第2話 時間屋

 閉店して暗くなったディーラーの前で、営業マンを降ろし礼を告げると、彼はミラーから見えなくなるまで深々とお辞儀をして見送ってくれた。今日のところは俺がお辞儀をせねばならない立場なのだが。


 彼はこれから後片付けをして、ここから片道一時間半かかる、千葉のマンションへの帰途に着くのだという。帰ったら、風呂掃除をしなければいけないのだという。それが家事分担だという。


 スーツの上着を脱いでシャツ姿のまま裾をからげ、風呂桶をスポンジでこする男の背中を想像する。さっき一瞬だけ感じた申し訳ないという気持ちが、ドス黒い闇に包まれ埋没してゆく。


 まったく、ご苦労なことだ。


 家族と暮らす夢のマイホームの代償が、毎日の往復三時間の通勤と、自分がやらなければいけないという使命感を負わされた、くだらない家事。


 風呂掃除がどれほど夫婦関係の潤滑に寄与しているかは、独身の俺からは想像し得ないので文句を言う筋合いはない。


 俺としては、とにかくその三時間が惜しい。だから少々家賃が高くとも二十三区内にガレージ付きのマンションを借りた。車を手に入れたのも、いつ何時でもすぐに動けるようにするためだ。ガレージの賃貸料は月額四万五千円、ちょっとした貧乏学生の下宿代に匹敵する。しかしそれでも俺にとっては時間と効率性には代えられない。

 車を停め、ドアをロックし、そのまま部屋には戻らず二百メートル先の雑居ビルへと足を向ける。美容室のある二階を見上げると、まだ明かりがついていた。


 二十一時きっかり。間に合った。


「無理言ってすみません、吉野さん」


「いいえ、構わないわよ。斉木クンはお忙しいから」


 四十代前半だが、生き生きとしてまだ三十代半ばくらい見えるこの美容室の店主、吉野さんは俺を見るなりてきぱきと準備を始める。


「今までお仕事?」


「いや、明日のことでいろいろ走らなきゃいけなくて」


「頑張ってね」


「いや、どうなんでしょうね……」


「それは照れ? それとも乗り気じゃない?」


 吉野さんはケープをかけると、俺の両肩をぽんと叩く。それに俺は鏡越しに曖昧に笑い返す。


「結婚ねぇ。ま、あたしが言うのもなんだけど、それだけが人生じゃないけどね」


 彼女も分かって言っている。


「吉野さんは恋愛結婚、だった?」


 ええ、とため息混じりに答える彼女の吐息が、うなじに触れたような気がした。


「でも後悔はしていないわ。あたしたちはあれで精一杯だった。お互いのやりたいことをやりたいようにやった結果だからね」


「そういう夫婦ってやっぱり上手くいかないのかな?」


「別にそういうわけじゃないわよ。ただ、互いに一緒に居る意味を見出すことができなかったのね。お互いに店があって、ほとんどがそこでの生活。お互いに守るべきものが別々で大事なものも別々」


「お互いの店を一つにして、ってのは考えなかったの?」


 一応話の流れで放ったあいの手のようなものだ、彼女の答はわかっている。


「それでうまくいくと思う? あたしはまっぴら。四六時中旦那と一緒にいなきゃいけないなんて息が詰まるわ。それに喧嘩も絶えないでしょうしね。そうなればきっとお互いが嫌いになって別れていたと思う」


 彼女は話しながらも手を止めることはない。プロなら当然だが。


「世間の三十代は俺のように思う人が増えてるみたいですよ。自立した一人の人間としてあるために、結婚という柵(しがらみ)を嫌う、とかなんとか――独身で四十を迎えるのも珍しくなくなってきてますよね」


「年齢も重ねると自身を規定されることが億劫になるのかしらね――ああ、あたしはそういうのじゃないわよ。一度も結婚したことがないんじゃなくて、一度は結婚したけど肌に合わないからやめただけ」


 洗髪は家で済ませるからいいと、髪のカットが済むなり席を立つ。


「ま、今回は叔母の顔もあるし、親孝行だと思って行ってきますよ」


「そんなこと言わずに、いい人だったらお付き合いしてみればいいでしょ。別に独身にこだわらなきゃいけない訳でもなし。まだ多くの女性は男性のもとで安心安全に子を産み育てたいと願っているものよ。男性の経済力を当てにして普通の家庭を築くことをね」


