アリス、と言う名前と伝えられた特徴には覚えがあったので当たって欲しくないと願いつつ、調べて見たらビンゴでした。
なので割と簡単に情報を集める事が出来ました、というか半分はすでに私が知っている情報だったのですが……
「綺野アリス、現在18歳、純血。元……いえ、なんでもありません。空中島で生活していましたが、14歳の時に地上に堕とされていました」
口を滑らせて思わず言うつもりのなかった事を言いそうになりましたが、とどまりました。
この情報を‘現在’手に入れることはほとんど不可能なので、あまり話さない方がいいかと。
不可能とはいっても知ってる者が調べようと思えば普通に辿り着ける情報です、その事を知っている人間は地下街には私しか生き残ってませんが。
むしろ私を含め、地下街にあの事を知っている人間が複数いた事がすでに異常だったんですけどね。
その情報のおかげでその先、現在の彼女の立ち位置なんかもかろうじて調べられました、まさかあんな突拍子のない計画があるとは思いませんでしたが。
あの計画の事だけは本当に誰にも言わない方がいいでしょう、知っていることがバレたら消される可能性が高いですから。
というかなんであんなものを引き当てられたのか……反抗者でもいて、その人が意図的に情報が漏れやすいようにしてたんでしょうか?
まあ、どうでもいい事でしょう、私には関係の無い事です。
「元、なんだ?」
「元S学園所属、です。あまり必要の無い事柄だったので省略しました」
嘘は吐いていません、口を滑らせかけた情報ではありませんが。
「ふーん……で、何故地上に堕とされた?」
疑問が次の段階にうつったので少しだけほっとしました。
「堕とされた原因は指名手配犯の逃亡補助です。この時彼女が逃亡補助した手配犯の顔写真がありました、画像が荒いので断定はできませんが、おそらく白兎であるかと」
単に見つけた画像が荒かったわけではなく、元からかなり荒いものが使われていたらしいのです、複数のデータを集めたのですが、どれも、髪の色と目の色など特徴的なものは読み取れるのですが、詳しい顔の特徴までは判断できません。
おそらく詳しく知られたくない何かがあったのでしょう、白兎についてもちょっと調べてみたのですが、地下街に来る前にどこで何をしていたのかは結局何一つわかりませんでしたし。
「白兎? あれも島出身か?」
「……すみません、ここに来る前の情報は何も……分かった事は島からここに堕ちてきた事くらいで……」
「探れなかったのか? お前が?」
榊さんが軽く目を見開きました、そんなに驚くような事ではないと思いますけど……
アリスの事も私があらかじめいろいろ知っていなかったらかなり早い段階で積んでいた可能性がありましたし。
まあ、アリスあっての私のハッキング技術なので、そんなありえない可能性を考えても仕方ないんですけどね。
早い段階で積んでいた、と言ってもそれでも榊さんが望む情報は得られていたましたけど。
と言うか、今回私が掴んだほとんどの情報は榊さんに話す必要がない物です。
半分以上は私個人の為に集めた様なものですし。
「はい。……多分、上が意図的に隠しています。流石に無理でした」
無理に調べようと思えば調べがついたのでしょうが、あの計画同様、地雷を見つける可能性があるのでこれ以上詮索しない方がいいかもしれません。
あの計画以上の地雷は流石に無いと信じたいですけどね。
「ふん……なら、仕方ない」
白兎の事はこれくらいでいいでしょう、と言うか本筋から外れていますし。
話をアリスに戻しましょうか。
「アリスは地上に落とされた後、母親と共に島の真下の居住区に住んでいました」
「母親? 父親やそれ以外の家族は?」
そう問われて、そういえば家族構成については触れていなかったことを思い出します。
「父親、綺野累は13年前、アリスが5歳の頃に事故死しています。それ以降は母親、綺野梨奈に育てられたようです。兄弟もいませんでした」
「ふーん」
反応が薄い、まあ、大した情報じゃありませんし。
片親だけでも生き残ってさえいれば、ここでは十分な幸福者ですし。
「母親は元々優秀なSEだったのですが、アリスの監督責任を問われ地位と職を失い、アリス同様、地上に堕とされています。地上に堕とされた後、すぐに地元の企業にSEとして再就職した為、生活には困らなかったみたいですね」
その後の経歴は当たり障りのない物でした、堕とされた当初は周囲から白い目で見られていた事も多かったようですが、母子ともに人当たりの良い性格だったのが幸いしたのでしょう、次第に母娘は周囲の人々と良好な関係を築き上げる事が出来たようです。
