時間をください

相楽山椒

第1話 とにかく時間がない

 今、私の願い事が、叶うならば――時間が欲しい。


 などと鼻歌を歌っている場合ではない。本当に忙しいのだ。


 時間がないならもっと早く、先回りして全ての段取りを組み立てて、事をこなすべきだ、と人は言う。だがそうそう上手くもいかないものだ。


 それに、「時間は作るものだぜ」などとしたり顔で、アドバイスしてるつもりの奴に限って、半端な仕事しかしていない。


 時間がないというのを勘違いしてもらっては困る。


 たとえばだ。


 今日中に東京大阪間を往復することができたとしても、修理を依頼した自動車をディーラーの閉店時間までに引取りに行くことはできない。それはもう世界一正確な運行を心がける優秀なJRの時刻表が証明している。


 しかし車が今日中に手元に戻っていなくてはまずいのだ。なぜなら俺は明日、車で遠出をする。ディーラーなら代車があるだろうと思うかも知れないが、それも時間の都合で断っていた。


 明日の遠出を、不具合を抱えたまま運転するのは不本意だから急いでいた。だがいろいろな俺の仕事やメーカーの部品発注の事情が重なり、修理期間が伸び、引き取りが今日になった。


 当然だが、明日の用事は引き延ばすことが出来ない。


 明日は栃木の実家でお見合いなのだ。母方の叔母がありがたい事に、この不肖三十三になる甥のためにセッティングをしてくれた、貴重な機会である。正月に盛り上がった話で、親戚一同大いに盛り上がったのだ。酒の席での戯言だと本気にしていなかったが、どうやら老い先短い祖父母までをも巻き込んでおり、忙しい我が身を削ってでも俺は彼女らのメンツを立てない訳にはゆかず、不承不承首肯するより仕方がなかった。


 だからこそ車が途中で止まるなどということがあってはいけないから、慌てて修理に出した。それに、朝にクリーニングに出した一張羅を、帰ってすぐに引取りに行かねばならない。どう考えてもこれらを一度に済ませることは、空間軸的にも時間軸的にも不可能だと思われる。


 今朝の時点で在庫切れした歯磨き粉も調達せねばならない。臭い息でお見合いをするわけにはいかないからな。笑顔の口元にはキラリと光る白い歯だ。


 第一印象は大事だ。


 近所の馴染みの美容室は、特別に閉店後に対応してくれるというので、二十一時には帰らねばならない。


 ところが、それほど今回のお見合いに力を入れているわけではない。まだ独身でいたいという気持ちもある。それに結婚するという実感もない。


 彼女はここ三年いないままだ。


 三十を目の前にして俺は会社からの信頼も得て、課長のポストを勝ち取った。異例のスピード出世だと誰もが驚き、妬み、羨んだ。彼女が別れを切り出したのは、俺の仕事が忙しくなり、構ってくれなくなったというのが主な理由だろう。あの時は彼女も二十三と若かったから、それも致し方ないと、今は完全に吹っ切れている。


 男の人生のうち、仕事と家事におけるウェイトレシオを算出するに、どうしても仕事へと偏る。それは男が仕事をするべき生き物だからだ。男は外に出て狩りをする、そのように原始の時代から決められている。


 だから所帯を持たない独身の生活は、意識せずとも荒廃してゆく。


 外食が増えキッチンは寒々しい無意味な空間になった。洗濯はまとめて週に一度だけ、掃除なんて一ヶ月に一度できればいい方で、洗濯機と掃除機の長寿化に貢献している。買い物だって週に一度だ。休日にスーパーに行けなければ冷蔵庫の中身はやがて空になる。それを忘れて帰宅すれば、安易に近所のコンビニで弁当を買うはめになる。


 それに何より面倒なのが役所関係の手続きだ。やれ住民票をとれだの、所得証明を出せだの、平日の五時までしか開庁していない役所に、健全な出勤をするサラリーマンは一生かかっても赴くことはできない。だから営業の外回りなどのついでに近くに寄って用事を済ます。


 一週間があと一日増えればできる。だがそんなことになっても仕事する日が増えるだけだ。世間全体の時間が増えたところで意味はない。


 俺自身の時間が増えなくてはいけないのだ。


 どこかに時間を売っている店でもあれば言い値で買ってやる。


 金なら余裕はある。恵まれない子供たちに学校を建ててやれるほどではないが、同年代の妻帯者よりもワンランク、いやツーランク上の生活ができるくらいの余裕はある。


 そうも考えると、家庭というものがいかに金のかかるものなのかが計り知れる。その上今以上に拘束され時間を失う。


 結婚、真っ平御免だな。


 俺はスマホに送られてきた見合い相手の写真を開く。


 彼女は振袖を着てこちらに向かってほほ笑みをたたえている。ちゃんとした写真館で撮影されたものだ。古風で古典的、俺より二つ年上、若くも特別美人でもないが器量が良いとの評判らしい。なるほど器量とは便利な言葉だと思う。


 新幹線の売り子のタイトスカートから覗く足に目が泳ぐ。ああそうだ、俺はまだ落ち着く気はない。周囲から独身貴族などと揶揄されても、俺は今のこの暮らしが気に入っているんだ。


 立ち仕事で鍛えられた彼女のヒップラインをぼんやり見つめながら、あと時間さえあればもう言うことはないのだがな、と考えていた。



品川駅に着くと、ディーラーの営業マンが待っていてくれた。


あらかじめ新幹線の中から彼を呼びだしておいたのだ。十九時に駅まで迎えに来てくれと。同時に会社には、直帰すると電話を入れておいた。


まるでハイヤーのような扱いだが、車は俺の車だ。そいつに乗り込み運転するのも俺だ。担当営業マンをクリーニング屋まで付き合わせて申し訳ないが、このくらいフレキシブルに動いてもらわねば、わざわざ俺がディーラーで車の面倒を見てもらっている甲斐がない。


この無形のサービスも営業マンにとっては営業活動の一環だ。次に買い替えをしてもらうためには商品とサービスで顧客の満足度を満たしてやるしかないからだ。そのために営業マン自身が身を切ることも厭わない。やがてその傷が自身の血肉となって返ってくることが分かっているからだ。


そのような理屈で動く社会は何も珍しくはない。これを業務の規定外だとか言って拒否する頭の固い奴は、仕事ができない奴と同義だと断じてしまってもいい。


「お疲れ様です。斉木さんはいつも忙しそうですね」


 腰が低く控えめで、俺とさして変わらない年齢の営業マンは、助手席に移動してシートベルトを締めながら言う。


「ああ、申し訳ない。朝から大阪で会議があってね、そのあとガイジンを京都観光に案内して高い湯豆腐食っただけで、ダッシュで戻ってきたよ」


「湯豆腐といえば、南禅寺ですか」


 営業の彼は確か俺よりも一つ二つ上のはずだったが、相手が敬語だと、どうにも横柄になりがちだ。


「嵯峨だよ。何がいいのかしらんが、ガイジンは嵐山が好きだな」


「ああ、嵐山ですか。風情がありますよね」


 知ってかしらでか、営業マンは俺の肩を持たずに、ガイジンの趣向を理解したようだ。


「私も斉木さんみたいなバリバリやれる営業になりたいですよ。海外なんかにも出たりするんですか?」


「うん、タイとか台湾が多いけどね。しかし自動車販売の営業じゃその必要もないだろ」


「ええ、確かにそうですけどね。でも私もいつまでもこの仕事続けるつもりはありませんよ。――ああ、いえ、お客さんに向かって言うことじゃないんですけど――」


「いや、構わないよ。北島さんは結婚してたっけ?」


「ええ、去年入籍しました。それで春には子供も生まれるんですよ。だから今の給料じゃちょっと厳しいかなって……新車の販売台数は右肩下がりですし、この業界もいよいよ尻すぼみかも知れないなって思って――」


「転職、ですかぁ」


「ええ、最後のチャンスですよ。今の仕事じゃ圧倒的に時間がないですね。家族と過ごす時間があまりにも少なすぎます。会社は公休も有給も保証してくれますけど、実際使えるかって言われたら使えないですし、それに時間外で動いていることって多いんですよ。それが営業という仕事だと言われれば確かにその通りなんですが」


「――すみません」


 俺はほくそ笑み、やや意地悪を込めて言った。もちろんそれに気づかないほどうちの担当営業マンは盆暗ではない。


「え、ああ……いえいえ! 斉木さんは私が営業になって初めて新車を買っていただいたお客様ですし、僕にとっては特別な方ですから! いいんですよ!」


 彼がお為ごかしを言っていることは想像に難くない。だが、それでこそ営業マンだ。相手に見透かされようと確実に実を持って帰ってくればそれでいい。


 俺は閉店間際のクリーニング屋に飛び込んで、明日着るスーツを引き取った。あとは営業の北島さんをディーラーまで送り届ければ、本日の外向きのミッションは完了する。


 おっと、忘れるところだった。危うくシャワーを浴びたあとの寝間着で、寒い思いをしてコンビニまで走らねばならない羽目になるところだった。三月に入ったとはいえ、昨日から冬の最後の抵抗のような寒波が訪れている。車を置いて部屋に戻ったらもう外には出たくない。


 わりに遅くまで営業しているドラッグストアが近所に有り、俺は北島さんに断りを入れ、再び車内で待ってもらって歯磨き粉をひっ掴んでレジへと向かう。そこで俺はポケットをまさぐり舌打ちをする。財布が車のカバンの中だ。


 レジの学生らしきバイトの女の子に断り、車へと走る。


 これが無駄だ。この往復する時間。少し気をつけていればこんな時間の無駄をせずに済むのに。


 俺は北島さんのことを一瞥することなく、ドアを開いてカバンを奪うようにして店内へ走った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る