 別に普通の家庭を断固として否定しているつもりはない。だがそういった家庭、それを支える男を見ていると窮屈に見えてならないというだけだ。手持ちの弁当、少ない小遣い、趣味があってもろくに時間もお金もつぎ込めない。朝から晩まで働いても家事や子供の世話をしなければ罵倒される。


 それに、なにより自分のこと以外に時間を食われる。俺はごめんだ。


 俺は吉野さんの見送りに手を振ると雑居ビルを出た。


 外に出ると、春を予感させる空気に鼻腔をくすぐられ、くしゃみをひとつ。


 さて、今夜は早めに寝るとして、寝酒でも買いに行こうかと部屋とは反対方向にあるコンビニへと歩みを進める。そういえば歩いてここらあたりをぶらつくなんてのも半年ぶりくらいではないだろうか。前まであった串カツ屋が潰れて“テナント募集”という張り紙がなされていた。


 ところがその店舗だった上階に奇妙な店、いや店と言っていいのか、窓に大きく“時間売ります”と切り抜いたカッティングシートが貼り付けてある。


「時間売ります……時間屋……」どういうことだろう?


 時間など売れるものではなかろう。


 まだ営業中なのか明かりが灯っている。その店舗にはどうやら雑居ビルの外側の階段を使っていかなければいけないらしい。


 なに、少し覗いてみるだけだ。おおかた趣味の時計店か、あるいは骨董品屋あたりだろう。


 雑居ビルの階段を上がると薄暗い廊下が有り、当該の店以外はスナックばかりだ。まさかここもただのスナックってことはないだろうな、だとしたらがっかりだ。“くつろぎの時間を売ります”なんてな。


 ドアノブに手をかけそっと開き、首を隙間から差し込むようにして店内を伺う。明らかにスナックではない。そして時計屋でもなければ骨董品屋でもない。店内は五坪もないだろう。やけにあっさりしていてリビングセットのようなものが一揃えあるだけだ。


「いらっしゃいませ」


 左側から女性の声がした。俺はそちらに顔を向け一瞬どきりとした。


 店主と言っていいのだろうか、スラリとした細身の美人がそこに立っていた。白いシャツにグレーのパーカー、デニムのパンツに頭にはニット帽。見る順番がおかしいって? いいんだよ。


 服装はラフで地味で飾り気のないものだったが、それをはるかに凌駕するような、彼女の大きな瞳、艶めかしい唇、綺麗に通った鼻筋、胸まである長い髪。そのどれもが輝いて見えた。


 俺が言葉を失っていると彼女のほうからしゃべり出した。


「すみません、こんな格好で……ご依頼でしょうか?」


「え?」


 俺が何を言われたのかが理解できずにいると、彼女は首を傾げてもう一度訊いてくる。


「あの、ご依頼ですか?」


「あ、ああ……ええと、外みて覗いただけなんだけど、ここって――」


 彼女はドアを開き俺を中へ迎え入れながら、笑顔を作り、室内照明のスイッチを操作した。どうやら店を閉める直前だったようだ。


「――時間を売るって、どういうことなのかなって思ってね。不思議な事を書いているなと……」妙な詮索はされたくなかったから早口で告げる。


「よく、みなさんそうやってこられますよ――でも興味を持ってこられる方は決まってお忙しい方ばかりなんです。つまり時間が足りないって思っている人」


 俺は肩をすくめて彼女を見ていた。図星ではあるが、誰だって時間は欲しいものだろう。時は金なりという格言すらあるのだ。


 俺は彼女に勧められるままソファに腰を下ろす。まさか新手の風俗店か、キャッチセールスではあるまいなと、キョロキョロと辺りを見回す。飾り気のない内装。照明だって店舗らしい懲り方は一切ない。このリビングセットだって、どこかのリサイクルショップでとりあえず調達したようなものに見える。コーディネートという言葉とは無縁だ。