アリスも転校した中学校で一時期いじめに遭っていたようですが、すぐにその虐めも立ち消え、クラスでも中心人物とまでは行かなくとも、クラスメイトからそれなりの信頼を受ける事が出来ていたようです。
その後も順調に地元の高校に進み、アルバイトと並行して普通の、普通よりも若干忙しい学生生活を送っていたようです。
そんな生活に転機があったのは彼女が18歳になった夏、彼女が高校3年生の夏休みを謳歌していた真っ最中の出来事。
つまり今から二か月前の話になります。
「それで? どうしてあの女はここに堕ちてきたんだ?」
榊さんの問いかけに、私は淡々と答えました。
「今から2か月前、8月15日にアリスの母親が変死、その殺人容疑がアリスにかけられました」
「ふうん……人を殺せるような奴には見えなかったが……」
一瞬榊さんは思案にふけりました、まあ、そのカンは正しい物なんですけどね。
「ええ、だって冤罪ですから」
「……へえ」
「上はおそらく危険因子であるアリスを排除したかったのでしょう。殺人の罪もアリスに押し付けられますから一石二鳥です」
彼女が逮捕されていたら一石二鳥どころの騒ぎではなかったのかもしれませんが。
「その言い様だと、まるで上がアリスの母親を殺したかのように聞こえるが?」
「ええ、その通りです。アリスの母親を殺した犯人はどうやら空中島の重鎮の手が掛かった者であるみたいですね。……流石にどうやって殺したのかは分かりませんでしたが」
何故殺したのか、その理由はおおよそ予想できますが、言うつもりはありませんでした。
アリスの母親も優秀なSEであり、同時にハッカーでした、おそらく彼女も私と同じ情報を掴んでしまったのでしょう。
「冤罪を着せられたアリスは当然逮捕されそうになったのですが……そこに乱入してきたのが白兎でした。白兎は上手い事上の包囲網を掻い潜り、最終的に下水道に開けられた抜け穴からアリスを連れてこの地下街まで逃げ切ったようです」
簡単に言いましたが、これはかなりすごい事ですよね。
「なるほどつまり……恩人を助けたってわけか」
「そう言う事なのでしょう」
そのくらいしか理由は考えられませんし。
他の可能性があるとするなら、白兎があの計画を知っていたと考えると……いえ、無いでしょう。
「上はあの女を探しているのか?」
「いえ、探している様子は今のところはありません。上にとってここはゴミ箱同然ですから、上に対して彼女たちが何かを起こさない限り、何も起こらないと思います」
「本当に?」
「ええ」
その事に関しては殆ど確信していました、上は地下に興味を持っていない。
上に何の被害が無ければ、基本的にここで何が起きようが知ったこっちゃないのです。
上の指名手配犯がここに逃げてきて、ここで大量殺人が起きても、知ったこっちゃないのです。
何らかの機密情報が漏れたとしても上からしたら痛くもかゆくもありません、もしもその情報が地下街の外に流出したとしても地下街から発信された情報ならほとんど信用されませんし。
もしも少しでも上がここに介入する気を持っているのなら、私は今ここに居ませんし、私の親友もきっと生きているはずですから。
まあ、全員皆殺しにされていた可能性の方が高いですけど。
そう思うと今の状況は、少しくらいまし……じゃないですね。
彼女や彼らが死んでしまうのならどちらにせよ最悪ですから。
「なら別にいい……と言っても2区の連中がどうなろうと別に関係ないが」
「ですね」
別の区、と言うか自分達に関わりの無い事に関しては別にどうでもいいのです。
だから今回の情報も、特に榊さんにとって有意義なものは無いのです。
まあ、暇つぶしみたいなものでしょう。
榊さんはアリスから興味を失ったのか、それ以上何も言及してきませんでした。
しんとした沈黙が部屋を支配しました。
まあ、私が集めた情報もこれで大体話し終えてしまいましたしね。
食器を片づけながら、ふと思いついた事を私は口にしました。
「それにしても……彼女が赤の女王の傘下に入ったとなると、あちらの情報が探りにくくなるかもしれませんね……榊さんがあちらに関与する事はあまりないでしょうけど……またこの前みたいなことが無いとは言い切れませんし……」
流石に彼女相手に情報を抜き取る自信はありません。
抜き取る事は可能かもしれませんが、ほぼ確実に特定されます。
と言うかそうならなかったら、14歳までの私や彼女達が何の為に死ぬ気で勉強させられてきたのか分かりません。
ただの骨折り損のくたびれもうけじゃないですか。
もし、彼女と情報戦において対決する事があったとして、もしも彼女が私にあっさり敗北したのなら、私はきっと彼女を絶対に許さないでしょう。
それは私だけじゃない、彼女や彼らへの冒涜です。
そんな簡単に勝てるのなら、私も彼女も彼らも何のためにあんな目に遭ったと言うのでしょうか?
