17 タイムリミット
極めて原始的な方法での攻撃を選んだシャケは、それで事を成し遂げられるとは考えていなかった。追い詰められた先に凶暴な獣と化した十和田達がどこへ逃げるかは既に想像がついており、彼の狙いもまたそこで決着をつけることだった。
喧嘩自慢の姿も見えた十和田配下の生徒達は、揃いも揃って地に伏していた。単に痛みによるものだが、その内実は二通りである。あっさりと転がされたことにショックを受けた者もいれば、ピクピクと衝撃の強さに身体を震えさせている者もいた。立浪は後者である。何が起きたかさえ分からずに、振り回された他の生徒にぶつかった挙句、まとめて豪脚の波にかっさらわれていた。彼は想像もしていなかっただろう。人間がこんなにも簡単に、大勢一斉に吹き飛ばされるなど。それが自然現象などではなく、一個人によって引き起こされるなど、とても……。
動けないでいる生徒達を片付け終わった――脇から肩を掴んで引っ張っただけだが――ふたりは、最後に立浪を囲んだ。挟み込んだ桐沢と東雲の影は対照に伸び、綺麗に立浪を包み込んだ。
「どうしてくれようか?」桐沢が東雲の顔を見ずに言った。
「どうしようね」
言いながら、東雲は立浪のズボンを脱がせた。少し躊躇しながらも、立浪の顔にズボンを被せベルトでがっちり固定すると、罪悪感を滲ませながらの満足気な表情で一発蹴りを入れた。一連の行動を見ていた桐沢は最初ぎょっとなり止めようとする手を前に出したが、すぐにこの報復に心から賛同すると救いの手をひっこめた。行動の是非は気にしないことにした。
「変なもの食べさせられたんだから、その辺の虫でも口に入れた方がよかったんじゃない?」
「探すの面倒だよ」割とクールに。
「東雲さん、結構やる人だよね。十和田の家でもノリノリだったし」
「普段はこうじゃないよ?」少し焦って。
「やっぱり女子ってそうなんだ」
「女子の何が悪いの……?」唇を尖らせて。
「ごめん、悪くない、悪くない」
「でしょ!」安心しきったように顔をほころばせて。
桐沢は表情を固まらせて、ジッと彼女の顔を凝視した。なんと素直なものだろう。この状況では感情が理性を上回るのだろうか。恐怖などどこ吹く風である。
「前言撤回。東雲さんがこうなんだ」
「えー? 何それ」
「なんでもないよ。それより、シャケ――」
桐沢はあんぐりと口を開け、坊主頭の巨漢が更なる暴挙に出ようとしている瞬間を自身の網膜にはっきりと焼きつけてしまった。
シャケは小道に関わる全てを破壊しつくしていた。木々は蹴り倒され、石畳は踏み砕かれ、土という土が水飛沫のように奔流を伴って乱れた。気分の高揚からか、ぱつんぱつんのジャージは更に盛り上がっている。声の出るおもちゃのように絶え間なく品のない大笑いを流し、巨腕に鷲掴みにされている尖った木を振り回して一心不乱に大破壊に興じている。台風が来ればこうなるだろうか? 桐沢は熟考するが、結論はシャケの方がヒドイ、であった。
「シャケ! もう何度目か分からないけどさ! 何やってるの!?」
「ひゅーははは! ここの構成要素を完全に壊してんだよ。世界を構成する要素が砕ければもう維持はできん。要するに、奴らが二度とここへ逃げ帰ってこれないようにしている!」
「十和田達はどこに行ったの? あと、僕らにぶつけないでよね!」
「ぶつかりそうになったら避けろ! 十和田達は学校だ。あの静かで、不気味な、学校だ」一瞬動きを止めると身体を百八十度回転させ、その先に向かって乾いた粉砕音を響かせながらシャケは言った。「あそこで決着をつけるぜ! 向こうもあそこが本命だろうからな!」
全力で振り回して空間にぶつけた反動で粉々になった木を投げ捨てると、シャケはタイミングを見計らい指ぱっちんでやけに綺麗な音を出した。それと少しズレて、留まっていた木の葉がゆらゆらと舞いだす。同時に、周囲から色が消えていった。外縁だけを残しながら透明になっていく景色で、シャケは二人のそばまで歩き、その瞬間を待った。
自分たちも色が消えるのかと恐れおののいていた桐沢と東雲は、気がつけば何の変哲もない猫塚の小道に立っていた。周囲には生徒達も倒れている。
