10 対決
腕を一振りすると、野球帽が浮かび上がり服のあちこちがなびいた。馬場の掌の隙間を縫って現出した炎は確かな存在感でエネルギーを持ち、空中を蛇行しながら筋肉に溢れる巨漢へと走った。轟々と迫る鮮やかな火炎が到達するまで一秒となかったが、シャケは片手を立て、炎が触れた瞬間それを逸らした。再び驚きが馬場の表情に到来するのを予測すると、桐沢を押して伏させ、第二波が来る前にネコ科の動物が如き俊敏な動きを見せた。
馬場にとって幸運だったのは、この巨漢に何ができるのかを事前に知ることができたことである。驚きから立ち直るのは実に早かった。自分の炎が容易く払われるとは思っていなかったが、それならばと対策はあった。狙いをつけている暇はない。すぐさま腹の底から沸き上がる高揚感を全身に拡散し、次の炎を解き放った。当たろうが当たるまいが構わなかった。そして、これに関してはシャケに効果的であった。
大口を開けて凶悪極まりない牙を剥いた肉食動物よりも恐怖と絶望を煽る大男は、その威圧感を自らの足と共に止め、放たれた炎の切っ先に跳ねた。猛々しい風を巻き起こしながらシャケの身体が半回転し、桐沢を狙った炎を分厚い脚が打ち払う。それと前後し、床面をぶちやぶり白い線がシャケの足元を狙って蠢いた。
「おや、おや」連携には感心し、迫りくる白い虫を足刀で切り飛ばすと、シャケは着地した。しかし、それも一瞬である。すぐさま腰から動き、切り飛ばされた虫が屋上床につく前に桐沢のもとへと走り去った。馬場と古賀には、走る体勢に写る瞬間が目撃できなかった。
三度火炎が放たれるが、シャケは走りながら桐沢を脇に抱え上げ、そのままの勢いでUターンし真っ直ぐ馬場と古賀を目がけた。
静かだが暴性をたたえた目でしっかりと巨漢と少年を見据え、馬場は指を動かし炎を前後から挟み込むように繰った。古賀と山野辺への被害を避けるため、庇いつつもいつでも動けるよう位置取りに気を遣っている。
炎が迫るたびに揺らめきが強くなり、熱が増した。半ば悲鳴を上げている桐沢の頭を抱えると、シャケは右足を高く掲げ、怒号と共に屋上床へ振り下ろした。桐沢には、空気を切り裂く鋭い音が、大音量で届いていた。シャケの大きな足は鈍い音を響かせながら床を粉々に粉砕し、大穴をあけた。舞い上がる瓦礫が炎に包まれた瞬間、二人の身体は穴を通り下へと降りて行った。
一瞬の破壊劇に唖然とし、馬場と古賀は緊迫した意識の糸を緩めてしまった。もし、これさえ予想できていれば、真下を駆け抜ける音に気がついたことであろう。
次の瞬間には、床を割って突き出た巨大な掌に古賀は足を掴まれ、膝まで引きずり込まれていた。驚愕に血相を変える少女を助けようと馬場が前から抱き上げるが、一歩遅く、乾いた嫌な音が届くと同時に古賀が悲鳴を上げた。
「ぎゃあああ!」
目を剥いて激痛を訴える古賀を、馬場はひたすら抱き上げた。膝を折られたらしいが、古賀本人の能力で治せるはずである。
「ぎ、痛いよぉぉ! がぁぁぁ!」
「古賀、我慢しろ! 虫を使え!」必死に叫ぶ馬場は、ふと気づき、背筋を凍らせた。
古賀は、膝を折られている。あの巨漢がやったことは間違いない。では、その巨漢はどこにいる? 当然、真下のはず。
馬場は咄嗟に位置を変えた。再び古賀を抱き上げる。やっとこさ抜けた。ぶらりとなった古賀の膝に、虫が集まる。瞬く間に古賀の苦悶がゆらいでいき、足が回復を始めた。何度見ても凄いものだと感心する。そのまま、少女に負担がかからないよう自分にしがみつかせるようにすると、ふらふらと立ち上がれるまでになった山野辺に肩を貸し、その場から去ろうと出口を目指す。
しかし、それは叶わなかった。
出口へ向かおうと足に力を入れた瞬間、突如として盛り上がった屋上床に乗って三人は高く打ち上げられた。急激な浮遊感に空中で転倒した馬場につられ、三人は揃って落ちた。その途中、彼らの目に映ったのは、天井ごと蹴り上げて屋上を破壊したばかりのシャケの姿であった。高々と上げられた足を誇るように姿勢に気を遣いながら、なおも昇ってくる巨漢の顔にはこれまでにない笑みが広まっている。
「よっしゃあ!」前宙して体勢を整えると、シャケは一足早く屋上に舞い戻り、適当な破片を掴んだ。
怪力の巨漢が何をしようとしているかを理解した馬場は、すぐさま炎を巻き起こす。意識を手と火が走る軌道に集中させ、より鮮やかに、細く狭い火柱が下に向けられた。シャケは構わずに銃弾同然の勢いで破片を投げつけたが、炎を突き破り進んだ果てに馬場の耳をかすめただけだった。うまく庇えたため、自分を頼りに身体を預けている二人には特に被害はない。
命拾いをした――馬場はそう判断する。一際冷静な野球帽の青年は、弱々しさを醸し出しはじめた目を仲間に向けた。逃げなければならない。全員の思いは一致した。次が来る前に、なんとかしなければ。彼らはシャケが次の弾を用意する前に着地した。
すぐさま馬場が炎をあたり一面に広げ、屋上は紅色に包まれた。
負傷した馬場の耳に虫を這わせようと、古賀は白い彼らを集めようとしたが、馬場はそれを制した。
「あとでいい。ギリギリまで山野辺と自分を回復させておけ」
確かに軽傷であるが、それでも血は流れていた。歯ぎしりと共に、古賀は山野辺ともう一方に集中する。
シャケは既に狙いをつけ終わり、次の弾を掴もうとするが、あらゆるところに沸いた白いミミズに破片をことごとく片づけられてしまった。舌打ちを一つ。三人が降り立ったと思わしき方をギロリと睨むと、真っ正直に猛獣の迫力で駆け出した。息苦しさと熱さは気にする必要もなかった。気がかりは、服だけである。勢いを増す火炎地獄に借りた服が使い物にならなくなってきた。
心の中で桐沢とその父に詫びながら、シャケは勘を頼りに一際大きく足場を蹴ると、ほぼ一直線に飛んで足底を先へと伸ばした。触れたのは柔らかな虫の感触で、ぞわぞわとまとわりついてきた。
二度目の舌打ち。
足を振って虫を払いのけるのと同時に、炎が円を描きながら収縮し、すぐに消えた。
「逃げたか。今度はどこだ?」まだこの、誰もいない学校に残っているだろうことは分かっていた。シャケの推測では、彼らの力はここでしか使えないもののはずである。いっそ、この空間を丸々引っぺがせればいいのだが、それはまだできそうにはなかった。作られた空間が広く、力の流れも複雑で、そうほいほいとやってのけられない。
シャケは穴から下の部屋――視聴覚室に戻り、まだ呆気にとられている桐沢にデコピンをくらわせて正気に戻した。
「あっ……怪物」
「率直な感想ありがとよ。だけどほら、人間だぜぇ!」すっかり燃え尽きた服は脱ぎ捨てられていた。人間の肉体美がみっちりと広がる。炎を受けても男の筋肉はその輝きを失っておらず、益々と力に溢れているようにさえ見える。素晴らしいまでに誇られた身体は、要するに全裸だった。
「ちょっと! お父さんの服! 遺品ー!」我に返ってすぐに見せられたのが鍛え抜かれた屈強な肉体であることよりも、父の服が失われたことに桐沢は失望と悲哀と怒りを込めた。
「いや、すまんすまん。俺も頑張ったんだが……いや、嘘はよくないな。手柄を焦りすぎた。つい、炎に飛び込んじまってな。もっと速く、もっと巧く走ることができていれば、桐沢君のお父さんの服はまだ俺のマッスルを隠せていたんだ。許せ、鍛錬不足だ。腹筋殴っていいぜ」
言われるがままに、桐沢は強調されたシャケの腹筋に拳をぶつけた……が、まるで人間の身体を打ったとは思えない感触が返り、一瞬の内に熱と寒気が通った。むしろ痛みが強く残った。昔、遊び半分で公園の樹を殴って痛い思いをしたのを思い出させる。もっとも、シャケの身体はあれよりも堅そうだった。
「桐沢君よ、そういう殴り方はいかんぞ。倒せん」
「じゃあ、どう殴るって言うの?」眼鏡をクイ、と上げながら桐沢は聞いた。
それはもう、と構えたシャケは近くの壁に向かって姿勢を正し、まるで力が入っているようには思えない流麗さをもって腰から身体を回し、拳を突いた。美しい動作ではあったが、最後には目にも止まらぬ速さで壁にぶつかり、粉砕して穴をあけていた。
あまりのことに、桐沢は顔を険しくしながら、
「無理」とだけ言い放った。
「これをやるようになれとは言わんさ。だけど、覚えといて損はなかろうて」腰に手を当て、ニッと笑い、シャケは自身の拳をまじまじと見つめる少年の肩を叩いた。これは桐沢にとって気分のいいものではなかった。何せ、今まさに壁に穴をあけた男の手なのである。血の付いたナイフを押し当てられているようなものだ。
シャケは、桐沢曰く「お化け退治」の経験から導いた推測を明かし、逃げた三人を追う旨を伝えた。
桐沢はそれに賛同し、歩き出すと同時にシャケに疑問をぶつけた。
「シャケ、もしかしていつもこんなことやってるの? こんな力任せ。お化け退治の人って、みんなこうなの?」
「みんながみんなこうじゃねーよ。どちらかと言えば俺が少数派だ。師匠は凄いぞ。あのジジイは調子に乗ってる時は音楽聞きながら鼻歌交じりに街に広まった異変を片付けたからな。CDアルバム一枚分が終わるころには満足気な顔して怪物の屍を踏みながら仕事終えて帰っていったらしい。俺から言わせれば師匠が一番の怪物だな」
酷い言い様ではあったが、どこかしら師を誇るシャケの顔は親の仕事を自慢する子供そのものであり、桐沢は微笑ましくなった。
「今回だって、師匠が多忙じゃなけりゃもう終わってるだろうよ。俺が来るよりあのジジイのクローンでも作った方が手っ取り早いんだよなぁ。だけどそれは俺が反対だ。師匠が増えるなんて怖くて怖くて仕方ねぇ」心底嫌そうに、全裸の身を震わせてシャケは喋り続けた。
二人は一路を再び生徒会室に戻した。拠点となる場所は、きっとそこであると当たりをつけたのである。
気がつけば、移動は歩きから走りへと変わっていた。逃がさないという意志の表れでもあったが、精神的に桐沢に余裕と勢いが出たためでもある。生徒たちの異様な力、シャケの圧倒的な力、そして、不可思議が解かれつつある事件に、彼の心は今を生き延び胸に宿ったものを成し遂げるべく、強く変わっていた。
再度の静寂に満ちていた校舎に響く足音は、今度は生命力に溢れている。一名ほど全裸だったので、尚更だった。遅まきながらそのことを深刻に意識した桐沢は、また元の空間に戻ってしまう前にシャケに服を着せることにした。再び、近くの教室から適当なジャージを拾ってくる。
「そういえば、このジャージは会長の力で作られてるわけじゃないんだよね?」
「校舎に元からあるものだけだろうな。より正確に言えば、校舎を象るものなんだろうが……個人の持ち物は別ってわけだ」再びぱつんぱつんのジャージ姿になり、シャケは語った。
今度こそ生徒会室へと動き出そうとした二人の耳に、足音が届いた。ゆったりとしている。一人で歩いてきているらしい。
覚えのある歩調に、桐沢は警戒した。
「東雲だ」
「俺たちにぶつけて時間稼ぎってわけかねぇ。悪党らしくていいじゃないか」険しく、シャケは言った。「気をつけろ。今後何人くるか分かったもんじゃねぇ」
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