だから、もしそのような事になるとするのなら、絶対に許さない。
まあ、今の所彼女の才能は放置されているみたいですから、そんな簡単に私達の対決が起こるとは思っちゃいないんですけどね。
だから大した事ではないでしょう、とまとめた食器を下げようとしたところで、待ったがかかりました。
「おい、待て雑用」
「何ですか?」
はて、引き留められるような事をしたつもりもなければ言ったつもりもなかったのですが。
「あいつ頭いいのか? そんな感じは無かったが……」
どうしてそんな当然のことを何故わざわざ問い詰めてきたのでしょうか、訳が分かりません。
「ええ……元々空中島のエリート中のエリートですから。私なんかよりも、ずっと。月とスッポンですよ」
「へえ?」
「天才ですよ、そういう風に作られたんですから。比べるまでもありません……現時点で地下街にいる人間で、最も優秀な人間は間違いなく彼女です、あ、知能面で見た話です。身体能力は平均か、それ以下だと思います……まあ、身体能力はともかく、知能において彼女に勝るものはそうそういませんよ」
遺伝子操作も万能ではありません、優秀な遺伝子を組み込むためには下地も優秀でなければならないのですから。
彼女は遺伝子操作を積み重ねて作り上げられた、現時点で最も優秀な遺伝子を持つ子供、そのうちの1人なのですから。
混血の私など、足元にも及ばない。
そんな事は遠い昔から知っていました。
それなのにそんな事にも気づかない愚か者に随分と煮え湯を飲まされ続けていましたけど。
あの男、上出身なのに何で地下街出身である私達でも分かるような事を理解していなかったんでしょうね。
まあ、あの男はぶっ壊れてましたからね、どうしようもなかったんでしょう。
巻き込まれたこっちはたまったもんじゃありませんでしたけど。
あの男のせいで何人死んだんでしょうか、あんまりにも多すぎて、人数は思い出せませんん。
結局、私以外は全員死んでしまったんですから、本当、勘弁してほしかったですよ。
生き残った私もこの様ですから。
「そんなに優秀なら……欲しいな、その女」
グダグダと考え込んでいる間に、ぼそりと榊さんがそう呟きました。
「え……」
それって、どういう?
「俺はお前の事をそれなりに買っている」
「……えっと……ありがとうございます?」
取り敢えずお礼を言っておきました、褒められてもあんまり嬉しくはありませんが……
「空中島のエリート云々とか、冤罪がどうこうっていう話を聞いてる間は、別に大した興味は無かったんだがな……だが、お前よりも優秀だと言うだけで興味が湧いた」
「え……そう、ですか?」
それだけ? それだけで興味湧きますか? 私より優秀なだけで?
そんな人、地上とか空中島にはごろごろいますよ?
それこそ掃いて捨てるほど……
「俺はお前よりも頭がいい奴を知らないからな……お前が他人に敵わない、とか言うのも初めてだ……なら、あの女はよほどの奴なんだろう」
「ええ、まあ、そうですけど……」
何ででしょうか、アリスの経歴を聞いて興味が湧いたならまだ納得できるんですが……私が自分よりも優秀だって言った途端に興味を持ったような口振りをされるのは納得いきません。
何ですかその基準、おかしくないですか。
榊さん、私の事どんだけ買い被ってんですか?
買い被りすぎでしょう。
「なら、お前の代わりに奴を使うのもいいかもな」
と、榊さんはとても愉快そうに口元を釣り上げて言いました。
……それって死刑宣告ですか?
