11 解放
ガラリと戸が開けられた。廊下から姿を見せたのは桐沢が警戒した通り、東雲である。やはりその瞳にはあらゆる関心がなく、呆けたように虚空を見つめている。恐怖が蘇りかけた桐沢は、シャケを見やった。毅然として図太い存在感を見せる瞳は対照的に熱く、あらゆる興味に燃えている。その中には事件に対するあらゆる怒りも含まれているのだろう。筋肉がみしりと力を蓄える様子さえ感じられた。
今、桐沢の震える心には追い風が吹き、震えを良きものへと昇華させていた。
追い風は二つあった。一つは、力強く野性的なシャケ。もう一つは、目の前にある東雲である。シャケがそばにいることで今の東雲の異常性が浮き彫りになり、その身に起きている事実と予測されうる彼女の悲劇が桐沢の義憤を駆り立てた。
「シャケ、確認するよ。東雲は本当に、意識がないんだよね?」
「確信したよ。間違いなく自分の意志で動いちゃいねぇ。中に入った何かについては、本人の意思で招き入れたかどうかは分からんが、少なくとも今現在は無意識だろう。行動に自主性が見当たらねぇよ」
「僕が見たの、さっきのミミズみたいなのじゃないよね?」
「違うだろうな。あれに人を操る力はないだろう。古賀君のは遺物に関して再現した能力だと思う。似ていても違う力だ。それに、あれはここだけのことだろうよ」
「猫塚の死骸を食べて、だよね。いったいどういう死骸だよ……」
「超能力猫」それだけ言うと、シャケは一歩近づいた東雲に突進し、胸の中心部を小突いた。それだけでもたいそうな威力だったらしく、東雲は重心を後ろに崩され後退した。シャケは更に動き、ぶっきらぼうに腕を払うと彼女を回し、その背中をとって羽交い絞めにした。一瞬の出来事であった。
シャケの一言が気にかかったが、桐沢はまったくの早業に、可能な限り素早く対応した。
「シャケ! 僕どうすればいい!? このまま東雲を、えっと、どうしよう!」
「年頃だ。あちこち触ってやれと言ってやりたいが、それじゃあかわいそうってもんよ。あとで同意取りな。ギリギリまで近づいてくれ! 今から身体に入ったものを吐かせるからな。桐沢君に飛び込むかもしれんが、そこは逃がさずにうまくキャッチしろ! でなけりゃ喉から手ぇ突っ込んで引っこ抜いてやる!」
「オーケー! キャッチする!」唐突な喉への侵攻予告に精一杯の防衛を選んだ少年は、息を荒く、瞬きの回数を増やして渦巻く不安をごまかしながら近づいた。
東雲の抵抗は激しいものだったということを、桐沢は知りえなかった。ビクビクと支配された身を捻ってはいるが、シャケはビクともしない。力に差がありすぎるのは明白だったが、それ以上にシャケの押さえ方がとてもうまかった。的確に力を逃がしていた。今や、東雲は暴れる赤子で、シャケはそれを抱える親である。
坊主頭の巨漢は、息を吐いた。腹の底から一切を吐き切ると目が澄むのを感じる。それを起点に、全身が鋭敏化され自身の肉体と周囲との境目があやふやになっていった。羽交い絞めにした東雲の肉体さえも、血の流れから肉の揺れ動きさえ手に取るように分かる。全身で探り、目をつけていくと、目当てである細い線を彼女の肺近くに感じ取った。心臓ではないらしかったことに、シャケは安堵する。それは彼女の身体に流れる生命のリズムから浮いており、明らかな異物として主張されていた。決して見放さず、東雲の動きを止めたままにシャケはゆっくりと片膝を腰の位置まで持ってきた。鋭くなっているのは感覚だけではない。ボディコントロールの巧みさは、シャケ自身、師からよく褒められたものであるが、彼から学んだこの集中法により指一つ曲げることにもありとあらゆる動きの流れを見て取れるようになり、またそれを刹那が遥かな時の集合体であると自覚できるほどの時間感覚で処理できるようになった。僅かな乱れも許さず、シャケは膝を尖らせて最も効果的な威力を正確な方向に運び、東雲の背中から的確に入り込んだ遺物へとぶつけた。危険を感じたのか、たじろぎに暴れだすそれは上へ上へと登り、遂に喉を通り東雲の口から飛び出た。
白いミミズのようであるが、古賀が操っていた虫よりも遥かに細い。空中で踊る瞬間を狙い、桐沢は細長いそれを両手で掴んだが、感触はまるでない。確かに掴んだということだけ分かるのが奇妙だった。更におかしなことに、包んだ手がどこか気持ちよくなってきそうである。手のひらからほのかな温かさだけが伝わってくるかのようだ。
