18 決戦

 かつて様々な思い出が紡がれてきただろう校舎のあちこちに無法者の牙が突き立てられていた。当人に真意を尋ねてみれば、その答えは既に得ていたことと知り、桐沢と東雲は及ばずながらも――及びたくなどないとも思いつつ――それぞれ学校において手持ち可能の最大の破壊力を持つ消火器を武器に破壊に協力しだした。多少の躊躇はあったが、現状を好ましい方向に進ませるには忍耐も必要であった。

「クセになったらどうしよう?」赤い凶器を抱えながら東雲が言った。

「ガラス割りながら言わないでよ。シャケ、十和田達は出てきそう? さっきの、山野辺だよね?」

「ああ。一旦止まったってことは、次はそうだな……」

 シャケは近くのロッカーからはみ出た掃除用具からほうきを三本調達すると、それを束ねた。

 あの有名な話をするつもりだろうか――懸命に消火器を振り回している東雲を横目に、桐沢は毛利元就の話を思い出した。

「三人まとめて飛んで火にいる夏の虫になってくれると思うぜ」

 あっさりへし折って廊下の遥か反対側まで投げ捨てながら、シャケはあっけらかんと語った。

 粗方破壊しつくし、シャケは上へ上へと向かっていった。追い詰められれば最も遠くへ離れようとするものだし、山野辺の位置からしても上から来たであろうことは明白である。屋上が決戦の場となるだろう。

 そして、前哨戦が今まさに始まろうとしていた。

 突如として紅色が波打ち、割れた窓をはじめに炎が校舎へと流れ込んだ。縦横無尽に走る炎はシャケたちへはしかし迫らず、かろうじて原型を保っている校舎の流れを丁寧になぞっていた。

「来たぜ。桐沢君、東雲ちゃん、なるべく守るが、自衛も大切だぞ」

 ジャージの行く末を案じるように一瞥し、まだ失われる前の酸素を音を立てて吸引し、シャケはこれから使う肉体を大きく盛り上げて確認をはじめた。熱気が下からくるが、本命はあくまで上にいる。挟まれたことへの喜びは格別なものだった。心臓を意識すれば血の循環に伴う筋肉の律動が感じられる。何よりも力が入るのは目であった。力が入るとは、無駄な力を抜くことで肉体を適切な状態に運ぶことである。綺麗に入った力はあらゆる場面で見事な働きを成し遂げる原動力となる。そして、人体においてシャケが重視するものの一つが目であった。何よりも見るということが、シャケの仕事には必要であり、生きる上での武器となった。見るとはシャケが持つ数少ない遠距離まで届く力の行使を意味するのである。空気の流れのみならず空間ごと分解して理解するに至るとき、彼の目は人体に元来備わる感覚器ではなく、鍛え抜かれた鋼鉄の矛と化す。

 邪道でさえなければ、力を振るうのは嫌いではない。邪道に堕ちればやがて自ら滅びるのみということを巨漢は経験と教訓から知っていた。

 熱の人だ。桐沢と東雲にはシャケがそう見えていた。同じ人間が出せる熱量以上のものを、シャケは溢れさせている。

「さぁて、どこから来る?」

 前傾姿勢で肉食動物の気配を醸し出しながらシャケは獲物を探した。

 来たのは炎の塊である。外から校舎を包むカーテンとなった炎を突き破ってきた。一瞬早く、シャケはその塊に手刀を叩きこんだ――しかし、桐沢と東雲にはそうとは分からなかった。目を離していないにもかかわらず、シャケは突然その体勢を変えていたのである。コン、と音を立て、燃やされた雑巾から解き放たれた瓦礫が真っ二つになって転がった。それに触れないよう、慌てて距離をとったふたりをチラリと見ると、巨漢は悠然と身構えた。骨と筋肉の動く音がゆったりと聞こえてきそうなほど大きく、緩やかに構えが現れた。豪腕の絶大な精強さの印象とは対照的に、中空に花でも咲きそうなほどの穏やかさで手のひらが軽く開かれた。徐々に炎が迫る中でシャケの姿は堂々と立つ観音のようにも見える。

 二度、三度と飛び込んでくる塊は勝手にしな垂れて墜落した。シャケが叩き落としているだろうことは桐沢と東雲にも理解できたが、実際に何をやっているかは見えていなかった。

 シャケが行ったことは、先程のように手を振り切るものではなかった。自身に到達する直前に迫りくる力に合わせただけの手をかざしただけである。塊が自ら壊れにきている結果となっていた。

 シャケらしくないな――桐沢は思う。

 攻撃は四方から続いたが、ことごとく同じ方法でシャケが処理をした。

「上、上に行かなくていいの!?」

 消火器に本来の役目を果たさせていた東雲は流石に焦りを見せ始めた。一方で桐沢はシャケが何をするのかに注目している。

 しかし、気づけはしなかった。それは馬場たち三人も同じだった。

 坊主頭の巨漢は、一歩たりとも動いていなかった。姿勢をそのままに、視線の高さを一定に保っていた。

「よし――」シャケは呟き、そこで初めて歩を進めた。

 左に下がると壊された窓があった。シャケは、助走なしでそこへ飛び込んだ。しかしその強烈な踏み込みの強さと躍動する肉体は、ロケットでも積んでいるのではないかと錯覚するほどに衝撃と速度と轟音を伴って巨漢の肉体を遠くへ飛ばした。炎のカーテンに飛び込んだ瞬間、真一文字の開脚が再び襲い掛かろうとしていた塊を粉砕した。