私が皿を洗っている間に、榊さんはどこぞに出かけて行きました。
今日の予定って何でしたっけ、しばらく思い出せませんでしたが、今日は確か叶人さんの所に行くって言っていた事を思い出します。
一人きりになった部屋の中、ソファに座りこんでしばし思考に浸ります。
困った事になりました、ほぼ自分の不注意な失言のせいでした、何であんな事を言ってしまったのだろうと後悔してももう遅いです。
代わりの、それも私よりもずっと性能のいい道具を榊さんが手に入れるのなら、私は用済みで殺処分確定です。
教授がやっていたような処刑を榊さんがするとは思いませんが、そんな事は些事です、どちらにせよ私が殺される事は変わりありませんから。
どうしよう、と思いました。
どうすれば殺されずに済むのでしょうか、逃げればいいのでしょうか?
いえ、逃げた所で無駄でしょう、じきに捕まって殺されます。
ならどうすればいいのか、代わりが来れば私はお役御免で殺処分、どうすれば……
……代わりが来なければいいのではないでしょうか。
要するに、代わりになる彼女が来られないような状況にしてしまうとか、例えば、そう。
殺してしまえば、いいのではないでしょうか?
………我ながら、狂った発想だと思います。
でも悪くは無い、と言うか、これくらいしか思いつきません。
それでも流石にどうだろうかと思ったので、一分だけ他の策を考えてみました。
しかし、彼女を殺す、以上に良い策は思いつきませんでした。
赤の女王や彼女の兵隊に榊さんがアリスを狙っていると密告する、と言う策もある事はあるんですが、信用されないでしょうし、信用されたところでこの行為は彼の情報を漏らさない、と言う契約を違反する事になるのであまりしたくありません。
だからもう、殺す以外の選択肢は思いつかなかった、と言う事にしてしまっていいでしょう。
それに、アリスを殺してしまえば私とアリスが今後対決する事は無くなります、それは私にとって好都合です。
円卓の子であったといえ、12歳の頃にその席を剥奪された彼女がその才能を、私の元になった才能を伸ばす事無く放置していたと言うのなら、今の私が彼女を超えている可能性も極僅かですが存在しています。
それだと私の心情的に困るのです、彼女はどうあっても超える事が出来ない壁であっていてほしいのです。
だって今更私が彼女を超えていたとしても、何の意味もないんですから。
6年前ならまだ意味がありました、私は自由にはなれやしなかったでしょうが、彼女や彼らを自由にする事は出来たかもしれません、あの地獄から彼女達を救えたかもしれなかったのですから。
だから、もし私が彼女を超えていたとするなら、虚しすぎます。
それでも。
彼女を超えたい、何て願望が僅かながらあるのは幼少期の教育のせいなのでしょうけどね。
本当、下らない。
閑話休題。
取り敢えず、アリスを殺すと言う方針で決まりです。
では、善は急げと言う事で、さっそく行動に移りましょう。
まずは、目的地までの道筋を確認しなければ、まあ、それくらいだったらすぐに分かります。
武器は今持っている物で充分でしょう、赤の女王の兵隊達や白兎との戦闘を避けさえすれば、大した身体能力を持たない、最近まで地上でぬるま湯につかるように生活してきた彼女を殺すのは私であっても容易いでしょうから。
そして、現在、彼女が地下街に慣れてきたからなのでしょう、赤の女王の兵隊達が彼女の守りについていない事が最近になって多くなってきている事は確認済みです。
私にとって、非常に好都合なシチュエーションが整っています。
だから、それほど念密な準備をする必要はなさそうですね、と私は推測しました。
ソファから立ち上がり、彼女を殺す用意と着替えの為に部屋に向かいます。
――ああ、そうだ、アリスを殺した後に、スーパーに行って牛乳と卵と食パンを買い足さないと。
そんな風に大した準備はせずに、榊さんの家を出たのが大体9時くらいでした。
「ここ……どこでしょうか……」
私は、道に迷っていました。
分かりやすく言ってしまえば迷子と言う事になるのでしょうか?
