第4話 最後の契約更新
ところが一週間後、俺はまた彼女、スズに連絡をとっていた。木内鈴子、彼女の名だ。
出張先に持ってゆく土産を駅まで届けて欲しいという依頼だ。部類の酒好きの取引先社長のために俺が苦労して手に入れた銘酒を、つい部屋の玄関前に置き忘れたのだ。出がけに後輩がトラブって電話をかけてきて、気をとられたせいだ。
もし自宅まで取りに帰っていれば俺は新幹線に乗り遅れることが必至だった。
スズは相変わらず笑顔で俺の自宅前から酒を回収し、品川の駅まで原付を飛ばして来てくれた。この時は寝起きかと思えるようなスェットにダウンコートを羽織った姿だった。
結果として幻の銘酒という賄賂が効いたのか、商談は成立し、年度末の滑り込みで俺の営業成績に華を添えた。
時間屋の仕事が成功報酬制であっても、俺の成功に対して相対的に報酬制度が働くわけではない。このケースは俺が新幹線を遅らせれば十分可能であったため、律儀にもスズが得たのは片道運賃に相当する金額だけだった。
それからも俺は、こういった小さな依頼を何度かスズにした。時には面倒だからという理由ですら使った。使い方を間違わなければ、目くじらを立てるほどの請求も来ないことが判った。
そして何度目かで気付いたのだが、スズの請求額の算出方法は意外にアバウトだった。それだけに交渉の余地もある。それに、希に抜けている要素もあり、その都度俺が指摘して、自ら金額を加算することさえあった。
それは、互いの信用と信頼がなせる、良質なパートナーシップと言ってよいだろう。
俺達の契約は三ヶ月を過ぎた。
もう何度となく俺はスズの世話になっている。契約更新も次で四度目だ。そのため料金の請求と支払いは月末に一括で行われるようにしてもらった。
言うまでもないだろう。俺は彼女に対価を払って助力を得て仕事は順風満帆だった。時間が有効に使えることで全てが上手くいっていた。
しかも、なんと今年はゴールデンウィークに休みがとれたのだ。お礼の意味を込めてスズを食事に誘った。無論仕事は抜きで、と断ったうえで。
その頃から、スズには俺のマンションの使っていない一室を彼女の事務所として使わせて、出入りも自由にできるよう鍵を渡していた。いつでも俺の秘書のように動いてくれるのだからその方が都合がいい。俺と一つ屋根の下で暮らすようになってからのスズは、周囲に気を配って、落ち着いたカジュアルな服装を心がけるようにしているらしい。
彼女が今まで仕事の度に服装を変えてきたのは、状況ごとに最適の選択をしてきたからだという。全てがそうだったのだろうかと思い返してはみるものの、もはや依頼の全ての状況を思い出せない。
そのくらい俺は多くの仕事の依頼をしてきたのだ。
スズは気が向いたときには、朝食や夜食を作ってくれることもあった。これは私が勝手にやることだから仕事ではありませんよ、とほほ笑む。
ただ、晩飯を作るのは仕事としてカウントする。朝食や夜食と何が違うのかって思うだろうか? だが、納得せざるを得ない。彼女の作るディナーは、接待などで肥えきった俺の舌を十二分に唸らせるものばかりなのだ。
食材もそれなりに良いものを使うため、彼女に支払う対価を勘案すればホテルのディナーに匹敵する金額になるのだが、あえて俺はスズの手料理を選ぶ。
俺だけのために作られる料理。
俺だけのために居る彼女。
この数年、これほど穏やかな気持ちで、かつ時間をかけて食事をすることなどなかった。
一口、一口が味わい深い質のいい食材。料理に合わせたワインのチョイスも完璧だ。
俺は心からスズに感謝した。ビジネスではなく、心からだ。
そして彼女は女性として、俺の臥所(ふしど)の共もしてくれた。
さすがにそれは無理だろうと思っていたのだが、軽蔑されるかもと恐る恐る訊いてみたところ、なんと、部屋から風俗店までのタクシー代往復分と、平均的なプレイ料金程度の金額提示だった。
俺は迷わずスズを抱いた。
スズがいることで俺の生活は一変した。もう以前のように時間に追われることはなくなった。そして仕事に追われることもなくなった。充実している。
俺は出来た余剰の時間を使って会社帰りにボルタリングジムに通い始めた。気がむいたらバスには乗らずにジョギングをして帰ったりもしている。なんとすがすがしい健康的な日々だろう。
何よりも家に帰れば彼女がいる。いつしか俺はそれが何より嬉しいと思いだしていた。
彼女のために俺は会社で仕事をして稼ぐ。そしてまた契約更新をして、稼いだ金で彼女に仕事をしてもらう。