 ちりちりと焼けている。水分が失われジャージが焦げていく。目から水分が消えることは危険であるが、この状況はすぐに抜けられるとシャケは予測していた。どんぴしゃりで、シャケの目の前が晴れるとそこには空中に切り取られたような向かいのベランダが現れており、驚愕に染まる三人の男がいた。

 シャケが動かなかったのは、この瞬間を狙ってのことであった。これが三人の能力の複合であることは明白であった。炎でこちらの視界を包んだのなら、必ず窓の周囲を回っているはずだということも判断できた。あとは菊田の能力の使い道を考え、シャケはその動きのリズムを読み切るために視線を一定に保ち、ひたすら見続けたのである。

 いち早く反応したのは菊田だった。手すりを強く握るとベランダはぼんやり消えるように後退していくが、シャケの到達が早く、ベランダは丸ごと上へ蹴り上げられた。揺れから刹那も置かずに粉砕音が響き、彼らはその場で空へ投げ出された。しかし、これはしめたものであると三人は判断した。すぐさま山野辺のサイコキネシスが三人に救いとして発動し、空中での態勢が整えられる。ベランダを蹴り上げたシャケには空中で姿勢を制御する力はない――はずだった。

 あろうことか、シャケの動きは蹴り上げで終わることはなかった。そのまま向かいの壁まで飛んだ巨漢は、壁を穿ち身体を固定すると、すぐさま反転して壁を蹴ったのである。衝撃で壁が崩壊しかけ、その威力は速度となって空中でサイコキネシスにより次の行動へ移ろうとしていた三人に突撃した。

 気づいたのは、馬場だった。

「うそだろ!?」

 しかし、選んだ手段は間違っていた。咄嗟に放たれた炎は壁である。三人を守る壁である。

 瞬く間に一文字の鋭さが炎を割り、そこから巨体が筋肉を躍動させ、表情筋を全力で活用した満面の笑みで現れた。

 山野辺が能力の幅を広げてシャケを瓦礫に包もうと企んだが、時すでに遅し。

 まず、宙返りをしたシャケの踵が振り下ろされ、山野辺が顔を潰された。馬場が反撃に転じようとした瞬間にはその脇腹に向かって丸太と見紛うほどの巨腕が大木を叩き切る斧のごとく突き刺さっていた。菊田が炎に包まれた大鼠を呼び寄せた瞬間には、倒された二人の身体を振り回されて挟み込まれ、壁に向かって投げ捨てられた。ようやくたどり着いた大鼠は既に見切られた存在である。一瞬で力を剥ぎ取られ、あとに残るのは影のように形を保った火炎だった。

 地上まで落ちたシャケが再び校舎の壁を抉りながら駆け上り、ほとんど意識を失いかけている三人を回収したのは、まさに彼らが落ちてくるという時であった。それを土産に、シャケは桐沢と東雲のもとへ戻った。既に炎はその勢いを失い、消えつつあったが、驚くべきは僅かな時間で三人の敵を叩き潰したシャケの行動であった。

「また、力任せにやってきたんだね」持ってこられた三人を凝視しながら桐沢が言った。今回の事件の中核にある内の三人が、ズタボロになって目の前にいた。カッと、昼休みに追いかけられたことから始まる一連の記憶が鮮明に蘇った。記憶は感情を呼び起こすが、そこには東雲に対する恐怖などは既にない。彼女も横で同じような状態にあったのだろう、怒りとも悲しみともつかない表情を作っていたのである。

「さぁて、一発ぶん殴ったれ。あんたら二人には、その権利がある」直立のシャケが言った。

 最初に三人に殴りかかったのは東雲だった。しっかり握りしめた拳で、頬を完璧に捉えていた。

 東雲は人を殴ったことがないわけではない。小学生の頃に何度か、中学では一度だけ大ゲンカをして人を殴った。その時は、感情任せで、拳も咄嗟に出ていた。いま思えば、あれは自分の意志を相手に理解してもらうためのものだったのだろう。しかし、たったいま解き放った拳は違った。相手への報復のみがあったからか、拳は入念に作られていた。彼女は初めて、全力の拳が何よりも、自分に痛みを与えるのだと知った。

「このやろう」桐沢が続いた。「このやろう、このやろう――」

 彼らが何をしたのかを確かめるように、自分たちが知らぬ間に何をされてきたのかを恐れるように。桐沢は自分の恨みと共に、彼らがばら撒いた憎悪と悲哀への仇討ちを何よりも強く拳に込めた。

 やりすぎになる前に、シャケが強く止めた。「まだ使えるから、やりすぎるな」

「使える……?」

「ああ。屋上だ。こいつらを送り返すぞ」

 宣言するが早いか、シャケは三人をまとめて抱え、屋上へと向かった――

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