ここが3区のどこかである事は間違いないのですが、3区の何処なのかがさっぱりわからないのです。
最初は良かったんです、丸々記憶した地図に従い、足を動かせば済む話なんですから。
ですが、途中に遭ったトラブルによって順路を外れました。
それで道がさっぱり解らなくなくなってしまったのです。
図面と実際の道がこんなにも違う物になるとは思っていませんでしたよ。
普段歩きなれている場所だったのならまだ何とかなったのでしょうが、この辺りは今まで一度も来た事が無かったのです。
そう言えば私、生まれてから地下街どころか3区のごく狭い場所から出た事が無い事に今更気付きました。
14歳までは監禁状態でしたし、それ以降は娼館とスーパーと事務所を往復していただけでしたし、榊さんに雇われてからは榊さんの家とスーパーの往復くらいしかしていません。
今までの自分の行動範囲の狭さにちょっと驚いています、もう少し広かった気がするのですが……
順路を外れてからは街を彷徨い続け、時々チンピラに絡まれたり巡回していた希未さんに助けられたり痴話喧嘩に巻き込まれたり……何度か本気で死ぬかと思いました、途中で何か幻覚みたいなものも見えました。
笑顔の親友がこちらに向かって手を伸ばしているのを見た時は本当に死んだかと思いました。
でも今死ぬわけにはいきません。
頬をバチンと叩いて気合を入れ、私は再び足を動かし始めました。
3区はカジノや娼館が数多く立ち並ぶ繁華街です。
また多くのヤクザやマフィアが鎬を削っている地域としても有名です。
ネットの情報だと地上や空中島の人が地下街、と聞いて思い浮かべるイメージにこの3区は限りなく近い……らしいです。
実際、地下街をモデルにして描かれた映画やドラマ、小説などを見ると、大体3区をモデルにしたのだろうな、と言う描写が多いのです。
2区や4区、1区に似た地下街を扱った創作物は今まであんまり見た事はありませんね。
5区は3区ほどではありませんが他の区よりは多めであるようです。
そんな地上の人が思い浮かべる地下街のテンプレであるこの区画のその他の特徴としては、他の区画よりも奴隷として隷属させられている人が多い事もあげられるでしょう。
労働力としてはもちろんですが、どちらかと言うと性的な奴隷の数が圧倒的に多いようです、まあ、こんな区画ですもんね。
私も昔は奴隷として売られた事がありました、そう言えばあの時私が売られたオークション会場、まだ残っているんですよね。
私の落札金額、75万でしたっけ、今思うとボスって意外と太っ腹だったんですよね。
……と、ボスって呼ぶと殴られるのでその呼び方は止めておきましょう、もうすでに故人ですから特に意味はありませんが。
当時の私ははあまりそう思っていませんでしたが、思いのほか情の深い人でもあったのでしょう。
なんだかんだ言って、あの人身内には優しかったですからね。
まあ、変な趣味の人ではありましたが。
大した力も権力も持っていませんでしたが、その変態的で倒錯的な趣味のせいでちょっとした有名人でしたもんね、あの人。
私もあの人の趣味は最後まで理解できませんでしたから。
別の意味で榊さんよりも恐れている人が多かったという噂も目にした事があります。
まあ、榊さんと姐さんのどちらが怖いかと言われると、榊さん一択だと私は思いますけどね。
ただ、榊さんよりも姐さんに、見た目と言うか本能的な恐怖を抱くのは妥当だとは思いますけど。
ガタイだけなら姐さんの方がありましたし、何も知らない人にどっちの方が強そうかと聞いたら十中八九姐さんの方が強いと予測するでしょう。
私もそう思いますもん、だって榊さん、見た目だけならそれほど強そうに見えませんから。
実際は全然違うんですけどね。
だって榊さん、私が後々聞いた話によると、姐さんとその他部下であるマフィアの構成員全員を瞬殺したらしいですから。
そんな事を考えながら約3時間。
歩き続けた、時々全力で走り続けた足はすでに限界を迎えていました。
2区と3区の境界に置かれている標識を見た瞬間、涙腺が緩んだのか右目から一滴だけ涙が零れます。
や……………………やっと、着きました………?