「戻ったぜ」
宣言すると、シャケは倒れている生徒達を一ヶ所に集め、それぞれの服を使って全員を拘束した。あまりにもきつく縛っていたため、これは解くのも大変そうだと桐沢は気の毒に思う。彼らは相手が悪かった。
「さて、行くとするか」
見上げた先には校舎があった。既に静寂の校舎になっていると、少年にも分かっていた。眼鏡をくい、と整える。傷の借りを返す時がついに来た。東雲も表情筋を強張らせ、復讐の時に闘志を燃やしていた。
シャケは、合掌すると決意を紡いだ。
「重間司津子さんよ、敵はとるぜ」
突入はシャケの意見で正門からになった。このような場面でこそ、堂々となすことは礼儀に他ならないという。どのような礼儀かと聞く高校生二人に、シャケは笑って答えた。
「勝つ野郎のだ」
まずもって勢いよく開けられた昇降口のガラスが破壊された。
「実際の学校には何の影響もないからって……」
「なぁに。これも作戦だ」
次いで、下駄箱が殴り飛ばされた。すのこの破片が散り、昇降口には広大な空間が出来上がった。左右にへこみながら飛んでいった下駄箱からはガラガラと靴が飛び出ている。
なおも破壊は続いた。歩く先で見つかるものは壁だろうがドアだろうが蹴り、殴り。消火器を掴んでは手近な所へ放り高く鋭い音を響かせた。通った先はすっかり風通しが良くなっていた。代償として、歩くにはつらい廊下になっていたことについては桐沢も東雲も文句をつけなかった。そうならないだろうとは確信していたが、ここで文句を出せば彼の機嫌を損ねてしまうだろうと思ったのだ。今はノリノリでいい。言う通りの作戦なのだろう。それに、ふたりにしても彼の破壊行為はどこかすっきりとさせられた。学校生活の全てが楽しいという生徒はそうそういるものではない。ある者は突然の物理的崩壊を夢想し、ある者は武装集団による日常の完全なる崩壊を妄想し、ある者は漆黒に包まれた巨体が唸り声と共に尻尾を振り回しながら流線型の鋭さを武器に持つ野太い足で校舎を踏み潰し、おまけに街に向かって蒼白い光を放って燃やし尽くす様を理想としている。そんなことは現実には起きない。しかし、この小さな社会が粉々になるということは学生にまとわりつく日々の苦労の中で当然として存在する欲望でもあった。シャケがやっているのは、そのような徹底的な破壊であった。そしてこれは、十和田達にとってもそうであると同時に、欲望とは真逆のものである。悪夢そのものであろう。現実に起きえないだろうと思っていたであろうことに関してもそうである。
「やりすぎはそれまでと受け取り方が違うんだね」綺麗に抉られた壁をなぞりながら東雲は感嘆した。
* * *
状況は最悪だと十和田は読んだ。まさか、あの空間が見破られるとは思わなかったし、ああも簡単に暴かれるとも思っていなかった。学校とは違い、菊田が得た能力との複合で発生させた異空間だったが、それすら変態の前には無力だったのである。肉体的なダメージはほとんどない――あったとしても古賀の能力でなんとかなった――が、精神的にはだいぶ参っていた。猫塚から掘り出した死骸を食べる時も、自分の発案とはいえこの世の終わりを迎えたようなひどい消沈と悲観論者の気分を味わったものである。しかし、今の状況はその比ではない。あらゆるものが確実に終わりを迎えようとしている。
屋上に辿り着くといち早く馬場に動きを押さえられ、フェンスを背に倒された。
「顔が疲れている。休め」
「ダメよ。急がなきゃ。あの変態筋肉は私たちを確実に仕留めにきている。見たでしょう? あいつ素手で木を鋭利にして投げつけてきたのよ。あれで殺意がないとかありえないじゃない。ここまで追い込んだら殺人手段はいくらでもあるわ……。こっちが早めに、死なない身体になった方が得策よ」
馬場の顔に緊張が走り、それは他のメンバー全員に広まった。
「ちょっと餌が足りないけど、なんとかしなきゃいけないのは今この時だから。やるわ。ハッタリもかましちゃったし。あと十五分程度なんとかしてみせる。だから――」