「シャケ、これまずいよ。なんか、やばい。語彙がなくてごめん。やばい、やばい、なんか魅力あるよこれ。東雲どうなってる?」
「俺が手を放したら倒れるな。目ぇ閉じてるし、ぐったりして力が全然入ってねぇ。ちょっと待て」
脱力しきった東雲を近くの椅子に座らせると、シャケは桐沢の手の中に収まった遺物を受け取った。親指と人差し指で摘まみ上げると、しげしげと眺める。白いミミズのような、猫塚の遺物はうねりつづけた。
「このテのは、餌……だな。餌のさらに餌を食って大きくなるんだろう。ははん、読めてきたぞ。桐沢君が東雲ちゃんにキスされたのはこれが原因か」納得したらしく、シャケはうんうんと頷く。
「こういうの見たことあるの?」
「師匠に標本見せられて教育されたし、実際に取り扱ったこともある。厄介なやつでな。桐沢君の話と統合すると、こいつはおそらく――」
遺物についての解説を始めようとした瞬間、シャケは再び足音を聞き取った。数は多い。少し遅れて、桐沢も気づくと、椅子に座らされた東雲に走った。
シャケは遺物を結んでおとなしくさせ、ジャージのポケットに突っ込んだ。
「同じのが来やがったらしい。桐沢君、ちょっと脱出するぞ。東雲ちゃんを抱えられるか?」言いながら振り向けば、既に少年は少女を背負おうと必死に腕を引っ張っていた。にこやかに巨漢が手を貸すと、ずしりと重さが伝わってくる姿勢で桐沢が東雲を背中に乗せた。「頼むぜ。残りの連中も吐き出させてやりたいが、この作業ばっかりはただ引っぺがすより神経使うんでな。群がられたんじゃ難しい。ここは少し、おねんねしてもらう方向でいくぜ」
コクリと頷くのを見ると、二人は駆け出した。
廊下を塞ぐように歩く幾人かの生徒たちは、揃いも揃って東雲と同じ表情をしていた。先頭を突っ切るシャケは、通りすがり際に手刀を丁寧に当てていき、桐沢が通り頃には塞いでいた生徒たちは一人残らず地に伏していた。
二人の足は、いまだに生徒会室へ向かっていた。
その時である。
世界が再び動いた。
ないものはない。あるべきものだけがそこにある。何一つ失われていない校舎に、倒れ伏した生徒たち。傍らには足を止めた、ぱつんぱつんのジャージ姿の巨漢があった。
悲鳴が上がる。「やべっ」と呟き、シャケは近場の窓を開けて飛び降りた。桐沢は東雲を背負ったまま立ち尽くし、気がついたように保健室へ向かった。
もぞもぞと、背中で小さな動きがある。今になり、桐沢は東雲の身体の感触を背面全体で感じ取り、意識してしまった。爽やかな香りがふぅと漂っていたのに気づかなかったのは、状況の危険性ゆえだったのか。小さな唇から漏れる音と熱の全てが少年には魔性そのものである。
なるべく見られないように、桐沢は急ぎで東雲を運んだ。保健室が必要なのは東雲の方だったが、追い込まれていたのは桐沢も同じである。少年を追い込むのは、周囲の状況と、現在の状態の二つであったが。いずれにせよ、全ては東雲永佳の存在から発生しているものであった。
保健室は、こちらでも留守であった。代わりに、ほぼ同時に窓から怪しい格好をした大男が忍び込み、サッとカーテンを閉めた。
「警察沙汰かもね」半覚醒気味の東雲をベッドに降ろしながら、桐沢は率直に言い放った。
シャケは、人の集まりで滑ったギャグを言ったあとのように、苦笑いを浮かべていた。
「見事に罠にはまったなぁ。こりゃまずいぞ。学校にジャージ姿のワイルドな変態現る、だ」
「狙われたの? この状況を?」
「ああ。俺がああやって突破するのを読んで、見事こっちでの俺を怪しくワイルドで暴力的な変態に仕立て上げやがった」
それは本当のことだろう――と言おうとしたが、桐沢は残された良心でそれをまるまる飲み込んだ。
「桐沢君……?」
眠い目をこすり、一つあくびをしてから東雲はクラスメイトの存在に気づいた。ここが保健室で、自分がベッドに寝かせられているということも。
「私どうして――キャっ!」
叫びそうになった少女の口を、桐沢は大慌てで押さえこんだ。
見るなり叫ばれそうになったシャケは、それは笑って流した。
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