一時間。
本来、出発地点からこの場所にたどり着くまでにかかる時間です。
それは徒歩に限った話で、交通機関や自転車などを使えば当然、もっと早く着きます。
実際、私がここに辿り着くまでに掛かった時間。
五時間。
掛かりすぎです。
しかしもういいでしょう、辿り着けたのですから、終わった事です。
さてと、
今の時間ならまだ間に合うはずです。
ただ、自分の方向音痴っぷりは今日一日でいやすぎるほど把握したので、彼女のバイト先である定食屋に辿り着けるのか、と言う不安はあるのですけどね。
……一度出直した方がいいのでしょうか? まあ、間に合わなかったらまた明日来ることにしましょう。
それで手遅れになったら洒落にならないですけどね。
そんな風に考えながら怠い足を踏み出しかけた時に、自分の真後ろにいきなり何かの気配を感じたので反射的に振り返りました。
自分の対危機処理能力はきっと格段に上がっているはずです。
はずなのですけど、所詮レベル1がレベル10くらいまで上がったくらいじゃ、修羅場を何度も潜り抜けているような玄人には手も足も出ないのでしょうね。
振り返った瞬間、喉を掴まれ、持ち上げられました。
「……………っ!」
足が地面に着きません、ぶらぶら揺れます。
喉を締め上げられているせいで、息が出来ません。
バタバタと足を振る以外に何もできない私に、私の首を吊る誰かがぞっとするほど冷たい声を掛けてきました。
「雑用。こんな所でお前、何をやっている? 仕事は?」
聞き覚えのある声でした。
今朝聞いたばかりの声です、ここ2年ほどの間、ほぼ毎日聞いてきた声でもありました。
榊さん、何故ここに。
と言ったような事を言おうとしたのですが、喉を掴み上げられた状態でまともな声を出す事は出来ず、結果ただ変な荒い息が口から漏れただけでした。
喉が掴まれた状態だと私が何もしゃべれない事に気付いたのか、榊さんは私の喉を投げ捨てる様に離しました。
尻を思い切り地面で打ちましたが、その痛みがどうでもよくなるくらい、喉が痛いです。
思わず咳き込むごとに、焼ける様な痛みが喉を走ります。
首を絞められる事は慣れていましたが、流石にここまで絞められる事は滅多に無かったですから。
しばらく咳込んでいるうちに喉の痛みが引いていきます、咳の回数が少なくなった頃、頭上から榊さんの声が聞こえてきました。
「……もう話せるな?」
疑問形で問いかけられましたが、限りなく断定的で強制力のある問いかけでした。
「……………はい」
首肯しつつ何とか声を出しました、多分話さないと追撃が来ますから。
今までの経験上、そうなる事は見え切っていました。
「で? お前はこんな所で何をしている? サボりか? いい度胸だな?」
「……道に……迷いました………サボりでは……ありません」
アリスを殺しに来た云々を言うと殺されると思うのでそれは黙っておきましょう。
割と軽率にアリスを殺しにここまで来ましたが、よくよく考えるとその所業がバレたら私普通に殺されてましたね、どうして今まで気付かなかったんでしょうか?
多分、柄にもなく動揺していたからでしょう。
「………スーパーに行こうと……思ったのです、が……途中チンピラに……絡まれたり、痴話喧嘩に巻き込まれて……逃げ回っているうちに……こんなところ、に……」
嘘は付いていません、スーパーに行こうとしていた事は本当です。
ただ寄り道をしようとしていただけで。
その事を言わない事は
榊さんは黙って私の顔を睨み付けていました。
誤魔化した事を悟られたのでしょうかと内心びくびくしていたのですが、数秒後に榊さんは私から視線を外しました。
「お前、頭いいくせに道に迷うんだな……ダセえ」
心底呆れた様な声でそう言われました、それは自分でもそう思います。
「すみません……」
素直に謝っておく事にしましたが、これからどうしましょうか?