「やっぱり怪しいですよね、こんな書き方」


「まあね。でも掴みはバッチリじゃないかな。で、ここは何屋さんなの? 『時間屋』って何?」面と向かってみると、正直彼女が最初の印象よりも随分若いことが見て取れたので、俺は口調を崩してしまった。二十代半ばくらいだろうか。


「わかりやすい言葉で言えば『家事代行』ですね」


 拍子抜けだった。それほど何かを期待した訳ではなかったが、あまりにストレートすぎて想像が及ばなかった。なるほど、俺のような仕事で忙しい独身者の身の回りの家事を代行してくれるから“時間を売る”ということなのか。


「でも家事だけじゃありませんよ。お客様の時間を創出するための全てを私が行います」


「は……え? そうしゅつ?」


「個人秘書と言い換えてもらっても結構です。お仕事全般のお手伝いも可能です」


「うん……まあ……とは言えど、君は会社の人間ではないし、社内秘の案件も……例えば僕なんかは多くの企業の情報を扱う。易々と外部の者に委託する訳にはいかないよ」


「無論私の業務は信用と信頼があってのことです。秘密を守るは当然のこと。ですから私は一ヶ月の契約期間内はお客様と一対一の関係で、契約基本金は三万五千円です。あとは依頼内容のボリュームにより個々に請求させていただきます。依頼とあらば二十四時間お客様のお側に付かせて、お客様の身辺のお手伝いをさせていただく事も可能です」


「に、じゅうよじかん?」


「もちろんお客様が望む場合は、ですが」


「でもそれだと高いんでしょう?」


「報酬は新たに創出が可能となった余剰時間を相対的算出し請求させていただいております。たとえば私が動くことによりお客様の余剰時間が三時間得られたとしましたら、千円×三時間で三千円となります。成功報酬制ですので、仮にお客様に余剰時間が作れなかった場合は無償となります」


「それじゃあ普通の家事代行よりも稼ぎが少なくなるんじゃないか? 君は契約したら僕の依頼がない限り、一ヶ月もの間、無為に僕に連れ添わなければいけないんだろ?」


 正直胡散臭いとも思う。時給千円の家事代行業は一時間動けば確実に千円を稼ぐ。そしてそれはイコール拘束時間だ。しかし彼女の場合は三時間動こうがもしかするとゼロかもしれない。そうなれば契約基本金の三万五千円のみ。俺の車の駐車場の方が、よほど金を稼いでいることになる。それにいくら成功報酬制といっても、俺がやれることを代行するに過ぎないのだからどれだけ多く見積もったとて家事代行の域を出ることはないような気がする。


 俺が腑に落ちないという顔をしていると、彼女は小首をかしげて微笑んで言う。


「そうでもないんですよ。私が五分でできる仕事を代行するだけで、お客様は数時間という時間を無駄にせずとも済む場合もあるのです。そのお客様のあらゆる時間的ロスを私が解消するということ。お客様と私が同じ時間を使うのではないのです。すなわちそれが時間を売るという事です」


 彼女が家事代行と違うのは“余剰時間をつくるためのあらゆる全て”を行うと明言しているところだ。あらゆる全て、とはどこまでの事を言っているのだろうか?


 彼女の理屈は解らなくもないが、それでもやはり成り立つようには思えない。アイデアは斬新で面白いが料金体制が不明瞭で判断基準がない。請求料金はつまるとこ相対報酬だ。状況如何により変動するということだ。


 俺はため息をついて腰を上げた。


「世の中には僕の知らない変わった仕事があるんだね。まあお世話になることは多分ないと思うけど、がんばってよ」


 彼女は俺がこのまま契約するとでも思ったのだろうか、大きな目を不思議そうに俺の顔に向けていた。


 そんな目で見られたってやらないよ。端的に言うと危なっかしいんだ。君がじゃなくて、君のやろうとしていることが。まっとうな仕事をしたほうが身の為だと思う。


「あ、あの!」


 店を出がけの俺のことを彼女が引き止める。


「これ、よかったら持っていてください。お電話でも暫定的契約は可能です」


 俺は彼女から名刺を受取り、ろくに見もせず、二つ折り携帯電話に挟んで内ポケットに仕舞った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る