スズと離れたくなかったからだ。ずっとここに居てほしいと思ったからだ。他の誰かに契約されたくなかった。俺だけの彼女、俺だけのスズで居てほしかった。
年が明けて、俺は十二度目の契約更新を申し出た。
「承知いたしました、では新しい契約書を用意しますね」
スズが契約書を自室に取りに行っている間、俺は一枚の紙をテーブルの上に広げた。彼女が戻って来ると同時に、俺は背筋を伸ばして彼女の瞳を見つめて言う。
「すまないが、これで最後の契約更新にしたいと思うんだ」
そしておもむろに、彼女に向けて“婚姻届”という契約書を差し出した。
スズはそれを見て言葉を失っていた。
どうすればいいのかわからないといった風にも見えた。
潤んだような瞳は感動して言葉にならないと語っているようにも思えた。
やがて彼女は口を開く。
「こちらに、署名、捺印をすればよろしいのでしょうか?」
「ええ、お願いします。俺はあなたと一生を共にしたい。結婚して欲しい」
暫し逡巡したかのように見えたが、スズはペンを取り「わかりました」と言った。
捺印した彼女は、俺の目を見て、微笑んでくれた。
そんな訳で俺とスズは結婚して一年になる。
俺が今どういう生活をしているかって聴きたいか?
毎月末にスズが管理する口座に俺の給料の全てが振り込まれ、俺の手元には彼女の請求額を差し引いた雀の涙ほどの現金が手渡される。彼女はこの方が合理的でしょうと言ってのけた。
俺も、そうだと思う。
以前と違い、スピーディーな朝食に、昨晩のおかずを駆使した昼の弁当、そしてシンプルでヘルシーな夕食とささやかな晩酌を用意してくれるのはいい、スズには感謝している。
だが以前のようにレストラン並のディナーを作ってくれと要求しても、収入に見合わないことを理由に拒絶される。
車はずいぶん前に売却した。彼女が居ることで急な動きをしなくても、事前に回避できる余裕ができたからだ。彼女への支払いが増えた、というのも理由の一つだが、結果としては満足している。
彼女のおかげで出勤の車中で髭を剃ったり、コーヒーを飲んだりハンバーガーを貪ったりしなくても良くなったというのは、良いことだと思っている。
掃除も洗濯もつつがなくこなしてはくれるが、もう以前のように俺の仕事を手伝ってくれるようなことはない。これも彼女なりに算出をすると、月の利用料を大幅に超過するためだという。
スズの理屈では、彼女が俺の妻である限り継続的に利用料がかかっているのだから、以前ほどのサービスは受けられないのだという。
あまりにそれは理不尽だと、詐欺ではないかと激昂し、勢いのまま契約解除を求めたのだが、逆に俺が一喝された。
「契約の中途解除には違約金が発生します。すなわち私が本契約中に受けた依頼途中の内容により私自身が被る不利益分を請求させていただきます。これは契約時の規約説明で毎度お伝えしていることですが、よろしければ解除請求書をお持ちします」
俺の依頼は「一生を添い遂げてくれ」だ。
その対価は俺の生涯の年収と年金により支払われる計り知れない額だ。
そして彼女が主張する“自身が被る不利益分”の算出方法が恐ろしくなって解除請求を退けた。
俺はスズから時間を買った。
彼女の一生という時間を買った。
そして俺は、俺の一生という時間が俺一人のものではなくなったことを知る。
俺とスズは契約という書面で結ばれている。そして信用と信頼という揺るぎない絆が俺たちの間にはある。
普通に結婚した奴らはどうなんだろうな。もっと充実した人生を送れているのだろうか。いや、俺達ほどじゃないだろうな。
「じゃあ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」
俺はスズから手渡された一万五千円を財布に補充し、弁当を片手に自転車置き場へと向かう。
「斉木クン、おはよう! また来なさいよーぉ」通りの向こうから大声で手を振る吉野さんの姿が見えた。
結婚してからずっと千円散髪ばかりだったから、彼女のところに顔を出せずにいた。スズとの結婚の報告も、実はまだしていない。
自転車をこぐ俺の肩に桜の花びらがふと舞い降りてきた。
花びらはしばし俺の肩に佇んで、見つめていたが、やがて気がついたように春の風に誘われて飛んでいった。
いい天気はしばらく続きそうだ。
週末はスズを連れて、近くの公園に花見にでも行こうか。
時間をください 相楽山椒 @sagarasanshou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます