第3話:悪霊退散

 手遅れだった。

 放課後とはいえ部活動は下校時刻いっぱいまで許されており、残っている生徒は多い。今日のグラウンドは陸上部の当番で、二面ある体育館は男女のバスケ部がそれぞれ使っている。音楽室には吹奏楽部が、美術室には美術部が。教室でだべってる連中や自習室や職員室も含めると、まず百人はくだらない。

 一階に降りてグラウンドの方を見ると、

「ぶーんぶーん」「あびゃびゃびゃ」「けけけ」「はーいいまから水のみまーす死ぬほど水ぅのみまーす」「よーし学校の階段走るぞー転んで死ぬまで走るぞーこれがほんとの学校のかいだんだぁ!」「メロンパン食べるですー美味しいですー」「空襲だぁ! 警報だぁ!」「私のあかちゃんは何処! 私のあかちゃん!」「ばぶう」「でぶぅ」「ひでぶ」

 陸上部の面々によって阿鼻叫喚の地獄が展開されていた。トラックを走っている生徒たちはスキップしながら上機嫌だが、他の生徒と抜き合いになるたびに喚きながら蹴り合いをしている。走り幅跳びをしている砂場では、跳び終わったあとも砂場からどかないものだからどんどん重なりあって人間ピラミッドができている。学校一の力持ちとして有名な三年の田代先輩は、砲丸をたくさんお腹に抱え込みながら地面に横になり、「もう絶対はなさねぇから。死ぬまでいっっしょだからああ! てかいっしょにこのまま死のうなあああ!」と砲丸への愛を叫んでいる。棒高跳びの辺りには何故か女子部員がたくさん集まっていて、「私の棒!」「はぁ? あたしの棒やし」「ふざけんなしぃ」と棒の取り合いに精を出している。

「あかん」

 美浜は悲しげにグラウンドを見つめている。「ひどすぎや。みんな狂ってもうた」

「殺し合いに発展してないのが救いやな」と僕。「田代先輩が内向型シヴァでよかったわ。外向型ヴィシュヌやったら今頃みんな砲丸食らって死んでるかもしれん」

「全員叩いてきます」というサリーちゃんを、僕は止めた。

「対処療法はやめようって結論になったやろ。このまま校内めぐって、原因探そう」

「しかし、このままでは――」

「すぐに殺し合いになる雰囲気でもなさそうやし、後回しや。ともかくひと通り見て回った方がええ。陸上部が一番マシで、他のところはもう殺し合ってるかもしれんしな」

「はい……。そうですね。でもその前に」

 サリーちゃんは校舎の端に駆けていって、

「ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーてい!」

 さっきから階段を走り回っていた女子生徒が階下に降りきるタイミングを見計らい、思い切りビンタした。

 出てきた悪霊は、全身が紫色に膨らんだ水死体だった。目と鼻が腐れ落ちてしまって、やぶけた腹の中からぶよぶよの腸がはみ出している。

「階段を走るのだけは、危ないですから」とサリーちゃん。たしかに、今すぐ殴っておくだけの緊急性はあったな。

「こいつ陸上部ちゃうで」美浜は女子生徒を抱き起こしながら言った。「新聞部の佐伯楓やわ。ライン友達の」

「あっそう。……にしても、ほんまに、悪霊の形と、取り憑かれた人間がやってることになんの関係もないな。水死体が取り憑いたら階段走るって、どういう脈絡やねん」

「悪霊はガソリンのようなものです」とサリーちゃんは言う。「生前どんな動植物であったとしても、死んで石油になってしまえば、関係ありません。それと同じで、ただの憎悪の塊なのです。憎悪に従って何をするかは、生きている人間が決めること」

「悪霊に自我は残ってないんか」

「自我と呼べるほどのものかは分かりませんが、記憶の残滓のようなものは残っています。ですが耳を傾けなければ、なんの意味もありません。悪霊に取り憑かれた人はそんな余裕をなくしますから」

「ってことは、余裕次第ではお話できるんか? 悪霊と」

「適性や修行が必要です。日本なら仏教――観想禅のような修行を積めば、自分の憎悪と悪霊の憎悪を切り分けることもできるでしょう」

「カンソウゼンなあ……。まあ、最悪手がかりはその辺に転がってるってことか」

「水島先輩……?」

「ええよ、ただの思いつきやから。それより早く学校一回りしよ。はよせんと、日が落ちるで」

 校舎の壁時計を見ると、もう六時を回っている。できれば西日が残っているうちに、探検を終えてしまいたい。

「分かれて様子見てこようか。僕は音楽室と美術室見てくるから、二人は職員室の方頼むわ」

「あんた一人でどうにかなるん?」と美浜。

「やばそうやったらすぐにでもサリーちゃん呼ぶわ。ってことで携帯番号教えて。ってかラインやってる?」

「は、はい……」

「なにナンパしてるねん」と美浜が間に立ちふさがった。「サリーちゃんの番号がそう簡単に手に入ると思わんといて。うちのラインやったら招待したるから、そっから連絡取って」

「迂遠やなぁ」とは思うが、言い争ってる時間も惜しいので、ともかく美浜と番号を交換しあった。

「ほんならそういうことで」

 二人と分かれて特別教室が集まるB棟に向かう。美術室は二階。音楽室は三階にある。音楽室からは楽器の音よりも怒声や罵声が聞こえてくる。ひょっとしたら楽器で殴りあっているのかもしれないが、まずは美術室優先だ。美術部には友人の青木がいる。いろいろと繊細な奴なのでそっちの方が心配だった。

「こんちはー」

 美術部の扉を開けると、案の定というか、小さな地獄が広がっていた。部屋の中には部員が三人いた。一人は大柄な男で、学ランの校章からして三年だろう。ズボンとパンツを脱ぎ捨てて、姿鏡の前で股を開き、自分の性器を一心不乱にスケッチしている。

「きさまぁ……よくもあたしのカエサルさまをぉ……」

 奥のテーブルでは女子生徒が彫刻刀で石膏像を切り刻んでいる。ブルータスの頭頂部をひっきりなしに狙っているが、何か恨みでもあるのだろうか?

 そして青木はスケッチブックをパラパラめくっては一枚一枚引きちぎり、念入りに、すりつぶすように手の中でくちゃくちゃにしては、丸めて捨てていくのだった。

 いかにも青木らしい、おとなしくて痛ましい自傷だった。

「それ、書き溜めてたスケッチやろ」

 声をかけると、青木は顔を上げた。目尻の下がった悲しい顔だったが、僕だと気づくと、口の端が持ち上がった。

「水島……。ええんや、全部、描きそこないやから」

「前もそんなこというて、小学校までに描いてたもん全部捨ててから、後悔してたやんけ」

「ああ、そんなこともあったっけ」

 青木のスケッチブックを破る手は止まらない。「そのときは、下手くそな絵を一生懸命描いてた自分が、なんだか大事に思えたんや。今は、そんなことも、ないけど」

 それでも、青木とはちゃんと会話が通じる。サリーちゃんを除けば、この学校で唯一、自分の憎悪を理性の範囲でコントロールできているのだろう。徹底して芸術家肌なのか、ただ単に人が良いだけかもしれないが。

「みんな、どうしちゃったん?」と青木は尋ねる。「安井部長も塩野さんも話通じんくなってしもたし、藤枝さんもここにおってんけど、いきなり様子がおかしくなって、外に飛び出してしもうて」

「藤枝さんもか。そんならお前、ここで絵ぇ破いてる場合ちゃうやろ。後追わな」

「追わなあかんとは、思ってるねんけど、立てへんねん」

 青木は目を伏せ、スケッチブックのカケラを手の中で丸める。「ここの絵ぇ全部破いてからやないと、立てへんねん」

「気のせいや」

 僕は青木に近づいて、右手か左手か少し迷ったが、左手で腕を掴んで立ち上がらせた。

「立てたやろ」

 ――青木の憎悪が少しは流れてくるかと思ったが、何も、感じなかった。

「ざっと説明するとやな、悪霊のせいで学校中の人間がおかしくなってしもうてるねん」

「悪霊……?」

「とんでもない量の憎悪を抱え込んだここの卒業生が、ついさっき死んだらしいんや。そのせいで、そいつが抱えてた憎悪が地縁をたどってこの学校に流れ込んでるみたいやねん」

「それ、本気で言うてるん?」

「あのざま見てみぃ」

 僕は股間をスケッチしている男を顎でさした。

「……わ、分かったわ」青木は顔を曇らせた。「なんかおかしなってることは、分かった」

「校内で、藤枝さんのいる場所に心当たりはあるか?」

「たぶん、何処か、人気のない場所とは思うんやけど……」

「ほんなら今すぐ探してこいって」

「でも僕……」

 僕は青木の手から分厚いスケッチブックをひったくり、部室のロッカーに放り込んで鍵をかけた。

「絵ぇ破りたくなるのも悪霊のせいや。後悔するからやめとけ」

「悪霊というか、いつものことなんやけどな。絵ぇ破りたくなるのは……」と青木はぶつぶつ言う。

「知らんわ。藤枝さん見つけたら電話してこい。それまで鍵は預かっとくで」

 青木はまだ釈然としない様子だったが、やがてぶつぶつ言いながら美術室を出ていった。

 青木と藤枝さんをくっつけようと画策していたのは先月のこと。クラス替えで一緒のクラスになった青木にそれはもう分かりやすく片思いしていた藤枝さんを誘って、占いやらこっくりさんやら、彼女が好きそうな道具仕立てで遊んでみたのだ。そのうち青木と二人でいることも多くなったので、うまくいったかと思っていたのだが。

「青木にはブラフマーが足りんみたいやな……」

 考えるうちに、だんだん心配になってきた。藤枝さんはひょっとしたらこの学校で唯一、悪霊の声に耳を傾けてしまうかもしれないからだ。



       ○


 音楽室では高そうな楽器のほとんどがめちゃくちゃに壊されていて、金銭的な被害は凄まじそうだったが、人的被害はなさそうだった。痙攣しながら歌を歌ったり、スマホを投げ合いながら互いの好きなアーティストをボロクソに罵り合うぐらいで、まあ平和なものだ。

 一階に降りて美浜とサリーちゃんと合流する。二人ともなんとも言えない悲しげな顔をしている。

「どうやったん?」

「職員室は全滅していました」とサリーちゃんは首を振った。

「ぜ、全滅?」

「原因はマドンナや」と美浜。

 うちの学校のマドンナといえば英語の小島先生だ。いかにもお嬢様っぽいウェーブがかった黒髪とニュージーランドへの留学経験を持つキラキラ女教師で、生徒からの人気も高い。

「マドンナがどうしてん。まさかどっかの変態型ブラフマーになんかされたんちゃうやろな」

「ちゃうねん。マドンナが変態型ブラフマーやってん」

「……なんやて?」

 しまった、青木なんかほっといて職員室に行くべきだった。

「なに嬉しそうな顔してんねん」と美浜がすねを蹴ってくる。「おかげで大惨事や。お相手を務める座をめぐって中年おやじたちの凄惨な殴り合いが発生したらしくてな。とばっちりでおばはん教師たちまで殴られとったわ。大人が性欲がらみで怒るとほんまシャレならへんな」

「それで結局、誰が勝ったん?」

「勝者なしや。死屍累々の果てに体育の平原がマドンナ押し倒すとこまではいったんやけど、スーツに手がかかったところでサリーちゃんのビンタが間に合ったわ」

「ほんならマドンナはまだ手付かずやねんな?」

「サカるなぼけ。マドンナに憑いてたんひっどい悪霊やってんからな。全身火傷で、たぶん灯油かガソリンぶっかけられたんやろうな。黒焦げの丸焼きやってんからな」

「いらんいらん、聞きたくない」

「あと、けが人たくさんおったからいちおう救急車呼んどいたけど、この分じゃ救急隊員も頭おかしなってまうんやろうな。中畑と、西野先生のこと考えても、なんか大人の方が憎悪に抵抗力ない気がするねん」

 ありえそうな話だ。いろいろ溜まっているのだろう。

「やることははっきりしてきたな」

 悪霊の属性は地霊。人ではなく、学校という場所そのものに取り憑いている。足を踏み入れれば誰であろうとおかしくなってしまう。

 逆に言うなら、学校の外に出てしまえば、地霊は力を失うかもしれない。

「残った体育館の様子を確認したら、田代先輩みたいな力持ちを何人か正気に戻して、けが人運ぶの手伝ってもらおう。救急隊員には学校の外で待っといてもらったらええわ。事情はさっぱり分かってもらえんやろうけど、分からんでもけが人の面倒は見てくれるやろうしな」

「最終的には全員追い出したいですね」とサリーちゃん。「持久戦になりそうですが、原因の究明にこだわるよりも早いかもしれません」

「いや、原因は――」

「分かったん?」と美浜が素早く噛みついてくるものだから、

「なんとも言えんわ」

 つい、濁してしまった。

 まあ、いいか。不穏な憶測に過ぎないのだから。


 いやあああああああ―――


 突然、体育館から悲鳴が上がった。

「行くで」

 誰より早く美浜は駆け出す。サリーちゃんは頼もしそうに頷いて、そのすぐ後をついていく。

 僕もそうだが、美浜もすっかり場慣れしてしまったらしい。恐怖よりもなんだかよく分からない使命感のようなものが胸の奥から突き上げてくる感じ。たぶんサリーちゃんに引っ張られているんだろう。僕や美浜がいつまでも怖がっていたら、サリーちゃんは一人で学校中の悪霊と戦わないといけない。それを嫌だと思う気持ちは、いったい何処から来るのだろう。

 悪霊の代わりにビンタで注入された聖なる気合バラモンパワーが、効いているのだろうか。


 体育館に入ると、異様な光景が広がっていた。

 体操着を来たバスケ部員たちが、炎にまかれながら踊り狂っている。

 手前のコートには男子が、奥のコートには女子が集まっている。人数は合わせて三十人ほど。炎は体育館の強い照明にも揺らぐことなく赤黒く燃え上がり、部員たちの肌を炙っている。バッシュの先から頭のてっぺんまでを炎に覆われた姿は、巨大なろうそくが揺らめいているようにも見える。

「水、水!」と取り乱す美浜を尻目に、サリーちゃんは手近にいた背の高い男子部員をビンタした。炎は淡い音を立てて四散し、男子部員は床に崩れ落ちる。火傷はしていない。――この炎自体が、悪霊なのか。

「黒炎アグニ……」サリーちゃんは右手を握りしめて、そう呟いた。

「火傷は、しません。これはヴィシュヌの炎。憎悪を向けた相手の心を焼きつくす炎です」

 サリーちゃんの視線の先、体育館の舞台の上には、制服を着た女子生徒がいる。倒れ伏している体操着の女子部員を片手で掴み上げ、赤黒い炎でその全身を染め上げていく。――まるで火柱。見上げるほども高くなった炎は無音のままに揺らめいて、二人の女子を炙り続ける。

「藤枝さん……?」気づいた美浜がコートの中程にまで駆け寄る。

 炎がよく似合う、白皙の肌。本来なら片手で人間を持ち上げられるはずもない、華奢な体つきと細い腕。切りそろえた黒髪に、切羽詰まった歪んだ口元。

「藤枝さん」

 近づいて声をかけると、藤枝さんは僕を見た。見開いたその目は、僕に取り憑いていたまぶたのない悪霊に似ていた。

「水島くん、ねぇ、私、いま、すごく、気分がええの」

 藤枝さんはバレーのスパイクのように、女子部員を頭から舞台に叩きつけた。

「ちゃんと、怒れてるの。いったい、何時ぶりかなぁ。自分も悪いとか、怒ってもしゃあないとか、そんなふうに暗い方に考えずに、ちゃんと怒れてるの。なんかそれが、なんかそれがな、めっちゃ、嬉しくて」

 藤枝さんは女子部員の腹を思い切り蹴りつけ、舞台の下に落とした。

「なにしてんの!」

 美浜は女子部員の傍に駆け寄ろうとするが、蹴り落とされた女子部員の纏う炎があまりにも強すぎて、近づけないようだった。

「だから、怒ってるって、言ってるやん。美浜さん」

 藤枝さんは優しく言い聞かせるようにそう言った。「私な、一年の秋までは、バスケ部で、頑張っててん。運動、苦手やったけど。部活見学で楽しそうなん見てるうちに、なんか、やりたくなってしもうて」

 藤枝さんが言葉を発するたびに、部員たちを取り巻く炎が強くなっていく。

「けど、やっぱり、向いてなかったから。まず先輩らに、嫌われて。それから、みんなに、嫌われて」

 サリーちゃんの方を見ると、声を殺して、泣いている。

 ――そうか。気づいて、しまったのか。

「散々いびられて、脚、蹴られて。なんか、悔しかったから、やめたくなかったんやけど。意地張ってるうちに、だんだん体調おかしなってもうて」

「だからって、これはやりすぎやろ!」と美浜が叫ぶ。

「向いてないことは、やっぱり、やったらあかんのやろうね」藤枝さんは美浜の言葉を無視してそう呟く。

「美浜さんも、私が、柔道始めたら、やっぱり、バカにするんやろ?」

「せえへんわ! 誰だって最初は下手なんや!」

「そやけど、私は、ずっと下手やろうと思うわ」

 藤枝さんが身にまとう炎も、ますます強くなっていく。「シュート入らないけど、シュート打ちたかったんや。それだけやったのに、ボールも持たせてもらえんかった」

 炎の波が舞台の上に溢れる。

「部活やめてから、自分に向いてること探そうと思って、占いやら守護霊やら、ちょっとはまって。そしたら今度は、それをネタにバカにされるねん」

 火の粉が霧のように広がっていく。美浜の位置は危険だ、近すぎる。そう思って後ろから手を引いたが、美浜は振りほどいて、藤枝さんを見据えた。

「ごちゃごちゃ言うな。向いてるかどうかやない、続けるかどうかや。やりたいことはやめたらあかんのや」

「携帯とかスマホとか、持ってる女はきらいやな」

 藤枝さんは、まばたきをしないまま、笑った。

「ごちゃごちゃ陰口メールして、楽しそうにしてるくせに」

 美浜は、つらそうに目を細めて、藤枝さんを見つめた。

 この言い合いは、美浜の負けだ。だって美浜は実際に、藤枝さんをバカにしているからだ。おとなしいオカルト好きのオタク女。クラスの男子にちょっと構われたぐらいで舞い上がるちょろい女。恥ずかしいポエムブログを書いてる寒い女。――まあ、そんなところだろう。

 先月、クラス替えをしたばかりの教室で、藤枝さんは塚本という女子と少し仲良くなった。スマホもパソコンもさわったことがないという藤枝さんを、塚本は家に呼んで、ささやかなブログを作らせた。そしてそれをあっという間にラインで晒して、ネタにした。

 みんなでおもしろがったのだ。

「でもなあ、やっと見つけてん。私に向いてること」

 体育館の天井から、火の粉が雨のように滴っていく。

「ほんのついさっきのことや。なんかいつもの自虐とは違う、変な声が、頭の中に響いてきてん。いろんな人のいろんな恨みが頭の中に響いてくんねん。ヤクザにボコボコにされて、まぶたと唇ちぎり取られて、目んたま乾ききるまで自分の変わり果てた顔鏡で見続けてから自殺したチンピラさんとか。夫と仲悪くなって離婚を切り出したら監禁されて、それから何年も殴られ続けて、しまいには焼きごてで頭の皮めくりあげられて、河童みたいになって死んだ奥さんとか。なんのこっちゃ分からんやろうな? みんな、この学校の卒業生やねん。ろくに墓にも入れへん無縁仏やねん。人生で一番マシやったのが中学校通ってた頃やったから、ずっとここにおんねんて。ずーっとここに……」

 僕と美浜の体からも炎が噴き出す。――伝わってくる、怨嗟の声が渦を巻いている。水道を止められて、雨を待っているうちに乾ききって死んでしまった老人。混雑した駅のホームでふと誰かに背中を押され、何がなんだか分からないうちに頭を轢き潰されたサラリーマン。海難事故で小さな救難ボートに飛び乗り、海の広さに発狂しそうになりながら必死で救助を待ったものの、台風の波にさらわれて魚の餌になった水夫。不倫相手の妻に嫉妬でガソリンをぶっかけられて、お腹の赤ちゃんごと焼き尽くされた若いOL。

 ――まだいる。まだまだいる。数えきれないほどたくさんの、孤独に、理不尽に死んだ卒業生たちの怨念が、大きな憎悪に突き動かされて、学校中を燃やそうとしている。

「その極めつけが」と、藤枝さんは叫んだ。「インドで不可触民になって、ゴミどもの怨念をフォアグラみたいに詰め込まれて死んでもうた哀れな女の人や。かわいそうでたまらんわ。たぐってもたぐっても、嫌なことばっかりの人生や。私が代わって復讐したる。まずはこの学校のゴミを全部掃除するわ。気色悪い、穢らわしい、人間なんてみんな塵になってしまえ!」

 憎悪に取り憑かれて狂ってしまった藤枝さんは、炎をますます黒く怪しく燃え盛らせていく。僕の体を無数の人間の憎悪が焦がしていく。人生はいくらでも酷くなりえる。落とし穴は何処にでもぽっかりと口を開けていて、そのどれか一つにでも嵌ってしまえば、もう抜け出すことはできないのだと、先輩たちの死に様は告げている。歳を取りたくない。大人になることも、大人であり続けることも、とんでもなく面倒で、不潔で、穢らわしいことなのだ――。

 しかし。

 それでもこうやって、何処か余裕をもって他人の黒炎アグニだと思えるのは、

 僕らの背後でサリーちゃんが、もっと恐ろしい白光インドラを、右手に光らせているからだろう。

「ぎゃー、てい」

 サリーちゃんの左手に周囲の黒炎アグニが渦を巻きながら絡みついていく。強く握りしめられ、捕まえられた炎の束は、白光インドラを放つ右の拳と打ち合わされて、ガツン、ガツンと鈍い音を立てる。

「ぎゃー、てい」

 何度も何度も打ち合わされるうちに、右手の白光インドラはますます強くなり、左手の黒炎アグニも燃え盛る。体育館中の炎が残らずサリーちゃんに引っ張られていき、僕や美浜やバスケ部員たちの体から引きずり出されていく。ゴツン、ゴツンと、骨が折れそうなほどの勢いで、二つの拳が打ち鳴らされる。

「はら、ぎゃー、てい」

 サリーちゃんは光と炎をそれぞれの拳に蓄え、まっすぐに藤枝さんの方へと歩いていく。

「歪んだ口で母を語るな」

 歩幅を広げ、早足になっていく。転がっている邪魔なバスケ部員たちを踏みつけ、蹴飛ばし、一直線に舞台へと向かっていくサリーちゃんの勢いに、藤枝さんは押された。恨みの黒炎アグニをぶつけるが、それも全て、左の拳に巻き上げられて、そこに右手が打ち付けられる。練り上げられていく球状の白光インドラの中には、よく見ると、無数の白い霊のようなものが、びっしりと隙間なく入っていて、ところ狭しと暴れている。

「憎悪だけが死者じゃない。あなたのような半端者が知ったような顔で死者を代弁するから、無闇に恐怖が膨れ上がる。似非バラモンに利用される。遺志を歪ませ、穢れを利用し、そうやって人を脅すなら、あなたは私が倒します」

 サリーちゃんは舞台の真下までたどり着くと、軽い跳躍だけで自分の身長ほども跳び上がり、スカートを翻しながら舞台に降り立った。

「ぎゃー、てい」

「こ、来んとって!」

 藤枝さんはサリーちゃんの圧力に耐えかね、黒炎アグニをまき散らしながら舞台袖に走っていった。

「カムヒア!」

 サリーちゃんも全速力で追いかけていく。

 舞台袖に引っ込んでしまった二人、いったいこの先どうなるのかと不安になったが、何も起こらない。やがて外から足音や悲鳴が聞こえてくるうちに、僕はようやく状況に気づいた。藤枝さんは舞台裏の勝手口から逃げたのだ。

「美浜、追うで」

 まだ呆然としていた美浜の肩を掴むと、美浜はビクッとしてから我に返った。

「あ、あれ、なんやのサリーちゃん。怒ってるの?」

「激おこや。義憤にかられて不動明王みたいになっとる。さっさと止めんと藤枝さんぶっ殺されかねんで」

 急いで体育館の外に出ると、そこにも地獄が広がっていた。グラウンドの陸上部たちがみな黒炎アグニに煽られて、サリーちゃんに襲いかかっているのだ。

「くっそ、なんやねんあの炎」

「助太刀するで!」と美浜が意気込む。

 しかし助太刀は無用だった。炎を纏いながら襲い掛かってくる陸上部を、サリーちゃんは一人躱してぶん殴り、二人躱してぶん殴り、一人ずつ丁寧に土の上に転がしていく。足が速いだけの雑魚どもではサリーちゃんの相手にもならないようだった。

「ぎゃははははは」

 しかし、陸上部には奴がいる。

「みぃいいんんな砲丸ちゃんでぶっ殺してやるぞおおお」

 学校一の腕力を誇る田代先輩が、身を黒炎アグニに焦がされて、太い指で砲丸をつまみ上げている。

「サリーちゃん、逃げて!」

 無闇に飛び出そうとする美浜を後ろから抱きとめるうちに、田代先輩は砲丸を放ってしまった。野球のボールのようなとんでもない速度と軌道で飛んでいく砲丸を、しかし、サリーちゃんは、スーパーボールでも受け止めるかのように、炎をまとった左手であっさりと受け止めた。

「憎悪も通っていないただの鉄くずで、私を倒せると思っているのですか?」

 ほ、砲丸が、鉄の砲丸がバキバキに砕かれていく。

「嘘やろ……」

「よくも可愛い砲丸ちゃんおおおおおおおお」

 田代先輩が両手に砲丸を握りしめたままサリーちゃんに殴りかかっていく。サリーちゃんは脚を開いて構えると、大ぶりの一撃を掻い潜ってその腕を取り、くるりと腰を回転させて投げ飛ばした。――見事なまでの一本背負い。

「ぐえ」轢かれた蛙のような声を上げて動かなくなった田代先輩に、

「ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーてい!」

 サリーちゃんはビンタでとどめを刺した。

「サリーちゃん」

 僕と美浜は駆け寄ったが、サリーちゃんは僕らを一瞥しただけで、校舎の方に駆け出してしまった。見ると、校舎の窓のあちらこちらに黒炎アグニが灯っている。どうやら藤枝さんは学校中の人間たちを黒炎アグニで煽りながら逃げているようだった。

「いったいどうなってるねん」

 美浜は砕かれた砲丸を手にとって、首を傾げる。「これがバラモンの力なんか?」

「たぶんやけど、回収した憎悪の分だけ強くなってるんちゃうやろか」と僕は思いつきを言った。「悪霊はガソリンのようなものって、サリーちゃん言ってたやろ。藤枝さんが黒炎アグニをまき散らすほど、それを左手で集めて、右手とぶつけて、サリーちゃんのパワーが上がっていくのかもしれん。いわばバラモンと不可触民のハイブリッド車やな。ターボ全開や」

「ほんなら、心配せんでええの?」

「心配するべきは藤枝さんや」

 僕は青木に電話することにした。呼び出す間に、田代先輩から出てきた悪霊に目がいく。枯れ木のようにやせ細った男だった。歯も髪もボロボロで、うつろな薄笑いを浮かべながら体を揺すっている。何処から見ても重度の薬物中毒者だった。

『――はい』

「青木か。今藤枝さんが校舎の中逃げまわってて――あー、なんというか、ともかく早く藤枝さん見つけて落ち着かせてくれ」

『僕もグラウンドの様子見てたわ』と青木。『なんかとんでもないことになってるな。人が燃えながら動いてる……? ように見えてんけど』

「今どこや?」

『B棟の屋上や。藤枝さん、たぶんここに来ると思うわ。彼女、こっそり複製した鍵持っててな。たまに屋上でぼんやりしてんねん』

「一番落ち着ける場所ってことか」

『うん。そやからここで待ってみる』

「分かった。僕らもすぐ行くからな。藤枝さんの後から激おこのサリーちゃんが追っかけてくると思うけど、なんとか守ったってくれ」

『え? 激おこ? なにって?」

 電話を切って、まだ砕けた砲丸を見つめている美浜を揺さぶる。

「何ぼんやりしてんねん」

「うちもバラモンの力を手に入れればオリンピック選手に……」

「世襲の力なんか手に入れようないやろ。夢見てんと屋上行くで」

「屋上?」

「たぶんそこで決着や」



      ○


 西日の光が弱まり、東の空から宵闇が迫る。

 死屍累々の校舎を走り、屋上に辿り着いたときには、もう決着がついていた。藤枝さんは青木の腕の中にぐったりと身を横たえている。青木は手すりに体を預けて座り込み、彼女の頭を優しく撫でてやっている。身にまとう黒炎アグニは、気にならないようだった。

 サリーちゃんは少し離れたところから左手を突き出し、二人にまとわりつく黒炎アグニを渦巻かせながら吸い込んでいるところだった。

「だ、大丈夫なんか?」

 美浜が誰にともなく呟く。膨大な量の黒炎アグニが太い血管のように脈打ちながら、サリーちゃんの左手に流れ込んでいく。

「これは、私が継ぐべき憎悪です」と、サリーちゃんは言った。「他の誰にも渡しはしません」

 藤枝さんは気を失っているようだったが、腫れているほっぺたの他に外傷はない。ビンタ一発で済んでよかった。青木の存在が利いたのだろうか。

「そんなにたくさん、吸い込めるんか?」

「平気です」

 サリーちゃんはときおり右手で左手を撫でながら、黒炎アグニを吸い込み続ける。「最初から、こうしておけばよかったのかもしれません。私は母とは違う。縁もゆかりもない他人の憎悪まで引き受けることはしない、そこまで心は広くないと、そう思っていたのですが。――ままなりませんね」

 やがて黒炎アグニはすっかりサリーちゃんの左手に収まり、掌の上で暴力的な密度と速さをもつ球体にまとめられていった。サリーちゃんはそれを右手でコマ回しのように殴りつけ、殴りつけては削り取っていく。

「うん……あ……」

 藤枝さんが目を覚ます。しばらくは青木を陶然とした表情で見つめていたが、やがてサリーちゃんや僕らに視線を移すと、震えだして脚を丸め、青木の胸元をぎゅっと掴んで取りすがった。

「青木くん……私……私……」

「言わんでええよ。炎のおかげか、伝わってきたから」

 青木は安心させるように藤枝さんの髪をくすぐる。

「そやから、僕は前から言うてるやんか。向いてなくても、下手でもええから、一緒に絵ぇ描こうって」

「でも、でも、私……続けられるか、分からんし。青木くんにまで、嫌われるの、怖いし……」

「ずーっと、続けてるとな」と、青木は言う。「描き終えた一瞬の充実感とか、爽快感とか、そういうものが、ちゃんと頭に残っていくんや。スケッチブックにはゴミみたいな絵しか残らなくても、いつまで経っても手が思うように動かんくても、しゃあないかなと思えるねん。しゃあないから、次の絵描こうって、思えるんや。だから僕は、下手でもやめられへんのやろうな。――呪いみたいなもんなんや」

「でも、私……あっ」

 言い募る藤枝さんの唇に、青木は唇を重ねる。

「――っはぁ。ええと、その、こういうの向いてないけど、ちゃんと言うわ。僕、藤枝さんのこと好きなんや。だから、一緒に絵ぇ描こうや。ずっと。ずぅーっと、一緒にいよう」

 藤枝さんの目尻から涙が一筋流れ落ちた。そして、彼女の笑顔が花のように咲いた瞬間、全身から何か余計なものがはじけ飛んで霧散したのが、はっきりと見て取れた。

「見事や青木……」

「これがイケメン流の除霊か」と美浜と二人で感心していると、

「なんだか、腹が立ってきました」

 サリーちゃんが唐突に、左手で天井を殴りつけ始めた。

「さ、サリーちゃん?」

「やはり、少々、引き受けすぎたようです。なんだかすごく、暴れたい気分です」

 ガツンガツンと殴られる天井に、すさまじい勢いでヒビが入っていく。このままでは屋上が崩壊して全員階下に落ちてしまいそうだった。

「しゃあないな……」首筋を掻きながら美浜の方を見つめると、美浜も少し頬を赤らめて、僕を見つめ返してきた。

「ええか、勘違いせんといてや。サリーちゃん助けるためなんやからな」

「そうそう、サリーちゃん助けるためやからな。最後まで行ってもしゃあないわな」「あほ。そこまで許さんわ。頭撫でさしたるだけや」「そんなんで収まりつかへんわ」「ほんなら髪まで」「ほとんど一緒やん。太ももは?」「あかん」「ほんならえーっと、お腹」「お腹?」「お腹舐めるぐらいやったらええやろ」「うんまあ……え、今撫でるじゃなくて舐めるって言った?」「お腹には下腹部も含まれるからな」「はぁ? 下腹部は別腹やろあほちゃうの」

 二人でぎゃーぎゃーほたえながら憎悪に苦しむサリーちゃんの傍に立つ。

「お二人とも、いったい何を……?」

「握手や」「握手」

 僕と美浜は同時にサリーちゃんに飛びついて、左手にさわった。

「悪いの悪いの」「こっち来い!」

 穢れがあっという間に体を満たし、僕は理性を失った。



      ○


 巨大な掌の上に、立っている。一面の雲海は果てしなく続いている。頭上には雲とはべつの、白い衣のような膜が、太陽の光を和らげるかのように、ひらひらと動いている。

「――やあ、後輩くん」

 後ろから、声をかけられる。振り向くと、セーラー服を着た、藤枝と同じぐらい華奢なおかっぱ頭の少女が、目の前に立っていた。

 顔立ちはサリーちゃんに似ていた。

「娘が世話になったな」

「特になんもしてませんけど」

「そんなことない。あの子、一人やと抱え込むタイプやからな。よう聞き出して、吐き出させてくれたわ」

 少女が身動ぎするたびに、白い膜がゆらゆらと揺れる。――天人相関。ここはそういう場所なのだろう。

「今回の騒動はあたしのせいなんや。どうせ病気で長くはなかったからな。死ぬ前になるだけ憎悪をあの世へ持っていこうかと思って、いろんな連中からひっぺがして狂う寸前まで溜め込んだんやけど。結局持ちきれずに、縁のあるところにばらまいてしまったみたいや」

「あの世、ですか」

「あるんかどうかは、あたしにも分からん。あたしも取り残された業カルマやから」と少女は言う。「けれど、死ぬにあたってそういうもんを信じてしまうんやから、あたしは結局、ヒンドゥー教徒にはなれんかったんやろうな。やっぱり誰かが解脱して、憎悪をどっかへ持っていかなあかんと思うねん」

「きっと、できたんですよ」と、僕は言う。「だって、今のあなたは、憎悪に苦しんでいるようには見えないから」

 少女は儚げに笑って、首を振った。

「次のあたしに期待してるだけや。来世ではもっとうまく、やれたらいいと思うだけ。生きるの、向いてへんけどな」

 ――古人曰く、西方には観世音菩薩がいて、衆生一切の苦しみを、たった一人で購ってくれるそうだ。

「ほな、またね。縁があったら逢いましょう」

「ええ、また」

 少女は薄れて消えていき、

 僕はまどろみから、解き放たれた。



      ○


 五月が終わり、六月になって、梅雨に入った。

「いつまで頭撫でてるねん!」

 と喚く美浜を撫でつけながら、新聞部のソファーに座ってインタビューを受けている。

「とすると、それで七不思議は揃うわけですね」新聞部の佐伯はメモ帳を片手に復唱した。「A棟二階の階段にいるギョロ目のチンピラ辰郎くん、中庭にいるズル剥け頭皮の柊さん、保健室にいる枯れ木じじいのよし蔵、図書室にいる縦割れ頭の五郎っち。グラウンド前の階段にいるぶくぶくフグおくん。職員室の黒焦げマドンナに、グラウンドのヤク漬け田代と」

 佐伯は満足気に、にっこり微笑む。

「いい記事になりそうです。それにしても嫌な事件でしたね。まだ原因は見つかってないんでしょう?」

「まあな。何か強大な闇の力が卒業生たちの怨念を目覚めさせたのは、はっきりしてるんやけど、その正体はまだよく分からんねん」

「なるほど。や、みの、ちから、っと。はい。それでわが校が誇る霊能力者カップルのお二人は、今後はどういった活動を?」

「そのキャッチコピーほんま辛いな」と美浜はぼやく。

 事件の後、大混乱に陥った学校はしばらく機能停止していた。地霊を圧迫していた憎悪が流れ去ったこともあり、みな正気に戻って、肉体的なダメージもたいしてなかったのだが、頭がおかしくなっていたときにやらかした自分の所業がぼんやりと記憶に残っていたため、恥ずかしさで頭をかきむしりながら登下校をし、授業をこなすはめになったのである。

 とりわけマドンナの影響で人間関係が破壊されてしまった教員たちの後遺症は深刻で、廊下ですれ違うたびにお互いを睨みつけるような状況が今も続いている。田代先輩をはじめ陸上部、バスケ部の連中が受けた精神的ダメージも大きく、新しく雇われたスクールカウンセラーの中野は大忙しで、学校にいる間は息つく暇もないという。

 中野は「ぶっちゃけみんなが何に苦しんでるのかよお分からん。卒業生の怨念ってそんなんおんねん?」とオヤジギャグをかましつつ、新聞部の佐伯に調査を依頼した。佐伯はけっこう有能な記者で、あっという間に藤枝さんとサリーちゃんの大暴れを突き止めてしまったので、しょうがないから僕と美浜で盾になることにしたのだった。

 筋書きは、闇の力によって目覚めた卒業生たちの怨念を愛の力で吹き飛ばした霊能力者カップル、というもので、我ながらもうちょっとマシな設定はないものかと頭をひねったが、思いつかないものはしょうがなかった。

 佐伯も薄々、真相のかなりの部分には気づいているようだったが、分かっていてこっちの筋書きに乗ってくれているような節があった。

「今後はもうちょっと大々的に活動しよかなと思ってるねん。悪霊退治の依頼を校内に広く募集しよかなと」

「なにちょーし乗ってるねん……」

 と美浜は喚いたが、頭を撫でているうちにおとなしくなった。僕と美浜はあの日以来磁石でひっついたみたいになってしまって、頭を撫でたり撫でられたりしてないと落ち着かないようになった。傍から見るとあほみたいなバカップルに他ならず、さんざん冷やかされて恥ずかしい目にあっている。青木と藤枝さんのいちゃいちゃぶりも影に隠れてしまうほどだ。


 佐伯の取材を受け終えて、まっすぐにサリーちゃんの住むアパートに向かう。彼女はまだしばらく日本にいるようだ。少なくとも母親の遺体を見つけてきちんと弔うまで、帰る気はないのだという。

「お邪魔しまーす」

 ピンポン押しても返事がないので勝手に上がりこむと、不用心なことに、サリーちゃんはベッドの上ですやすやと寝ていた。疲れていたのか、制服のままだ。部屋の片隅には美浜家から譲り受けた年代物のアナログテレビとPS2があり、傍にはフレッシュプリキュアとマジックで書かれたDVDケースが置いてある。

「気に入ってるみたいやな」

 美浜はベッドに腰掛けて、そっとサリーちゃんの頬を右手で撫でた。

「悪いの悪いの飛んでいけ、か。そやけどすっきりとはせんよな」と美浜は言った。「悪霊の大半は、今もサリーちゃんの体の中にいるんやろ」

「美浜がもっとエロいことさせてくれたらすぐにでもすっきりするんちゃうの」と言うと、美浜は顔を赤らめて首を振った。「そんなんさせへん。今でさえめっちゃ恥ずかしいのに」

 ――あの日、屋上で理性をなくした僕と美浜はすっぽんぽんになって行くところまで行きかけたらしいのだが、間に入った青木とサリーちゃんによって、すんでのところで羽交い締めにされ、チョークで絞め落とされてしまったそうだ。

「避妊はせんとまずいやろ」というのが青木の言い分で、全くその通りではあるのだけれど、それにしてももったいないことをする。

「まあ、そう焦って浄化することもないんちゃうか」と僕は言った。「サリーちゃんにしてみたら、母親の記憶の残滓は遺体を探す一番の手がかりやからな」

「あ、そうか。すっきりしたら、見つからんものもあるんか」

 美浜はいつになくセンチな気分になっているのか、僕が勝手に座布団を敷いてテレビを付け、こないだ図書館から借りてきた『シリーズ世界遺産インド編』のDVDをセットすると、自分から膝の上に乗って、体重を預けてきた。

「今度のことで、なんかこう、自分の至らなさが身にしみたような気分やねんな。藤枝さんとも話すようにはなったけど、仲良くはなれてへんし」

「僕も、特に恨みもない中畑殴ったり、今思うとめちゃくちゃやったな」

 藤枝さんもバスケ部や塚本と和解してないし、青木も結局スケッチブックを捨てて、新しいのを買い直してしまった。

 インド人のように分かりやすく左手に固まってはいないが、僕らの魂も半分ほどは醜くすすけて、穢れてしまっていて、そう簡単には高潔になれそうもない。

 しばらくぼんやりとDVDを眺めるうちに、

「うちな、もっとしっかりせなあかんと思うねん」

 美浜は眠たげに目元をこすりながら、そう言った。「柔道も、柔道の他にも、やりたいことがたくさんあるねん。そやから、男といちゃついてる場合ちゃうねん。べつにあんたのこと嫌ってるわけやないから、勘違い……せんとってな」

「うん、分かった。待ってるわ」

 美浜は安心したようにほうっとため息をつくと、やがて僕に体を預けたまま眠ってしまった。


 ――っしゃあ。うまくいった。このDVD見てるとめっちゃ眠たくなるから、ひょっとしたらワンチャンあるかもと思ってわざわざ借りてきた一本なのだ。

 理想の体勢だ。さわりたい放題だ。けけけけ、騒げ雑霊。いきり立てブラフマー。でも起こさないように慎重に、こっそりさわろう。肩の辺りからそっと掌を当てて、ゆっくり下におろしていこう。そうそう――もうすぐ、もう少し。ああもうダメだ我慢できない、わしづかみにしてやるぞおお!

「悪霊のにおいがします」

 声にぎょっとして顔を上げると、いつの間にやらサリーちゃんが上半身を起こして僕を見つめていた。

「あ、これはその」

「婚前交渉はいけません」サリーちゃんは右手を光らせながらベッドから降り、僕のすぐ傍にしゃがみこんだ。

 逃げたかったのだが、すやすや寝ている美浜を起こすわけにもいかないので、身動きが取れない。

「人の部屋でいちゃいちゃしないでください」

「そやけど、ほどほどにいちゃいちゃしてサリーちゃんの負担を減らそうというのがこの放課後の集まりの趣旨であってやな」

「他の方法を考えます」とサリーちゃんはジト目になった。「毎日毎日、傍でいちゃつかれると、それはそれで憎悪が溜まるのです」

「サリーちゃんも彼氏作ったらええやん。田代先輩とかどう? こないだ陸上部に誘われてたやろ」

「嫌です」

 サリーちゃんは右手で僕をつねろうとしたが、ふと思い直したのか、左手の指を弛めてデコピンの準備をした。

「そっちでええの?」

「いいんです。受け止めて、くれますか?」

「――ええよ」

「ぎゃーていぎゃーてい、はらぎゃー、てい!」


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サリーちゃんの不浄の左手 のらきじ @torakijiA

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