今からアリスを殺しに行く事はほぼ不可能です、無理矢理実行しても榊さんに殺されてお終いです。
なので今日は引き上げる、と言う選択肢以外を選ぶことは出来なくなりました。
そのこと自体に問題はありません。
それ以外にはありますが。
そう。
どうして、榊さんはここに、2区と3区の境界であるこの場所にいるのか。
その理由は、今の所一つしか考えられませんでした。
だからこそ、私は彼に問いかけなければなりません。
「ところで榊さんは、その……」
喉の痛みがひいてきたので普通に話せる状態にはなってきているのですが、その先を言うのを躊躇ってしまいました。
「あ? 何だよ」
中々続きを話さない私に榊さんが苛立ってきたので、思い切って聞いてしまう事にしました。
「えーっと、その、それで……榊さんは、アリスを、その……攫いに……?」
思い切って聞くつもりだったのにそれでも大分躊躇ってしまいました。
もし榊さんがアリスを攫いにここに来て、偶々私と遭遇したと言うのなら、この場で、まさに今殺されてもおかしくありません。
榊さんの反応を窺います。
少しでもその素振りが見受けられるのなら、全力で逃げるつもりでした、無駄な抵抗ですが、それでもそうするしか生き残る道はありませんから。
しかし、榊さんは私が予想していた反応とは、全く別のリアクションを取りました。
榊さんは目を見開いて、理解不能な物を見る様な目で私の目を凝視していました。
「……は?」
榊さんは一瞬目を見開いてポカンとしていましたが、すぐに先程と同様、いえ、もっと心の底から呆れた様な表情で私を見下ろしました。
「……あんなん冗談に決まってんだろうが」
「じょうだん……」
じょうだん、冗談、数回その単語を反芻して、やっとその意味を理解しました。
つまり、アリスを私の代わりに据えると言う話はただの冗談だったと言うわけで。
つまり、私が5時間掛けてここまで来たのは何の意味もないわけで?
そう理解した瞬間、自分の身体から力が抜けていくのが分かりました。
何だ、それじゃあ、私が殺される事もない、って事ですか。
何だ、それじゃあ、今日の私の苦労は全部徒労だった、って事ですか。
「お前……頭は良いくせに、変なところで馬鹿だよな」
本気で呆れた榊さんの声が上から聞こえてきます、力が抜けた拍子で顔も下を向いていたので彼がどんな顔をしているかは見えませんが、大体予想は付きます。
「返す言葉もありません……」
今までの人生で面と向かって馬鹿と言われた事なんて片手で足りるくらいの回数なのですが、今回は素直にその言葉を受け入れようと思いました。
そう言えば、誰にそう言われたんでしたっけ、確か姐さんと美也子さんと檸檬さん……と、後は彼女(しんゆう)でしたね。
あれ? 思ってたよりも多くないですか? もっと少なかったような気がしてたんですが。
思わず指折りで数えて、榊さんを入れたら片手が塞がってしまいました、あれ……三人くらいだった気がしていたんですけどね……?
ちょっと衝撃的でした、これでも馬鹿ではないと言う自負を持っていたので。
ここまで馬鹿扱いされるのはちょっと遺憾です。
遺憾の意を表明した方がいいのでしょうか、とするつもりの無い戯言を考えた所で榊さんが私から背を向け、こちらを振り向きながら口を開きます。
「まあ、いい。帰るぞ、柊」
……はい?
ヒイラギ、とは? 誰でしょうか?
「え……っと」
ひょっとしてツレでもいたんでしょうか、と辺りを見渡してみましたが、特にそれらしき人物は見当たりません。
数秒辺りを見渡して、最終的に榊さんに目線を戻します。
柊って誰ですか、と聞こうと口を開いたところで舌打ちをされたので思わず黙りました。
「お前の名前」
舌打ちの後に、何故か酷く不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら榊さんはそう言いました。
「え……?」
名前? 私の?
「無いと不便だから、これからはそう呼ぶ」
そう言って榊さんは私から視線を外し、さっさと歩いて行ってしまいました。
無いと不便って、2年以上雑用で通してきたのに何で今更そんな事を……?
と思っているうちにどんどん榊さんの背中が遠くなっていきます。
私は慌てて立ち上がり、その後を追いました。
その後、私は何も言わずに榊さんの後ろをついて歩きました。
榊さんも特に何も言わずに、黙々と歩き続けています。
早足なので後を追うのが少しだけ大変でしたが、まあ、これくらいならどうってことは無いです。
それにしても、今度の名前は“柊”ですか。
榊さんの背を追いながら少しだけ考えます。
今までは“雑用”、その前は“参謀”、その前も“雑用”でした。
そしてこれからは柊、随分と人間らしい名前を付けられたものですね。
ここまで人間臭い名前を付けられたのは初めてです。
所で、私が2番目か三番目くらいに恨むべき他人に、教授や彼女を殺した顔すら覚えていない”誰か”を除けば一番恨むべき他人に、一番人間らしい名前を付けられるって、中々皮肉な話じゃありませんか?
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