努めて冷血に、十和田は苦楽を共にした友達を見回した。そこに後悔と苦悩があったことを分からない者はいなかった。
「なんとしても十五分、あの変態を止めて。たとえ、死んでも。不老不死が完成すれば、みんなを生き返らせることだってできる。これは死の放棄ではなく、生命の供給なのだから」
ここまで至るのに重ねたものはあまりにも大きい。殺人だって何度も犯した。それらすべてが無駄になるなど、十和田には耐えられなかった。端麗な顔が小風に揺れる花のようにふらふらと定まらず、破滅前の消え去る蝋燭が如き美しさが儚く浮かんだ。
然るに、全員の決意はまったくもって同じであった。十和田が言うなら行く先が煉獄であろうと構わない。無論、欲望の類は大きい。しかし、友達である。それもまた大きい。一人残らず体験した圧倒的暴力の前に恐怖は震えと涙と吐き気をもって危険信号を発するが、それぞれは動き出す十和田にそれを止める力を受け取り、校舎を下っていった。唯一、古賀だけが残った。十和田がこれから行うことは、失敗すれば十和田が死んでしまう危険性だってある。傷を治す古賀の力は必須であった。
「もなみん、見てるから」
「ありがとう、卯月」
ふう、と十和田は空を見上げた。もう夕方だ。あと十五分で全ての決着がつく。夕陽がその姿を保っていられるうちに――
白いミミズが屋上へ通じるドアを封鎖したのを見ると、十和田は立ち上がった。人差し指で空中に四角をなぞると、そこに突如として黒い箱が出現した。中から一回り小さい長方形の木箱を取り出すと、それを屋上の中央あたりに持っていき、グッと全身に力を込めた。
「ここだ、ここにいる。猫よ、猫よ、餌がある」
木箱がひとりでに震えだし、十和田はつう、と冷や汗を流した。
――芳孝翁の残した資料や伝承から、黒猫の力を通じて自らの脳を擬似的な覚醒に導くことには成功した。しかし、問題はここからである。不老不死。人類の夢だとさえいえるこれを成し遂げるには、入念な準備が必要だったし、また、実行においても並々ならぬ知識と精神力を必要とした。これから、苦痛を集めた餌を体内の『猫』に与えて再度覚醒させ、その能力を更に進化させねばならない。それはまず最初に、生命についての進化が行われることになる。既に死した身が改めて覚醒するには、生命の補充が必要だ。十和田達が狙う不老不死はそこにある。その際に発生する生命エネルギーの行く先を自分たちにすることで、通常ではありえない生命の供給を果たし不老不死を実現する。言うなればこれは、どんどん後ろから消えていくと同時に勝手に進んでしまう道を永遠に元に戻し続ける、そんな作業だった。
古賀が見守る中、十和田の挑戦が始まった。
その時、ぐらりと校舎が揺れたように思えた。それがどんどん続いていく――
* * *
一方。まず先陣を切った山野辺はボロボロになっていく校舎を遠目に戦慄していた。屋上での決意に嘘はないが、真下で行われている破壊の嵐はそれすらも吹き飛ばす苛烈さで上に迫っていった。
――殺される!
そうなることを覚悟したうえで降りたはずである。だが、危機感の大きさはそれを容易く上回ってしまったのだ。それでも、震える指先でサイコキネシスを使った。丁度、シャケが壊した数々が、彼らを襲うようにして――
結果は惨憺たる有様だった。動かしたものの全ては残像さえ残して動き回る巨大な力の塊の前に更に粉々に、あるいは、ひとまとめにされて放り投げられ、それが更なる破壊を生み出す結果へと繋がった。
そして、これは山野辺の接近をシャケに気づかせることになった。
遠く離れている。なのにシャケは山野辺を睨みつけていた。轟音とそれを上回る雄叫びを誇りながら彼はあらゆるものを巻き込んで突き進んだ。
しりもちをついた山野辺の肩に、二つの手が置かれた。馬場と菊田である。
「協力してしとめよう」菊田が震えに耐えて言った。
「なんとかなるかもしれねぇ」馬場は、帽子を被り直して言った。
三人は頷き合い、迫る巨漢を迎え撃つ準備を始めた。
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